2-7 彼の六月。後編。
『親友の大野 健司さんに貴方のお仕事を伺いました。私、今まで大学の学芸員さんに偉そうに本の説明をしていたのね』
そんな書き出しで多少気を悪くする。無論、彼女ではなく大野の奴にだ。いったいいつ親友と呼べる関係になったのだか小一時間ほど問い詰めたい気分になった。
しかし今は先を読み進めるべきだと思い直して再び便箋に視線を落とす。ここしばらく目にしなかった彼女の文字を、網膜に焼き付くのではないかというくらいに眺める。
『大野さんには他にも色々と教えて頂きましたが―――』
文面の中にある“色々”と言うのが不安をかき立てたが、そこには目を瞑る。緊張で喉が渇いたが、唾液を飲み込んでそれを誤魔化す。
――続きを読む前に、もう一度大きく深呼吸をした。
『私、貴方の名前を知っていたのね。大野さんにそのことを告げられた時は驚いてしまいました。――でも、おかしな話ですね? あれだけ一緒の空間にいたのに、私達はまだお互いのことを何も知らない』
名前を知っていた、と。彼女の筆跡でそう告げられただけで胃が痛んだ。
――それに……そうだ。
僕達は時間を分け合うことはあっても互いに知ることは何もない。この手紙に目を通している今でもそれで良いと思っている。だとしたら僕はこの手紙を最後まで読むべきではない。
今すぐこの手紙を握り潰してそこにあるゴミ箱にでも捨ててしまえば良いのだ。なのに震えるこの指は便箋の端に意気地なく小さなシワを寄せただけだった。
『けれど私だけが名前を知っているのは対等な関係とは言えないですね。だから、少しだけこの場を借りて自己紹介をします』
とはいえ、彼女らしい几帳面な文面と文字が踊る便箋に自然と意識が集中してしまう。諦めて最後まで読むことで自分の中で折り合いをつけようと視線を走らせる。
『初めまして、高尾 忍様。私は吹越 文と言います。仕事は……毎度ご贔屓にして頂いてありがとう。私の名前は家業にちなんだ物が良いとつけられたそうで、文と書いて“あや”。幼い頃は渋いこの名前が嫌だったけれど、馴染む歳になってからは気に入っています』
彼女の名前を文字で目にして、口の中で転がしてみる。響きの余韻が胸の中に広がる間も視線は便箋に釘付けになったままだ。
けれどこうして正当な手段で名前を入手する以前から、僕は彼女の名前を知っていた。
僕は彼女と知り合うずっと前からあの店の常連で、先代店主……彼女の父親とは時々言葉を交わす程度の関係だった。けれどあの店の空気や時間とは店主に次いで親密だったと思う。
そして音の少ない店の中、一月に一度月末になると店主から話しかけて来る日があった。
それはいつも伏し目がちに本の手入れをしていた店主が、けたたましく鳴る黒電話を手にした途端安らいだ微笑みを浮かべる日だ。
ほんの二言、三言、言葉を交わした後は必ず聞き役に徹して優しく相槌を打っていた姿が今でも思い出される。受話器越しに途切れ途切れに聞こえてくる女性の声が彼女だった。
《離れて暮らす娘からだよ》
受話器を戻して目許に優しいシワを刻んだ店主が、読書の合間にこっそりと聞き耳を立てていた僕にそう教えてくれた。
《身体は平気か、休みは取っているか、もう若くないんだからと……何かにつけて口の減らない娘でね》
人と関わることが苦手な僕はせっかく言葉をかけてもらったところで、曖昧に笑ってみせることしか出来なかったのだが――。
《親に似ずしっかりした娘で……これじゃあどっちが親なんだか》
そう文句らしい言葉を口にしながらも嬉しそうに微笑んでいる姿が印象的だった。それに何よりも――。
《最近は寒くなってきた。お互いに身体には気をつけなくちゃだね》
僕の中での先代は……優しい言葉を持った人、そしてその言葉のお裾分けを欠かさない人だった。
親子なのだから当然なのかもしれないが彼女の言葉は離れて暮らしていたはずなのに、どこか先代の店主に似ている。
彼女の手紙は一枚目からさらに二枚目へと続く。
『これで次回からは私達、顔見知りから知人になれますね。この前は何も言わずに帰ってしまったので、残念でした。だから次回も貴方の好きそうな本を揃えて待っているわ』
最初に来店した時、僕はまだ彼女を店主の代わりとして見ていた。心安らぐあの店内に先代と似た空気を持つ彼女がいてくれれば、それ以上に何かを求める気なんてなかった。
先代店主から聞かされていた“娘の話”が、形となってそこに存在している
ことが不思議だったくらいだ。
少しずつ言葉を交わすようになった店主の口から語られる彼女はまるで、本の中の人物のようで――。
けれどいつ頃からか月末になると、普段より足繁く店に通っている自分がいた。たまに機会を逃して後日話を聞くこともあれば、店内にいる間に黒電話がなることもあった。
黒電話の受話器の向こう側から届く穏やかな声に、いつの間にか――。
『もしも出来ることなら私は――他の誰でもなく貴方から、貴方のことを訊きたいわ。次回のご来店を心から、お待ちしています』
目を通すまでは読むのが恐ろしくすらあった手紙が、もう終わりに差し掛かっていることに名残惜しさを感じる。
我ながら身勝手な感覚に戸惑いながら、便箋の最後の一行に視線を走らせたのだが――。
『気難しい作家先生へ。町の古書店店主より』
最後の一筆は急いだのか、やや筆跡に乱れがあった。
けれどその乱れが不意に落ちた水滴で滲む。しかしそれが自分の目から零れたものだと気付くのに少し時間差が出来る。
もうあんな出来事があったせいですっかりそんな感情は失ってしまったとばかり思っていたのに――。
午後の日差しが差し込む図書館の端で、僕は……“祖母”が亡くなって以来、初めて泣いた。




