2-2 彼の三月下旬。
早く勘を取り戻さないと。(ーωー;)<むぅ……。
『三月二十日です。
春らしい菜の花の写真をありがとう。お陰でこの寒さももう少しの辛抱だと思えます。最近店で見かけませんが、お仕事が忙しいのでしょうか。あまり無理をせずに身体を大事にして下さいね』
その彼女らしい、ざらめ糖のような素朴で優しい甘さを含んだ文面にホッとする。
仕事の中ではよく交わされる類の言葉はどこか上辺だけを取り繕おうとしている感のある物が多い。それらの労いの言葉は人工甘味料のような胡散臭い甘さが気になってホッとするどころではない。
彼女の綴ってくれた文面は半分は正解で、もう半分は不正解だ。陽のあるうちに店に顔を出すのは難しいとはいえ、全く無理だというスケジュールではなかった。それを出せずにいるのは他でもない――年甲斐のない青臭い気恥ずかしさからだった。
彼女とのやりとりが実現したことで忘れていた人間らしい感情がまた一つ浮上しただけだ。
そもそもが彼女に話しかけようと思ったから鏡を意識するようになったし、そうしたら今度は髪が気になった。髪を手入れしたら今度は身綺麗にしてから話しかけようと思った。
しかしそうまでしておきながら今度はそれまであったはずの意気が消えているのが困りどころになり……。結局万事が万事こんな調子で、声をかけようと決意してから結構な時間を費やしてしまうことになったのだ。
胸の奥がむず痒い。こういう経験は初めてのことで勝手が分からずやきもきさせられる。
今の自分は端から見ればかなり滑稽だろうが、何故だか僕自身それが嫌ではなかった。
今も万年筆の先を見つめたまま貴重な夜の時間を無駄にしているところなのだが……気の利いた文面というものが浮かんでこないのだ。
たった五行でこうも僕の心を震わせてくれる彼女へ何も返せないのがもどかしい。しかし次の瞬間浮かんだ文面は僕の頭を通さず、万年筆の先から零れていた。
――あぁ、そうだ。
うじうじ悩んでいても仕方がない。万年筆から零れた文面を綴ってしまえば行動するしかないと気付いた。
スケジュールにある明日の午後の予定に横線を引いて、鞄からノートパソコンを取り出す。電源を入れてから切るまでのスピードは、彼女への文面を思いつくよりもずっと早かった。
―――そして翌日の夕方。
僕は昨夜の勢いのまま彼女の店にやってきてしまっていた。
彼女は始め、まだ明るい時間に来店した僕を見て驚いたようだったが、あの不出来な文章を読んでくれていたのだろう。
「まだ、返事を書けていないの」
そう困った様子で告げられて一瞬呼吸が止まりそうになる。昨日は深夜の浮き足立った気分でつい彼女の都合も考えずに『明日、行きます』とだけ書いた。
今の彼女の表情から自分がどれだけ一方的なことをしてしまったかに気付いて“穴があったら入りたい”気分になる。
しかしそんな僕に向かって彼女は「ここで、少しだけ待っていて」と言い残して二階の居住区に上がっていってしまった。
彼女を待つ間いまさらながら遅すぎる学生気分を持て余した僕は、近くの棚にある本を手に取る。数頁も読み始めるとその内容にのめり込むのにさほど時間はかからなかった。
半ば近くまで読み進めてからふと人の気配を感じて本から顔を上げると、会計棚の向こうからこちらを見ていた彼女の視線とぶつかる。
「少しで良かったんだけど……あんまり熱心に読んでいたから声をかけたら悪いかと思って」
目を笑みの形に細めた彼女がそう悪戯っぽく言うものだから……何だか胸が苦しくなる。それに頬がやけに熱い。
「―――こちらから押しかけたのにお待たせして、申し訳ない」
まだその表情の彼女から目を逸らしたくはなかったが、本を棚に戻す為に少しだけ身体を斜めにしながら口をついて出た言葉に自分が嫌になる。
あぁ、もっと気の利いた言葉が言えれば良かったのに――。
そう悔やんでいると、彼女がゆっくりと首を横に振った。
「――いいえ、私の方こそ今までかかってしまってごめんなさい。本当についさっき書き終わったところだから、貴方が謝ることはないわ」
それはゆっくりとした動作と同じ、穏やかな声だった。
ただどこか眠たげな声はゆらゆらと前後の感覚を怪しくさせる。
けれど同時に――――耳に、心に、心地良くて、ともすればBGM替わりにずっと聴いていたくなる。
しかしそんな風に思ったのもほんの束の間で……。
「帰ってから読んで……と言っても、すぐに帰れというのではないから……ゆっくり、して、行って――」
やはり眠かったのか彼女はそう言って瞼を閉じると、何とそのまま無防備に寝息を立て始めた。
たったいま棚に戻そうとしていた本を再び手にした僕は、そのままさっきまで読み進めていた頁を開いて続きを読むことにする。店内には僕がめくる本の頁の音と、彼女の寝息だけが聞こえていた。
こうしてここで穏やかな時間を過ごしていると、どうしても彼女の前任者を思い出させる。それでいて彼女にしかない穏やかさを足された時間を閉店まで一人で味わえたのはこの上ない僥倖だった。
家に帰ってから夕飯の惣菜を口にしつつ仕事を片付け、日付が変わる前に風呂に入る余力まであったほどだ。
けれど本当のところではそのどれもをすっかり投げ出してでもあの臙脂色の表紙に一分一秒でも早く触れたかった。
だがそれでは彼女に申し訳ない。彼女がくれたこの浮かれた気分は僕にとってこのまま無駄に霧散させるには勿体なさすぎる原動力だ。きりよく無駄なく使い切らなくては――。
彼女のくれた形のないこの“何か”を、僕は一つも無駄にしたくなかった。気を鎮めてから文机に置かれた本の表紙に触れる。それだけで今日の出来事が鮮明に思い出された。
そっと顔を上げて文机の前にある窓の外に目をやったが、外は夜に黒く塗り潰されていて手入れのされていないうっそうと茂った庭の常緑樹が奏でる葉ずれの音が響くだけだ。
―――こうして何となく耳を耳をそばだてていると、葉ずれの音は心のざわめきに似ている気がする。
そんなことを考えながらめくった表紙の下、一杯になったばかりの一頁目に僕の貧弱な語彙では“感動した”としか表現できない。
口に出せばとても陳腐で、ありきたりな使い古された言葉だ。けれど僕は他にこの気持ちを言い表す言葉の手持ちがない。
だから、思う。
―――感動した。と。
『三月二十二日です。
今、私の目の前には貴方がいます。この間の私の子供みたいな文章で来てくれるだなんて思わなかったわ。驚いたけれど、元気そうな様子で安心しました。……貴方が本を読む空気が店にあると心地良い。追伸・お礼にこれを差し上げます』
……六行あった。
そこには赤い【売却済み】の札が挟んであり、小さな文字で『お好きな本にどうぞ』と書いてある。なるほど、これは良い。彼女の気の利いた贈り物に胸の内側がホワリと熱を持った。
恐らくこれは気に入った本に張っておけば立ち読みを終えるまでの間、取り置いてくれるということだろう。何だか学生の頃の図書カードを思い出す。
あれに一番最初に名前を書くことが出来た時、まるでその本に直接名前を書き込めたような気になったものだった。
もらった栞と売却済みの札を並べてみる。
大袈裟かもしれないが、それだけで明日の仕事に使う気力が湧いてくる気がした。温かな気持ちのまま電気を消して布団の中に潜り込む。
すると微睡みの中に沈み込む直前。さっきまでは不安にしか感じなかった庭の木々の葉ずれの音は、記憶の中に残る彼女の声のように優しく耳に馴染んだ。