片翼の鳳凰と過ごす体育祭 《前編》
中間試験が終わってからおよそ一か月。季節は初夏を迎え、梅雨の時期になった。
窓から教室の外に見える校庭をぼうっと見つめる。僕は中間テストの打ち上げの時の蒼のキスを思い出した。あまりにも突然のことだったのでその後のことはほとんど覚えていないのだけれども、頬にあたった蒼の唇はみずみずしくて柔らかかった。頬を触ってみると今でもその感覚が甦ってくるようだ。
あの日以降、僕は蒼とあまり話すことがない。いざ話そうとしても、蒼の顔を見ると何故か顔が熱くなって何も話せなくなる。それに関しては蒼も同じようで、彼女は僕の顔を見るといつも顔を伏せてどこかに行ってしまう。そして、僕は一つの解答に辿りついた。僕は蒼のことが好きなのではないだろうか?僕は今まで恋というものをしたことがないので全く確証はないのだけれど、これこそがまさに恋というものなんじゃないだろうか?そこで先日の千華の言葉を思い出す。
「ねえ、ユウトは私と蒼ちゃんどっちがスキ?」
僕はあの時それを聞かれたとき、上手く答えることができず、二人とも好きだという曖昧な返事をした。今彼女に同じことを聞かれたら僕はどう答えるのだろうか。千華の前で堂々と蒼のことが好きだと言えるのだろうか。校庭を濡らす雨は激しく、僕の心を強く叩き付ける。
「ねえ、悠くん」
「ん?どうかした?」
ぼうっと窓の外を見ていた僕は急に内側に引き戻され、反射的に声のした方を向いた。その黒板の前の教壇には蒼と雄虎が立っていた。
「どうかした?じゃなくて。体育祭の種目決めしてるんだけど、分かってる?」
彼女は呆れたように問いかける。僕の意識は完全に上の空だったのだけれども、クラスでは今度行われる体育祭の種目の出場選手を決めているらしい。
「ああうん、分かってるよ。じゃあ僕は―」
「悠くん、リレーね」
蒼はそう言うと僕の意見を聞かぬままに黒板の「リレー」と書かれた下に、僕の名前を記した。
ん?
「いや、ちょっと待とうよ。僕まだ何も言ってないんだけど」
「話を聞いてなかったバツよ。それに悠くん結構足速いから大丈夫だよね?」
彼女はそう言って僕にニッコリと笑いかけた。昔から彼女には無言の圧力をかけるときにはニッコリと大きく笑う癖があった。僕はもう断れるわけがなかった。
「よし、じゃあリレーは女子があと一人だな。誰か出たい奴いるか?」
雄虎は僕をすっかり人数に入れて、ほかの出場者を募った。
「「はい!」」
僕の隣に座る少女-千華、黒板の前に立つ少女-蒼が元気よく手を挙げた。二人はそのまま手を挙げた状態でしばし睨み合う。
(リレーで優勝したら悠くんに......)
(たまにはユウトにいいとこ見せなきゃ)
そして空中での二人の|勝負<<じゃんけん>>が繰り広げられる。
そして、千華は手を下して、力なく椅子に座る。蒼は口元にわずかに笑いを浮かべると、黒板に自らの名前を記した。
「よし、じゃあリレーは蒼で決まりと。千華ちゃんは残ってるパン食い競争でいいかな?」
「うん、仕方ないからそれでいい」
彼女は開き直ったか椅子にふんぞり返ると不満そうにそう答える。よっぽどリレーに出たかったのだろうか?
放課後、僕と千華はいつも通りに美術部の部室である、美術室に向かう。
「そんなにリレー出たかったの?」
道中、HRの件について尋ねてみる。
「べつにそうじゃないけど......どうせ悠翔には分からないだろうからいい」
そういうと彼女は恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。何故か少し彼女の顔は赤っぽいのだけれども、僕は何故だかわからない。そういうところが男なんだろうなと思う。
「あっ二人ともいたいた!」
美術室の近くに差し掛かった時、急に後ろから蒼が走ってきた。様子を見るに僕たちを探していたらしい。
「随分急な用事みたいだけどどうかした?」
「いいから早く部室に来て!朗報があるの?」
彼女はそう言うと僕たちを引っ張るように美術室へと連れて行った。
「みんな聞いて朗報よ!」
彼女は僕たちを教室に連れていくと、教室の前に立って声を張り上げた。
「今日はえらく元気だね。朗報って何なの?」
僕の近くでデッサンをしていた雄虎が手を止めて尋ねる。相手が蒼なのでいつもとは声色が違うのだけれども。
「よく聞いてくれたわ。実は生徒会から仕事が来たの!」
「仕事?」
僕の隣にいた千華が首をかしげると、蒼は「これよ」と言って一枚の紙を掲げた。
「体育祭イメージ画の依頼?つまり生徒会から絵を描いてくれっていう依頼が来たっていうこと?これがどう朗報なの?聞いたところによると他部からの依頼は結構あるらしいけど」
僕がそう尋ねると、彼女は少し微笑んで持っていた髪を指さした。
「うん、確かに絵の依頼自体は珍しいことじゃないんだけどね。ポイントは生徒会からの依頼ってとこ。みんな知ってる通りこの学校の部活の予算は生徒会が握ってるの。つまり生徒会が満足する絵を描けば......」
ああ~なるほど。部室にいた美術部部員全員がそう頷いた。つまり彼女が言いたいことはこうだ、生徒会にゴマをすれば部費が上がると。
「そういえば体育祭と言ってもどんな絵を描くのさ。テーマが決まってないと困るんだけれども」
僕がそう言うと彼女は「それなら大丈夫」と言って黒板に文字を書き始めた。
<鳳凰の如く羽ばたけ琉星☆ I can fly!!>
どうやらこれが今回の体育祭のスローガンらしい。私立といえども一学校の生徒会が決めるスローガンとは思えない。
これでも去年のスローガンである<校門前のアイス屋さんが売れるように汗をかけ Splash sweat>よりましに見えてしまうのだから恐ろしい。蒼も自分で書いていて恥ずかしいのか今にも吹き出しそうだ。
「えっとこれ納期いつなの?」
僕はなるべくスローガンに触れないように、蒼に質問をする。
「えっと一週間後だったかなあ。うちも新入部員で千華ちゃんを迎えたことだしこのスローガンはちょうどいいかなあと思って受けてみたんだけど」
「一週間!?」
部員みんなが一斉に声を上げた。一週間、それは絵を完成させるのにはあまりにも足りない期間だ。
「私が勝手に受けるって決めちゃってゴメン。でも一応できることはやりたいと思って下絵を描いてきたの」
彼女は皆に頭を下げると、自身のバッグから一枚の大きな布を取り出した。それは月下で翼と手をつなぐ鳳凰と少女の美しい情景を描いた絵であった。千華はその絵を見て目を輝かせているようであった。下絵に書かれている少女は千華に似ている-いやもはやそれは千華そのものであった。
「私、絵描きたい」
千華は一歩前に出るとそう言った。
「うん、僕もこの下絵気に入ったよ。グダグダ言っても仕方ないし描こう!僕たちは美術部なんだから」
千華に乗じて僕も名乗りを上げる。
「そうだな、悠翔の言う通りだぜ。生徒会からガッポリ予算毟り取ろうぜ」
そして雄虎が皆に呼びかける。すると、部員たちは皆賛成の名乗りを上げた。
「みんな、ありがとう!」
蒼はそう言ってまたみんなに頭を下げた。でも今回のは謝罪じゃなくて感謝の礼だ。いつもは大きく見える美術部部長、東海蒼はいつもより少し小さく見えた。
「そこもう少し色を薄く、そこはもう少し赤を混ぜるといいかも」
急ピッチで作業を進める美術部員たちに蒼の指示が飛ぶ。体育祭まであと三日。納期はすぐ明日に迫っている。蒼が下絵を描いた大布に、僕らが色を塗る。美術室ではそんな作業がひっきりなしに行われる。
「蒼ちゃん今回凄く張り切ってるね」
千華が鳳凰の嘴に色を塗りながら僕に話しかける。
「そうだね。蒼はこの部が好きだから一生懸命やってるんだと思う。部費がなきゃ部活はできないからね」
僕はそう答えながら鳳凰の眼に筆を入れる。
「あっ悠くんありがとう。本当はそこ私がしなきゃいけないパートだったのに」
「どういたしまして。蒼も指示飛ばしたりで忙しいでしょ、困ったことがあったら何でも言って」
僕がそう答えると蒼はニコッと笑った。
「ゴメンね、私部長だからしっかりしないといけないのに。それじゃあ私もあっちで―」
そう言いかけたところで、急に彼女の体が傾いた。
「蒼?」
そして、そのまま僕の腕の中に落ちた。
「ゴメンちょっと疲れちゃったみたい」
それだけ言うと彼女は気を失ってしまった。
「蒼ちゃん!?」「大丈夫?」「どうしたの?」
美術部員たちがそれぞれに声を上げる。
「大丈夫。たぶん疲れで眩暈がして寝ちゃっただけだと思う。僕、蒼を保健室に連れて行ってくるよ」
「うん。きっと蒼ちゃんは大丈夫、大丈夫。ユウト、行ってあげて」
千華が一人冷静にそう言った。僕は「うん」とだけ頷くと蒼を背負い美術室を出た。
蒼を保健室に連れて行って先生に診てもらったところ、彼女は軽い貧血らしい。この頃絵の製作のことにかかりっきりだったから、あまり休めてなかったんだろう。僕がもっと早く気づいて休ませてあげられていたら、そう考えると自分の無力さを感じざるを得ない。
ベッドで眠る少女の顔は微熱のせいか少し紅潮していて、さっきまでみんなに精力的に指示していた時の顔には見えなかった。
蒼は元々積極的に人を引っ張って行くタイプじゃない。クラス委員長、美術部部長、いずれとも推薦によるもので、彼女自身が立候補したものではない。
それでも彼女は役割を快く受け入れ気丈に振る舞っているように見えた。でもそれは知らず知らずのうちに彼女にとって重荷になっていたのかもしれない。
しばらくして蒼は目覚めた。随分長く眠っていたようで外はもう暗くなっていた。
「もうこんな時間。私戻らないと」
ベッドから起き上がろうとする蒼を制止する。
「まだしんどいだろうし無理しちゃだめだよ。それにもうたぶん部活終わってるだろうし」
「でも絵を完成させなくちゃ。期限明日なんだから」
「そのことならさっき雄虎から電話があって絵は無事完成したってさ。だから今はゆっくり休もう?」
僕がそう諭すと、彼女は再びベッドに身を委ねた。
「ゴメンね、情けないところ見せちゃって」
彼女は熱のせいで赤い顔を半分布団に隠して、申し訳なさそうに力なく呟いた。
「ううん、大丈夫。でも蒼は最近少し頑張りすぎだと思うよ」
「そうかな?」
「そうだよ。中間試験の時も僕たちに教えている間、休み時間削って自分の勉強してたし、今回も部費を増やすために人一倍頑張ってる。それに僕は知ってるよ、部活終わったら校庭で一人でリレーの練習してること。そんだけ頑張ってばかりじゃそりゃ倒れるよ。だから今みたいに休めるときに休まないとね」
「ゴメンね、色々心配かけちゃって。私はもう大丈夫」
彼女はさっきとは打って変わって元気な声で答える。もう彼女は大丈夫だ、僕はそう確信した。
「それじゃあもう夜になるし帰ろうか。今日はしんどいだろうしおんぶして帰ろうか?」
「もう悠くんったら!」
彼女は紅潮した顔を膨らませ、そして大きく破顔した。
梅雨時には珍しく綺麗な満月が夜空を明るく照らしていた。
今回の話はつなげると長くなるので前後編構成となっております。
感想・ご指摘などあればぜひよろしくお願いします。