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2-3 彼の五月頃。



「最近、何か良いことでもあんのか?」


 彼女との文通のような飛び飛びの交換日記が始まってから早二月になろうとしている頃、ふと同期の中では比較的交流のある大野に声をかけられた。


「どうしてそんなことを思ったんだ」


 次の講義に使うからと準備を頼まれていた資料集を抱え直しながら問い返す。本来あまり人に話しかけられるのが好きではないので声にやや険があったかと思ったが、大野は気にした様子もなく話を続ける。


「いや、前はあんまり講義の資料集めとか頼むと嫌な顔してたろ?」


「……そうだったか? あまり記憶にないな」


「は、またまたぁ。一部の生徒なんかお前があの鬱陶しい前髪を急に切ったからびっくりしてたぜ? 意外に若かったんだ、とか何とか騒いでたわ」


 あまりに下らない内容の会話を聞き流しながら手許の資料の確認をするも、やや心許ない気がする。そう思ったら自然と彼女の店を思い浮かべてしまった。


「ほら、やっぱり何かあったんだろう? いま眉間のシワが緩んだぞ」


 学生だった頃からやたらと絡んでくる奴だったが最近こうして前以上に絡んでくる。正直言って鬱陶しい。


「そんなことよりも――弛んでいるんじゃないのか?」


「ん? 誰がだよ?」


「お前のゼミの学生だ。試験も近いのに講義でもないことに気を取られすぎだろう」


「あぁ……そう堅いこと言うなって。あいつらにしたって、まだ若いんだ。本分は学問だっていってもやりたいことも気になることもあるだろ」


 それがこちらに向かないのであればどれだけ羽目を外してくれても構わないが、それがこちらに向くとなればただの迷惑でしかない。


 ――とはさすがの僕も職場内の空気を読んで口にはしなかった。


「院に進むのが何人かいるんだろう? その調子では危ないんじゃないのか?」


「はは、それこそ院生での課程まで修了したくせに准教授にならなかった奴が言うのか?」


 大野はいつも通り覇気のある笑顔を顔中に浮かべて僕にそう言う。


 確かに大野の言うようにそのまま准教授の席を見据えて論文を書き続けても良かったのだが――派閥的なもののある大学内が肌に合わなかったのだ。


 それにどちらかといえば、自由とまでは言えなくとも調べたいことを調べられる学芸員の方が向いていた。彼女の店でならそれも叶う。


「なぁ……今からでも准教授狙ってみたらどうだ? 俺も口利くからさ」


 急に笑みをかき消してそうボソリと呟くよう 口にした大野の顔は、この男にしては珍しく真剣なものだった。


 確かに人好きのする性格の大野の口利きがあれば多少人当たりの悪い僕の面倒を引き受けてくれる教授もいるのだろうが……。学生の頃からの数少ない付き合いを続ける知り合い相手にそんなことはさせたくなかった。


 そのせいか、こちらまで柄にもなく少し笑ってしまう。そんな僕の反応を見た大野はやや不満そうに片方の眉を上げた。


「いいや、何度も言っているように僕には学芸員の方が向いている。人と足並みを揃えるのは苦手だからな」


 大野の気持ちはありがたいし、学芸員よりも准教授の方が権限は強いがその分縛りも多くなる。それは僕の望むところではないし、今の身軽さを失ってまでつくほど魅力も感じていなかった。


「それにこうして資料収集には付き合っているんだから、満足しろ」


 この話はこれで打ち切りだと言葉には出さずに気配で伝える。


「まぁ、それは本当に毎回助かってるんだが……ってそういえば、それも気になってたんだわ。お前が持ってる資料の中にたまに相当マニアックなのが混じってるけどよ、あれ、どこで仕入れてんだ?」


 ……余計な所に食いついてきたな。こいつは昔からこちらが少し態度を軟化させるとすぐにこれだ――。


 大野の言葉にそれまでは含まれなかった興味の色に瞬間心が硬化するのが自分でも分かる。私生活に踏み込んでくる質問には昔から神経が尖ったが、今回は何故だかそれだけではない気分の悪さが混じる。


「別に僕がどこで資料を探してこようが使えれば関係ないだろう」


 僕はそう言い残して、まだ何か言いたそうな大野を置いてその場から離れた。そもそも人に話しかけようとも話しかけたいともあまり思わない。


 そんな自分だから、世界はいっそ無音でも構わないような気がしていた。


 ――――彼女と、出逢わなければ。


 自分から静寂を壊したいと感じたのは初めてだ。


 自分から誰かの存在を強く意識したのも。


『五月十九日です。

毎度お買上げ頂きましてありがとうございます。【売約済み】の札をもう何枚か差し上げても良いくらい。でも、あまり無理をして買わなくても少しなら取り置きが出来るから言って……何て、店主としては書くべきではないかしら?』


 珍しく缶ビールに口をつけながらめくった頁には彼女からの文章が綻ぶようにそこにあった。桜の季節も終わったというのに僕の胸の内は華やいだ。


 昼間の大野との面倒なやりとりから来る苛立ちも、この時だけはしばし遠退くと言ったところだろうか? 口の中で弾けるビールの泡が心地良い。


 万年筆を右手に、缶ビールを左手に持ちながら、ジッと頁に踊る彼女の文字を眺める。


 直に言葉を交わすよりもこうして文章を交わすことの方が多いせいか、彼女の口癖で、彼女の父親である先代店主の口癖を思い出す。


「―――ゆっくりして行って、か……」


 胸の内で転がすだけでは足りなくなって口にしてみると、ささくれ立っていた気持ちが徐々に丸くなっていく。


 僕の世界は時間厳守で、四角四面な……それこそ触れればその輪郭が溶けてしまいそうな優しい彼女の世界とは正反対な、鉄の枠にはめ込んだような無機質で冷たい世界だ。


 今まではそれで良かった。何の不満も不安もなかったはずなのに――いつの間にかつまらないと感じるようになってしまうなんて。

 

 疲れた身体にアルコールの回りは早く、少し気を抜けば瞼が下りてきた。そのくせ意識だけは研ぎ澄まされるのか、いつもなら聞き流してしまいそうな音を耳が拾う。


 あぁ……夜でも世界は眠らないのか。その証拠に静寂の中にも色々な音が紛れている。


 時計の針が進む音、庭木に芽吹いたばかりの若葉の葉ずれ、風の音、その風に打たれて鳴る玄関の引き戸、卓上電気に吸い寄せられた細かな埃がその表面に触れて立てる音――――。


 それら夜の音に合わせるようにして息を細く吐くと、まるで自分もその一部になった気がした。しばらくそうして夜の一部に溶け込む感覚を楽しむ。


 瞼を開けてこちらの世界に戻れば、目の前を卓上電気に照らし出された細かな埃がチラついていた。白い明かりの下で舞う埃の粒は、どこか少し前の季節に見た雪を彷彿とさせた。


 次の瞬間、夜の音に新たに万年筆がゆっくりと頁の上を引っ掻く音が加わる。しかし滑らかとは言い難いペン先は少し進んでは止まってを繰り返す。


 文章をまとめる能力と文章を書く能力が全くの別物だと知ったのは、彼女とこうして文章を交わすようになってからだ。


 たった数十文字の内容を何度も、何度もしつこいくらいに添削した。


 ゼミの学生を指してああ言った手前どうかとは思うが、僕はやや浮かれたほろ酔い気分で明日の講義の支度を始める。


 こうして考えてみれば仕事はある程度の正解が用意されている分、はかどりやすい。


 そこでふと今更ながらに、昼間の大野の言葉が頭の中を過ぎった。


 どこかフワフワとしたこの感覚を指して、あの男は“良いこと”と取ったのだろうか? だとしたら悪いことをしたなと少しばかり反省する。


「あぁ……そうだな、大野。これは確かに――」


 あの男の言葉を素直に認めるのは何となく悔しいが――確かにとても“良いこと”だと、納得している自分がいた。



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