2-4 彼の五月中旬頃。
「カメラを買ったって書いてあったわ」
その言葉に合わせるように一纏めに結い上げられた彼女の髪が視線の少し上で揺れた。
棚の上部にある本を自分で取ろうとしていたら、カウンターの中から彼女が踏み台を持ってきてさっさと上ってしまったのだ。
「……これで良かったかしら?」
タイトルも何も言わなかったのに、手渡された本はまさに僕が引き出そうとしていたものだったので少し驚いた。そんな僕の表情を見た彼女は満足そうに頷くと踏み台の上から降りる。
「もう何か撮ったの?」
興味というよりは話題を探してという風に彼女が訊ねてくる。僕はその言葉に答えるかわりに一枚の写真を手渡した。
「……あら」
デジタルカメラで撮ったというのに何故かピントの合わなかった蓮華草は薄桃色に滲んでしまい、注意して見なければそれが花だとも分からない姿になっている。
今までの人生でカメラを使うことなどなかったので、よもやここまで自分に写真の才能がないとは思わなかった。
だというのに―――。
「これは……蓮華草ね? 綺麗だわ」
彼女はあっさりと薄桃色の滲みにしか見えないそれの正体を言い当ててしまった。
「現像した時は自分でも何を撮ったのか一瞬分からなかったのに。凄いな」
僕にしてみれば心底不思議に思ったからそう口にしたのだが、彼女はほんの少し苦笑する。
「この時期に……って考えたら、種類はある程度限られてくるから」
まるで至極簡単なことのように種明かしをしてくれた彼女になるほどと頷いて見せた。それを見た彼女が今度は微笑んだ。
「少し遅咲きかしらね。でも、優しい色だわ」
一枚の写真でこんなに長く言葉が交わせるとは思ってもみなかった。
その微笑んだ姿をもう少しだけ眺めていたくて咄嗟 に「売却札のお礼に」と口走ってしまった。無論、言った直後に頭を抱えたくなるほど後悔する。
こんな一目で失敗と分かる不出来な写真を礼にとは……子供でも言わないだろう。撤回しようにも写真はすでに彼女の手の中だ。
彼女から受け取った本を抱える手に、思わず力がこもる。
しかしそんな心配をよそに、彼女は「ありがとう。大切にするわ」と柔らかく微笑んでくれた。その一言でさっきまでの後悔も不安も消し飛んで、カメラを買って良かったと思う現金な自分がいる。
それに心なしか彼女もうっすらと頬を染めているように見えた。やりなれないことの報酬としては充分以上の反応を引き出せたことに安堵する。
けれど次こそはもっとちゃんとした――お礼になるような写真を撮ろうと、店からの帰り道で心密かに決意した僕だった。
***
「こんなとこでしゃがみ込んで何してんのかと思ったら……。良い歳した男が人気のない校舎裏で熱心に花を愛でるとか……正直かなり気色悪いな」
勝手に近付いて手許を覗き込んだ挙げ句、何とも失礼な感想を吐いた大野が大袈裟に肩をすくめて見せる。
「何とでも好きに言えばいいが、邪魔はするなよ」
先日の成功に味をしめた僕は、あれからどこへ出かけるにも極力カメラを手放さないようにしていた。
そのせいで職場の休み時間をこうして写真に費やす生活が徐々に習慣化し始めている。部屋に籠もりきりだった以前よりも健康的な生活と言えばそうなるが……。
「何だ、急に芸術に目覚めたのか? 大体お前の専攻建築学系だろ?」
背後から大野が執拗に質問を重ねてくる。こうなることが目に見えていたからわざわざこうして人目に付かない校舎裏を選んだというのにまるで無駄だった。
しかも声も身体も無駄に大きな大野のせいで数人の生徒が何事かとこちらを窺っている。
「別に芸術に目覚めた訳でも、興味が出たのでもない。放っておいてくれ」
そう言いながら振り向きもせずにシャッターを切る。ファインダーを覗かなくても対象物が撮れるのは便利なようでいて、そうでもない。
「だな。対象物からズレてるぞ? もっとこう……」
シャッターを切る直前でカメラを持つ手が少し不安定になったのか、色彩の筋のような姿の花弁が写る。
「お前に言われなくても分かっている。あと、気が散るからもう話しかけるな。誰かに構いたいならあの辺の学生でも相手にしていろ」
データの消去をしながら投げやりに言い放つ。こうでも言わなければそのうち親切ぶった大野にカメラの講習でも始められそうだ。
考えただけでもそれは非常に不愉快だった。
「学生の……特に女子がなぁ、お前が“急に色気付いたんじゃないのか”って騒いでたぞ?」
「馬鹿馬鹿しい。もっとまともで建設的な会話が出来ないのか?」
「俺もそう言ったよ。彼女のいない三十路ももうすぐ半ばの寂しい男にそんなのある訳ねぇって」
声にまたあのあからさまな興味の色を感じて不快極まるという表情でカメラから視線を上げる。大野はニヤニヤと面白そうに笑っているが、当然こちらは何ら面白くない。
「用件があるならさっさと言え」
少し伸びてきた前髪が視界を遮る。語尾が多少きつくなったが、毎度のこととはいえ、大野は全く気にも止めない。
「これ、お前のだろ?」
そう言った大野は背後に回していた手をゆっくり僕の視界に入るように翳す。その太い指に見覚えのある薄い―――。
そこまで考えて、ハッと脇に抱えていた資料を開く。やっぱりだ。一緒に挟んであった紙の類を出し尽くしてもその中に目当ての物がない。
「―――そうだ」
諦めて溜息と共に手を出すと、大野は何を考えているのか指に挟んだそれを引っ込めた。
「……おい」
「いや、礼はないのかよ?」
……それもそうだ。
そもそも大野が僕の持ち物であるということを知って拾ってくれたから、妙な大回りをせずにこうして最短ルートで手許に戻ったのだ。
薄い栞を一枚、大学の敷地内から探すとなれば相当な骨折りになる。
「……すまん、大切な物だ。拾っておいてくれて本当に助かった」
ムッとしたりして悪かったと素直に謝罪すると、大野も今度はふざけずに栞を渡してくれた。
手許に戻った栞に傷がないかを確認してから胸ポケットにしまう。冷静になって考えてみれば今の時間帯、大野は二棟の方に用があるはずだ。
僕が今いる三棟はコの字型になっている分、他の棟より広い。しかもここはその三棟の裏だ。
さぞかし探すのは手間だっただろうと考えると、言葉だけの謝罪というのも悪い気がする。
「後でお前の机にコーラを置いておくから、それで納得してくれ」
そう言い残して立ち去ろうとしたら、やけに真剣な顔をした大野に肩を掴まれた。意味が分からずそのまま振り払おうとしたが、大野はそんな僕にとんでもない勘違いを披露する。
「お相手は――その、夜のお仕事か? お前、いくらそういう経験がないからって玄人女に引っかかってんじゃないだろうな?」
「――――おい」
「いや、真剣な話だぞ? 俺はお前のことを友人だと思ってるんだよ。それなのに水臭いだろ、困ってんのは金か? まさかまだ闇金には手を出してないよな?」
人を捕まえて勝手に訳の分からないシナリオを組立始めたその眉間に分厚い資料の角を叩き込む。身長差のせいで頭上に振り落とせないのが悔しい。
良い角度でめり込んだせいで痛みに声もなくしゃがみ込む大野を冷ややかに見下ろしながらシャツのシワを伸ばす。体格の良い大野に鷲掴まれた肩の痛みのお返しだ。
「相談するも何も、勝手に盛り上がって僕が職を失いそうになる作り話をするな。それに――どちらかと言えばもっと良いことだが、これ以上答える気はないぞ?」
今度こそ立ち去ろうと背を向けた僕にしゃがみ込んだままの大野が一言、
「確かにお前、最近変わったわ。良い方にな」
別に同期の同僚に心配されるいわれなんてないが……彼女が僕に与えてくれた変化は僕が思うよりもずっと大きな物であるらしい。そう思えばこの鬱陶しく絡んできた大野の言葉も悪い気はしなかった。
大野はまだ頭をさすりながらこちらの様子を見物していた学生達に人懐っこい笑顔で近寄って、学生達もそんな大野と気さくに言葉を交わしながら歩いていく。
去ろうとしたはずの僕はと言えば、そんな大野達の遠ざかる声と背中を立ち尽くしたまま見送るだけだった。