2-6 彼の六月。前編。
『六月六日です。
何だか数字が揃うと特別な気がします。今日お探しだった内容に似た本を見つけました。いくつかあったから次回選んでくれると助かります。値段も少しずつ違うから、そこは応相談にしましょうか』
先日の大野からの依頼に、彼女はすぐさま応えてくれた。
「へー、お前がいつもどこから資料探してくるのかと思ってたが……ここか。確かに何か掘り出し物がありそうな気配だな」
外から陳列されている本の背表紙を興味深そうに眺めている大野を無視して先に店に入る。すると、ドアの音を聞きつけた彼女が本棚の間から顔を出した。
「いらっしゃい。待ってて、今奥から持ってくるから」
僕と目が合うと、彼女はそう言って微笑んでくれた。しかし残念ながら今日の客は僕ではない。
「あぁ……今日選ぶのは僕ではないんだ」
「そうなの? 私てっきり貴方が選ぶのだとばかり思っていたから……」
困ったようなその返答で、彼女が僕の好みを意識して本を揃えてくれていたのだと分かる。上手く言い表せないが湧き上がって来る“何か”が僕を強く揺さぶった。
そんな困り顔の彼女を前に言葉を探していると、外にいた大野が店に入ってくる。
「お前、先に入るなら入るって言えよな。俺はてっきりお前が隣にいるもんだと思って――って、そちらは?」
「彼女がここの店主だ。それと騒がしくしてしまって申し訳ない。今日はこいつが資料を選ぶから――僕はその間、店内の物を見せてもらっていても良いだろうか?」
いつもより言葉が多くなってしまったのは、大野に余計な勘ぐりをされたくなかったからだ。
「……えぇ、勿論よ。新しく入った物はまだあっちの棚の前に箱のままで置いてあるけれど、気になる物があれば勝手に出してくれて構わないわ」
一瞬だけそう言った彼女の顔が曇ったような気がしたが、ただの見間違えだったようで、彼女はすぐに微笑んで二列ほど奥にある棚を指した。僕はそれに黙って頷くと、彼女が指した本棚へ向かう。
そう広くはない店なので目当ての箱はすぐに見つかった。
しゃがみ込んで物色すると、いくらか気になる本が見つかったので退屈せずに済みそうだ。棚を二列挟んだだけなのに、彼女と大野の話す声が並べられた本に吸い込まれ、遠退いていく。
大野の低音と彼女の中高音が心地良く重なり合う。僕はそんな二人の声をBGM代わりに、本へと意識を集中させる。
思いのほか話が弾んでいるのか、時折聴こえる談笑が、少し。
……すぐに溶け込める大野が少しだけ羨ましくなった。
あんな風になりたいとまでは言わないが、せめて彼女のあんな声を聞けるぐらいには……などと、思ったところで到底そうはなり得ない。
羨むだけ無駄だと悟った僕は、再び本へと意識を集中させる。針の穴へ糸を通すように、細く、細く、細く――深く、自分の意識に逃げ込んだ。
「――――……い」
被さるような低音に深く潜っていた意識が引き上げられる。二、三度瞬きをして本から顔を上げると、外はすでに夕方を通り過ぎる色に差し掛かっていた。
「今は――何時だ?」
「六時四十分。ったく、何回声をかけりゃ良いんだよ」
「……目当ての資料は見つかったか?」
「あぁ、バッチリだ! これで次の講義に間に合うぜ。助かった!」
くるくるとよく動く表情に人好きのする笑顔。その顔を見れば大野の言葉に嘘がないのは一目で分かった。
「それで、彼女は?」
手にした本を購入することに決めて立ち上がりつつ、他に話題を思いつかなかったので何となく訊ねた僕に、大野がらしくもなく言葉を探している気配がした。
「あぁ、冊数が結構あったからなぁ。いま奥で包んでもらってるとこなんだが――彼女、何歳なんだ? 恋人とかいるのか?」
ザワリと、心が波立つ。しかしおかしなことにどこかで安堵している自分がいるのも……また確かだった。
「恋人云々の話は聞いたことがないが――お前の好みの女は知的な雰囲気とは縁遠かった記憶があるが?」
嫌でも長い付き合いの大野がいつも連れている女のタイプくらい知っていたが……毎回騒がしいタイプの女が多くて、彼女とは似ても似つかないようなのばかりだった。
「俺もいつまでも若い気じゃいられねぇの。やっぱ歳を考えたらこれからは楽しいだけの付き合いじゃ駄目だろ? ってことで……何でも良いから彼女の情報寄越せよ」
人嫌いの僕にしては例え腐れ縁であったとしても、長い付き合いの大野が彼女に興味を持ったのなら……それも良い。
買おうと思って手にしていた本に途端に興味が失せた僕は、その本を元の箱の中へと戻した。
「手始めに彼女の名前、教えろよ」
馴れ馴れしく肩に回してこようとする大野の腕をすり抜けて、僕が知り得る限りの情報を教えてやる。
「彼女はこの店の店主だ。それ以外のことは何も知らない。知りたければ自分で訊けばいい」
「え、ちょっと待てよ、名前もか?」
「あぁ。知らない情報を与えられる訳がないだろう。目当ての本は見つかったんだ。彼女には僕が用事を思い出したから先に帰ったと伝えてくれ」
まだ何か引き留めようと声をかけてくる大野を無視して、僕は一人店の外に出た。心の中は安堵と後悔の渦に飲まれそうだったが、もう振り返る勇気もない。
――夏の匂いのし始めたアスファルトの上に、夕と夜の淡いが交じった。
***
「これ、彼女からお前宛てに預かったぞ」
資料を探しに店に連れて行ってから二週間後の六月二十日。大学内の図書館で大野にそう声をかけられた。
「悪いが調べ物中だ。後にしてくれないか、大野准教授」
嘘でも冗談でもなく、急ぎの仕事中に声をかけられたせいでつい言葉が皮肉っぽくなる。
「すぐ済む」
「なら尚更後にしてくれ。次の講義に間に合わん」
いきなりねじ込まれた資料請求に神経が尖る。このうえ大野の相手など出来る余裕はどこにもなかった。しかし冷たくあしらっても大野はこの場から去るでもなく、真横に立ったまま動かない。
大野の気配を感じながら目の前に並ぶ背表紙を目当ての資料を探して読み飛ばしていく。
「顔色悪いぞ。ちゃんと飯喰ってんのか?」
――どうやら黙る気も立ち去る気もないらしい。
その質問を皮切りに“仕事が増えたのか”や“最近あまり構内で会わない”さらには“睡眠は足りているのか”などと声をかけられたが、そのどれもに適当に相槌を打っていた。
しかしそろそろ話しかけられることに苛立ち始めて追い払おうとした時だ。
「俺その教授と一緒にやったことあるけど、そん時の資料の中から類似したやつ探した方が楽かもな」
サラリと事も無げに言い出した大野の言葉に、適当な相槌を打ちそうになるところを寸でで踏みとどまる。
真横に立っていた大野を見上げれば「やっとこっち向きやがったか。この馬鹿」と苦笑された。
しかしまだ安心するのは早計だ。大野の机の上は今あったはずの物が見あたらなくなる惨状で、講師の間では七不思議の扱いになっている。
「――その資料はすぐに出せるのか?」
胡乱な目でそう訊ねれば大きく頷いて、代わりに無言で彼女からの預かり物とやらを押し付けられた。恐らく“資料を貸し出す代わりに読め”ということなのだろうが――。
受け取ろうか悩んでいる間にも今やっている講義の終了時間が近付いてくる。
しかしここで大野に借りを作りたくないという妙な意地が頭をもたげたが――終了二十分前になって、僕は渋々その封筒を受け取った。
「よし。じゃ、後は俺に任せとけ。お前はここでこれ読んで待ってろ。良いか、逃げてねぇでちゃんと読めよ? 渡したからな」
大野はそう念を押すと、こちらの言葉も聞かないでさっさと行ってしまった。言葉を失って立ち尽くす僕の手には、彼女の筆跡が踊る白い封筒。
午後の日差しが窓から差し込む図書館に、人の気配はまばらだ。パソコンやスマートフォンでの検索が主流の時代、あまり図書館を使用する学生はいないらしい。
仕事がなくなって手持ち無沙汰になった僕は仕方なく死角に設置された一人掛けの机に陣取り、深呼吸を一つしてから封筒を開く。
封筒の中には便箋が二枚、きっちりと角を合わせて折り込まれていた。便箋をめくる手が緊張で汗ばむ。
シャツの端で拭うと、背表紙で汚れていたのかそこだけが黒く汚れた。
ざわつく心を鎮める為に窓の外に目をやれば、梅雨の到来を告げる雨音で満ちている。レコード盤に針を落とすようなその音に徐々に心が落ち着くのを感じた。
その音にしばらく耳を澄ませていたものの、ようやく覚悟を決めた僕は、一枚目の便箋に視線を落としたのだった。




