夜行の桜
獅桜。
音にせず名を呼べば、鎖骨の下のあたりがきしきしと軋むように痛んだ。
獅桜。
もう一度腹の中で呼んでみると、今度は目頭が熱くなった。
獅桜、獅桜、獅桜。
何度も何度も呼ぶ。その度に体が紅蓮の焔に包まれたかのように熱くなって、その熱を持て余した掌はしっとりと汗で濡れた。
これが誰にも治すことの出来ぬ病だと気付いたとき、私はあなたにだけは知られてはならないと思った。
私が不治の病になど侵されていると知ったなら、あなたは躊躇しながらも私から手を離し、そして私を自由にするのでしょう。優しいあなたは、私をこの地に縛ることなどすぐに放棄してしまうのでしょう。
だから、私はあなたには告げられなかった。
どうぞ私をあなたの御傍に。そう告げたアノ日から、それが叶わぬ願いとは知っていても、あなたから離れたくはないと願っていたから。
◆ ◆ ◆
最近は、流れる空気が臭くて敵わない。
ヒトよりも敏感な嗅覚には、ひらりと桜を散らした香しい風に混ざる不粋な鉄錆びた匂いが臭くてたまらないのです。
「大丈夫か」
私よりも頭一つ分ほど背の低い獅桜が、私を一度だけ見上げて呟いた。
それが私に向けられた気遣いの言葉だと気付いて、思わず両の口端を上げてしまう。根は優しいくせにそれを表に出そうとしない天の邪鬼な性分の彼が、まともに私を心配してくれることなど稀少だったからだ。
「ええ、大丈夫です。ですが、酷い匂いです」
仄かに浮つきかけた声に平静さを上塗りしてそう言うと、そうだな、とぶっきらぼうな声色で獅桜が返してくる。
凪波神社の境内を彩っている満開の桜は、ゆらゆらと迷うように左右に揺れながら地へと舞い降りて、社殿への参道には薄紅色が絨毯のように敷き詰められていた。
参道の向こうに見える目が覚めるような濃い朱色の鳥居と、ぼんやりと霞むような淡い紅色とが見せる幻想的な風景。
桜が咲き始めてから、私は何度かその風景に淡い嘆息を漏らしていた。吸い込まれそうなほどに美しく、そして危うい光景に、気を抜けば精神のすべてを持っていかれてしまいそうだった。
その浮世離れした美しい光景の中に立つ獅桜は、まるで彼自体が桜の幹かの様にしっかりと地に足を着けて、ぶれることも無く凛と佇んでいる。その立ち姿の美しさといえば、私には言葉で表現しきれない。
優美で官能的な桜の吹雪の中、白い小袖と緋色の袴のみを身に着けた簡素な格好の彼は華奢な肩を片手で撫でてから、風で乱れた漆黒の髪を指先で軽く整える。
線の細い彼はふと見れば女性的だ。けれどその手が筋張っていたり、衿元から覗くぽこりと膨れた喉仏で、彼の性が男性であることをはっきりと思い出させた。
ちらりと見えた細く白いうなじに、無性に齧りつきたくなるのを必死に抑える。
しっかりと白衣を着込んだ彼からは禁欲的な匂いしか感じ取れないというのに、私はそんな彼に酷く情欲を湧かせてしまう。
職人によって丹精に創られた上等な人形のように整った美しい顔は滅多に笑みを模らず、いつもどこか達観したような目で遠くを見ている。その無機物のようでいてしっかりと意志を持った強い瞳が、私は好きなのだ。
ぎしぎしと不穏な音を立て今にも崩れてしまいそうなぎりぎりの危うさの上でも儚く生きる彼に、耐え難いほどの色気を感じる。
存在理由を持ちながらも、それはすぐに消えてしまいそうなほどに脆い。そんな壊れかけの人形にも似た存在に情欲を持つなど、私も大概にして厭らしい性分ではあるのだろう。
「またヒトが、餌にされたようです」
「ああ」
獅桜の髪に舞い降りた桜の花弁を親指と人差し指で摘み上げながら言えば、彼は抵抗もせずに頷いた。
指の中で二つに折られた花弁はほんの少しの間の前は愛らしい存在だったのに、今は折れ目が茶へと変色し、妙に気味が悪い。指先をそっと離すと、ひらひらと彷徨って地へと落ちていく。
「百鬼夜行の夜が近付くほど、ヒトは食い殺されていきます」
「……」
「明日の夜は満月。彼らが動くとするならば、満月の夜でしょう」
押し黙る獅桜は、じっと桜の木を見上げている。私からは、彼の表情が窺えない。
こうして黙っている時の彼はだいたい、仄かに眉間に皺を寄せ、唇をきつく噛み締めている。その表情も欲を揺さぶるものでなかなかに好きなのだが、わざわざ覗き込んだりしてしまえば怪訝な顔をされてしまうのでぐっと堪えた。
「何を迷っておられますか」
問えば、別に、と素っ気無い返事だ。
さっと身を翻して、獅桜は私の隣を通り過ぎる。一息置いてからその後をゆっくりと追えば、彼は真っ直ぐに本殿へと向かっていった。
石段を上がり、木の戸を開いて、二本の蝋燭だけに灯された内へと進んでいく。
私は戸に片手をついて、中へは入らずにその場で片膝を着いた。私は、その先へと入ることを許されてはいないからだ。
「何も迷ってなどいない」
ぽつり。と獅桜が呟くと、その甘く低い声は私の耳をりんと刺激して、背筋をぞくりと冷やした。視線を上げると、彼は本殿に雄雄しく然と祀られている金色の獅子の像の足元で膝を着いていた。
「何も、一つも、迷ってなど」
そう小さな声で吐き出す彼は、伸ばした左手で獅子の足を撫でてから、頭を垂れる。
「獅桜」
私が呼べば、彼はゆるゆると緩慢な動きで頭を上げ、そのまま微動だにせず獅子を見上げていた。
今の彼には、私の存在など頭には無いのかもしれない。
この忌々しい金色の獅子の前では、彼はいつも私を蔑ろにする。それが罪滅ぼしだとでも思っているのなら、お門違いであるというのに。
獅桜。と再度呼んでみても、彼は何の反応も示さない。本当に、私の声も届いてはいないのだろう。
そっと音を立てずに立ち上がり、私は本殿へと背を向けた。
ヒト達は、ここを去るとき、必ずあの金色の獅子に深々と一礼するらしい。
それほどまでに、かの獅子には信仰の的なる力があるとは思えないのだが、私が口を出せることではないので、今にも苦笑してしまいそうになるのを堪えながら見ている。
参道の石畳へと降りながら振り返ってみれば、変わらず獅桜は獅子の足元で請うように両の手のひらを合わせていた。
その今にも崩れ落ちてしまいそうな細い身体を後ろから抱き締めてあげられたならば、なんと幸せなことだろう。
そんな獅子よりも、私を頼り、私にだけ目を向けていればよいのに。
少なくとも、その物言わぬ無機物の獅子よりも、私にはあなたを守る力がある。
華奢な背中に投げ掛けそうになった言葉を嚥下して、その場から離れるために歩みだした。
獅桜。
美しい名前だと、思った。
この地一帯を守護する地神である金色の獅子『剛天』。
その神託を受けることが出来る唯一の存在である、凪波神社の神子。それが、獅桜だ。
家系代々で受け継ぐ神子としての才能を有り余るほどに持って生まれた獅桜は、歴代最高の神子として、ヒト達に崇められている。
さも、獅桜が神であるかのように、だ。
それも仕方のないことだろうか。
千年の昔から、かの金色の獅子は偉大なる神の力でこの地を守り続け、獅子と交信でき得るのは神子のみ。つまり神子は、神の一言一句を自分の言葉としてヒトに伝え、神の力を自由に扱えるのだから。
故に獅桜はヒトに崇められ、ヒトでありながらヒトとは思われない。
どこか達観した涼やかな目は、そんな境遇から来るのだろう。
私が獅桜を見初めたのは、ヒトの時間で言うならば、四年前のことだ。
獅桜は、この神社に縛り付けられ自由に動けぬ金色の神の代わりに、ヒト達を訪ね歩いていた。
この地を守るために己の足で地を踏みしめ、己の目で現状を見るのが神子の役目だからだ。
金色の獅子の支配下である地に異形の物の怪が踏み入れば、神子は神の力を持ってそれを排除する。そうして、ヒトの安全を維持していた。
私は、その『異形の物の怪』だった。
金色の獅子が守護する禁断の神域に足を踏み入れたのは、その外から眺めていた『獅桜』という存在に目を奪われていたからだ。
獅子の神域へと踏み入った私に、獅桜は鋭い目を向ける。まるで研ぎ澄まされた刃のような、妖しく危うく麗しい冷たい目だった。
私が欲したのは、彼だ。
ヒトの命や、この神域の支配権など、すべて興味は無かった。
ただ一つ、獅桜が欲しかった。
手を伸ばした時、獅桜の細い身体が金色の光を放つ。
途端に、私の体は四肢をそれぞればらばらに引き千切られるような激しい苦痛を訴えた。
私と獅桜とを包んだ金色の光が、この地の神である獅子そのものだと気付いた時に、私は激しい嫉妬を覚えていた。
獅桜は、この獅子のものだ。
神に縛られ、神の言葉どおりに動き、神のためだけに生きる獅桜。
そして神は、獅桜を他には渡さまいと、私を破壊しようとする。
獅桜の泣きそうな目が私を見ていた。
怖かったのだろう。
己の手を離れ、ただの物の怪相手に力を暴走させる神の存在が。
獅桜が遣えるべき神は、今や、獅桜への独占欲に狂う邪神と化して私を攻撃する。
神域の外から見ていた獅桜は、いつも背をぴんと伸ばし、真っ直ぐに前を見ていた。
ヒトを見る目は感情こそ表してなどいないのに、どこか優しく、それでいて寂しげだった。
ああ、彼は、ヒトでありながらヒトでない存在だというのに、ヒトを愛しく思っているのだろう。そう悟った。
なんと切なく儚く、美しいヒトだろう。
そうして私は、彼に恋焦がれていった。
神の力に怯える彼を救おうとした。
もう、怖がることなど、ないのだと。
金色の光が霧散したとき、獅桜は震えていた。
彼を包む恐怖から救ってあげようと、私は一歩ずつ彼へと踏み出していく。それと同時に神域は、ムッと獣の臭いに包まれていった。
それは、神域が物の怪に侵されたことの象徴だった。
―私は、金色の獅子を喰らった。
「白夜」
甘く低い声が私を呼ぶ。
咄嗟に振り返り、桜で出来た絨毯の上で片膝を着いた。見上げると、獅桜の硝子玉のように曇りの無い目が私を見下ろしている。
「何を考えていた」
問う声の後、視線が近付いてくる。
私の前でしゃがみ込んだ獅桜が視線を合わせるように覗き込んで、窺う様な目をしてみせた。
私は、ふっと口端を緩める。少しだけ、挑発的な目で。
「忌々しい神を喰らったときのことを思い出しておりました」
「……」
獅桜の眉間に深い皺が寄る。私は小さく笑った。
「後悔しておりますか?」
「何を……」
「獅子の代わりに、私をこの地の守神にしたことを、です」
ぐ、と獅桜が息を飲んでから、素早く目を逸らした。
腰を上げて背を向けた獅桜の手首を掴む。細く、滑らかな、か弱い手だ。
「あの獅子は、永くこの地を守り続けていたことで、酷く弱っていた。私が喰らわずとも、早いうちには滅していたことでしょう」
背を向けたままの獅桜が黙り込んだ。
手首を掴む手を少しずつ移動させて、小袖に包まれた獅桜の白い腕をなぞってみる。細くとも神の代行として物の怪を排除する彼の腕は、適度に筋肉を纏う。肘よりも上へと手を滑らせて筋張った部分をなぞれば、獅桜の体が緊張するように強張った。
「獅子がとっくに死していること、ヒトは未だ誰も気付いてはいないようですね」
「……お前は、剛天様にも劣らない力を持っていたから……」
「ええ。だから、あの獅子亡き後を、私に任せてくださったのですよね」
細く長い獅桜の指先に口付ける。咄嗟に手を引いて一歩離れた獅桜は、きっと鋭い目で私を睨んだ。
「ですが、限界でしょう。私は神ではない。物の怪です。神域無き今、この地は物の怪の溜まり場と化しつつあります」
私のせいではありますが、と自嘲のように付け加えると、獅桜の視線が泳いだ。
「……剛天様が……」
視線を逸らしたまま、獅桜が呟いた。
「剛天様がお前を襲ったのは、未だに私にも理由が解らない……神域を侵したとはいえ、お前は人に危害を加える気が無いと、私は思ったんだ」
彼らしくない、自信の無さそうな声が響く。
首を傾げて獅桜の顔を覗き込んでみれば、ゆっくりと顔を背けてしまう。
「だから、私はお前を説得して神域から出そうとした。けれど、剛天様は……」
「問答無用で私を排除しようとした。その理由が解らないと?」
くすりと笑って聞けば、暫し黙り込んだ獅桜が、こくりと頷いた。
思わず大きな声を上げて笑ってしまいそうになった。
なんと愚かで美しいのだろう。
己がどれ程までにあの獅子を魅了していたか、まったく理解してはいないのだから。
「獅桜、少しだけでもいい。厭らしい男になりなさい」
「……」
「あなたは、穢れが無さ過ぎます。それがあなたを象るものであっても、時にそれが愚かさを助長する」
今のようにね。
立ち上がって獅桜を見下ろせば、彼はぐっと唇を噛み締め、目を細めていた。神子として誇り高く生きてきた人だ。物の怪に未熟を諭されるのは屈辱的なのだろう。
「いずれにせよ、一時凌ぎで私を社に迎えたのは幸であったか、否か……」
ぽつりと私が呟くと、私の声を掻き消す様に、喧騒がどっと響いてくる。
何かと鳥居の向こうを見れば、その喧騒を撒き散らしている原因であろう一行が此方へと駆けて来るのが見えた。
獅桜は緋袴を翻して素早く一行へと駆け寄っていく。私はのんびりとした歩調で獅桜を追った。
「神子様! 物の怪が!! 物の怪が……!」
近くに住む地主の一人である老爺が、蒼褪めた顔で呻いている。見れば、老爺の腕は刃で斬られたように一直線に裂け、止め処なく鮮血が滴っていた。
老爺について来た数人の従者は、一様に怯えきった表情で震えていた。彼らも、そこかしこに酷い裂傷をこさえている。彼らが放つ濃厚な血の臭いに、私は密かに眉を寄せた。
「物の怪が、皆を切り殺しているのです、神子……!!」
横目で盗み見た獅桜は必死に縋り付く老爺を表情も無く見つめ、それからふと一瞬だけ、泣きそうな表情で私を見た。
私は口端を無理に引き上げて笑みを返し、それから頷いてやる。すると、獅桜はすぐに老爺へと視線を戻した。
「社務所に人がおります。そこですぐに手当てをしてもらってください」
いつもの落ち着いた声で言って老爺を引き剥がし、獅桜はひらりと軽く走り出した。
参道を駆けて真っ直ぐに鳥居を抜ける彼を、私はぴたりと後ろについて追う。
物の怪の姿の方が足が速いのだけれども、それでは獅桜を置いていってしまうので、私はいつもこのヒトの姿でいる。
……その方が、並んだ時の獅桜の目が優しい、というのもあるけれど。
獅桜は、神社に駆け込んで来た老爺の住む館のある方へと駆けていく。神社の周囲を覆う竹林道を抜けて東へと向かう彼の後を、私は無言で追った。
目的地へと近付く程にむっと吐き気がするような異臭に包まれて、眩暈がしていた。
時折、前を走る獅桜がちらりとこちらを振り返る。この臭いは、獅桜も感じているのだろう。ヒトより嗅覚が鋭い私を気遣う彼に、私は何度もにこりと微笑んで安心させるのを繰り返した。
館の前に着くと、獅桜は足を止めて大きく頭を振った。
「酷い……」
異臭の原因は、間違いなくこの館だ。
館を取り巻く濃厚な血の臭いとそれにねっとりと絡まる死臭に、私だけでなく、獅桜まで足元をふらつかせている。
手を伸ばして獅桜の背を支えれば、彼はくっと小さく息を飲んでから、館の中へと駆け込んで行った。
名の知れた地主だけあって立派な造りの館からは、物音もしない。
草履を脱がずに土間から屋敷の中へと入っていけば、獅桜が再度首を振った。
廊下を派手に彩っていたのは、真っ赤な人血だったからだ。
床も、壁も、天井も、散った赤い飛沫でどろりと濡れ、ぽたりと滴った血が獅桜の真っ白な小袖を斑に染め上げていった。
私が着ていた羽織を獅桜の肩へと掛けてやれば、一度びくりと肩を震わせた獅桜は、ゆっくりと一歩踏み出す。
廊下の向こうにあった大広間の惨状は、獅桜の足を止めるには充分だった。
そこに転がるのは、もはや、ヒトとは違う。
ばらばらに四肢を切り裂かれ、ただの肉塊となった屋敷の住人たちの姿に、獅桜が片手で口元を押さえた。横目で見た彼の顔は、血の気を無くして病的な白さに変わっている。
彼を背後に押しやってから、私は広間へと入っていく。
足元でぱしゃぱしゃと跳ねる赤い血の池は、草履に染み込んで真っ赤に彩る。水分を吸って徐々に重たくなる足元に注意しながら踏み出す都度、ぐぽりと水分が破裂する音がする。
その中でしゃがみ込み、そっと、ヒトであった彼らに手を伸ばす。
無造作に床に転がっている赤黒い塊に指を伸ばせば、「やめろ」と獅桜が叫んだ。
広間の入口で立ち尽くしていた獅桜は、目が合うと何度も首を横に振る。
「……獅桜」
私が呼ぶと、獅桜は今にも泣き出してしまいそうな目で私を見つめた。
赤い池の中で、私は獅桜へと指先を伸ばす。
「もう、限界です。放っておけば、物の怪はこの地のヒトを喰らい尽くしてしまいますよ」
静かに、なるべく優しい声色で言った。
獅桜は、唇を噛み締めたまま私から目を逸らさない。
「現状をどうにか出来るのは、あなたと、そして私だけです」
ひたり、と天井から落ちた赤が私の頬を濡らした。
指先でそれを拭うと、どろりとした生温い感触が手に広がっていく。
私は、それや、足元に転がる塊に興味も沸かないし、むしろ放つ悪臭に気分が悪くなるのだが、大半の物の怪は人肉を大層好む。
柔らかく、甘美な味のするヒトというものは、物の怪にとってはただの馳走にしか見えないのだ。
今この地は、物の怪にとって、最上級の狩場でしかない。
「獅桜」
私の声を遮るように、獅桜はそっと、震える目蓋を閉じた。
私は、この地の神を喰らった。
……衰えて死に掛けていた神だ。私が喰らわずとも、いずれ死んでいた。
獅桜は、私を金色の獅子の代わりに守神に仕立てようとした。
私は神ではないとはいえ、死に掛けた神よりは力を持っていた方だ。神力とは違う、妖力という力を。
その力を貸して欲しい、と獅桜は言った。
彼も、必死だったのだろう。この地を守るために。
そうでなければ、神を殺した物の怪なんぞに、助けを請う筈が無かったのだから。
私は、獅桜の傍にいられるならば、なんでも良かった。
物の怪の姿はすぐにやめた。
獅桜と並ぶために、ヒトの姿をしてみせた。
ヒトの振りをして、彼の従者を気取ってみた。
それで少し、彼に近付いた気がした。
四年もの間、獅桜は私の力を借りて、侵入してくる物の怪を殺め続けた。
獅子の結界によって守られていた地は、今や玄関の無い屋敷も同然。物の怪は簡単に入り込んでくる。
奴らがヒトへと手を伸ばす前に、獅桜と私が殺す。それを繰り返す。何度も、何度も、何度も。
けれど、限界だ。
既にこの地は、物の怪の巣窟と化している。
どれ程獅桜が力を尽くしても、少しずつ、少しずつ、ヒトは消えていった。
この地の民は、未だに神が死んだことに気付いてはいない。
それどころか、今己らの地を守っているものが、『恐るべき物の怪』であることにすら気付いてなどいない。
故に、物の怪が横暴に振舞う現状に、戸惑っているのだ。
どうして? 剛天様に守られているはずなのに? と。
もう、誤魔化せはしない。獅桜も気付いている。
けれど『神は死んだ』などと、言えるはずもないのだ。
獅桜は、迷っている。この現状を、どうするべきか、と。
そして、その答えを、私は知っている。
この地で最も神聖な場所であるはずの凪波神社の境内すら、むせ返るような血の臭いで満たされている。
満月の夜を前にして、民は続々と神社へと駆け込んできていた。
神子である獅桜に守ってもらおうと、我先にと他を蹴散らして本殿へと押し寄せる。ヒトとは、なんと愚かで醜いのだろう。
獅桜は、神社を囲む鎮守の杜の一角にある湖にいた。
大きな水溜りのようなその湖を、獅桜は好んでいる。よく湖の縁に座り込み、細く白い脚をしっとりと水中へと浸している姿を眺めたものだ。
僅かな風でゆらゆらと揺れる湖面には蒼白い月が丸く落ちて、風で作られる小さな波で消え失せるように崩れていく。
それを強い眼差しで見下ろしていた獅桜は、私が背後から近付くと、ゆっくりと振り返った。
「あなたに守っていただきたいヒトが境内に押し寄せていますよ」
「……わかってる」
「どうするおつもりですか」
問えば、獅桜の形の良い唇が歪んだ。ぐっと堪えるように引き結ぶ口に、私は苦笑を返してみせる。
「獅桜、私はあなたのためならばなんだって出来ますよ」
「……白夜」
「あなたにとって私は神の代替物でしかないのかもしれませんが、私にとってあなたは、私のすべてです」
青い草を踏みしめて、獅桜の前に立つ。
見上げてくる獅桜の漆黒の髪を中指と人差し指でなぞった。それだけで、胸が熱く痛む。
「私は、ヒトの命などどうだっていい。けれど守らなければ、あなたが苦しむ」
指の間をするするとすり抜ける細い髪から目尻へ、そして淡い桃色の唇へと指先を這わせると、獅桜の瞳が艶やかに濡れ始める。
最高の神子と崇められている彼も、その能のような堅い面を外してしまえば、年若い青年でしかない。滾る欲にすぐに流される。私はそれを知っている。
若さと未熟さ故に決断をしきれない彼に、私は微笑んでみせる。
「獅桜、私を使いなさい」
大きく左右に揺れた黒い瞳に、私は笑みを崩さない。
「満月の夜、物の怪はこの地のヒトを喰い尽すために、大勢で押し寄せましょう。私ならばすべての物の怪を留め、この地から引き離すことが出来ます」
獅桜の目は、私の言葉の真意を探るように慎重に覗き込んでくる。
そんな風に見ずとも、とっくに彼の中で答えは出ているはずなのに。未だ答えから逃れようとする愚かな彼が、今はただただ愛おしくて息苦しくもある。
「私は、本来ならば『あちら側』の上へ立つものですから。彼らを誘導することなど雑作もない」
「……この地から、引き離すって、」
獅桜の唇が薄く開く。
己の小さく震えた声に戸惑ったのかきつく口を閉ざしてから、獅桜は目を細めて見上げてくる。
答えを待つように、そのまま大きな瞳で私の言葉を待つ彼の頬を手の甲でするりと撫で上げてから、微笑んで見せた。
「私が彼らを率いて、神域であったこの地から出て行きます。その間に、あなたは私の力を使って新しく結界を張り直せばいい」
あなたなら、できますよね?
そう目で言えば、獅桜の唇が微かに震える。既に潤んでいた瞳が、一層水気を湛えて見つめてくるのを、私は変わらぬ笑みで返した。
気を抜けば、今にも獅桜を引き寄せて、その首筋に舌を這わせ、存分に彼というものを、そのすべてを味わい尽くしてしまいたい欲に駆られてしまう。
けれど、それは決してしてはならない。
大事な獅桜。
大事だからこそ、私は。
「死にかけの神の結界などは無いに等しいものでしたが、私の力を使った結界ならば、あと数百年は物の怪を遠ざけましょう」
「白夜……」
「神は死したから神域とは呼べませんが、充分でしょう。もう、物の怪狩りなど面倒なことはしなくて済みますよ」
「白夜」
「鼻が曲がるようなこの匂いも、すぐに消えます。喰われたヒトは戻らないけれど、これからの身の安全を考えれば微々たるものでしょう」
「白夜!」
湖面を揺らすような、獅桜の掠れた声が響き渡る。
私を真っ直ぐに見上げる獅桜の目はもう濡れてはいなかった。
代わりに、私を目で射殺すかのように眉間に深い皺を寄せて睨む。強い視線とは裏腹に、私の羽織の袖を掴む右手はカタカタと揺れていた。
「そんなことをしたら、お前はもう、ここには入れなくなる」
「……ええ。すべての物の怪を遮断するための結界ですから」
「もう、私の隣にも居られなくなるんだぞ!」
普段の、人形のように静かな彼とは思えぬような怒声だった。
喉が慣れぬのか幾度も掠れる声は、いつもの凛とした強さを失い、縋るような甘さを含んで私に届く。
ぞくぞくと背筋を這うような甘美さが、その声にはあった。
彼が、私を止めようとする。
それだけで、私の胸は得体の知れない熱に食い破られてしまいそうだった。
このまま焦らせば彼は、私が望む言葉を言うのだろう。
神子として最低の決断を下すのだろう。
けれど、それではならない。
私は、あなたを守ると、そう決めたから。
「ええ。そうですね」
なんとも無いように相槌を打つと、獅桜の目から力がフッと消えていくのが見えた。開いたままの口は何か言いたげに動いて、けれど音を発さずにいる。
私は、はくはくと口を動かして目を見開いている獅桜に、今までで一番の満面の笑みを返した。
獅桜は、呆然と見上げている。
「私は、物の怪ですから。あなたが物珍しく思えてこの地へと踏み入り、成り行きで神の代わりなどしてはみましたが、もう厭きました。ここにはもう、留まる理由もない」
上手く、笑みを作れているだろうか。
引き攣ってはいないだろうか。
まるでヒトのような不安ばかりが押し寄せてきて、それがただ面白く思えた。ヒトと暮らすうちに、私にもヒトらしさが移ってしまったらしい。
発する言葉が、私の真の言葉として獅桜に伝わればいい。
得体の知れない恐ろしい物の怪としての本性として彼に伝わり、そして恐れられるといい。
そして、私から手を離すといい。
「少しの間、楽しい思いをさせてくれた礼です。結界を維持する力も貸して差し上げましょう。私は……」
さぁ、笑え。
「また新たな地で、面白きことを探しますから」
縋りついていた獅桜の手を、私はそっと引き剥がした。
美しい満月の夜だ。
見上げた濃紺の空にぼんやりとした光を放って浮かぶのは、作り物のように丸く白い月だった。
咲き誇る淡い紅の奥に広がる濃紺、それをぽっかりと丸く切り抜いた月。まるで絵に描いたような光景は、なんと美しいものか。
ゆっくりと視線を下ろしていけば、見慣れた神社の境内は、ヒトで溢れている。
神子の声によってこの地のヒトは余さずにこの境内へと集められ、皆、今宵行われるであろう物の怪の行進に肩を震わせていた。
こんなにも美しい夜姿だというのに、誰一人天を眺めてはいない。月明かりに照らされた顔は皆、青白かった。
「剛天さまと獅桜さまが守って下さる。安心なさい」
母親が、傍らで震える子にそう言って微笑んでいる。
笑えたものだ。
剛天という神など、とっくに存在してはいないのに。
結局、この地のヒトは『神』など欠片も感じ取ってはいないのだ。
既に存在もしない神に対して両の手を合わせ、その加護を必死に強請る姿の、なんと滑稽なものか。
そして、それを見て苦しげに目を逸らすこの地の『神子』の、なんと愚かなことか。
その愚かさを、私は憐れに思っただけだ。
そして、戯れにヒトの願いを聞き入れてやっただけだ。
『神の代行』。
なかなかに楽しい遊びではあった。
だが、もう厭きた。
機もよく、同胞達の行進が始まる。その先頭に立って、のんびりとこの地を離れることにしよう。
もう近付くこともないだろう。
物の怪としての本来の生き様の自由さが、今は恋しくて仕方がない。
だから、私はこの地を去るのだ。
本殿に立つ神子は、ずっと俯いていた。
神子との決別を告げてから、彼は一度も目を合わそうとはしなかった。
私も、もう彼には近付かない。
手も伸ばさない。
彼の細い髪を撫でることも、磁器の様に白くつるりと滑らかな肌に指を這わせることも、華奢な腰を悪戯に引き寄せてみることも、もうしない。
すべてヒトの振りをしていただけだ。
ヒトのように、その身体の温もりを感じてみただけだ。
すべて、すべて、なんの意味もない。
むわりと、獣の匂いが辺りに漂った。
ああ、来たか。そうのんびりと顔を上げてみれば、本殿の神子と目が合った気がした。
鳥居の下に立つ私と神子は、遠く離れている。
視覚の優れた私から彼はしっかりと見えているが、ヒトである神子からは、私の姿など捉えられてはいないだろう。
それなのに、その目が、真っ直ぐに私を見ている気がする。
……私も、往生際の悪いものだ。自嘲を溢した。
リン、と、鈴の音が鳴る。
視線を鳥居の外へと移した。嗅ぎ慣れたはずの濃厚な獣の臭いが、いやに不愉快だ。
鈴の音が徐々に大きくなると、境内で身を寄せ合っていたヒトが震え始める。
物の怪たちの行列……百鬼夜行の始まりだ。
リン、リン、リン。涼やかな音と共に近付いてくる。私の本来の『居場所』が。
一歩、鳥居の向こうへ踏み出した。
竹林道をゆったりと進んでくるのは、蒼白く淀んだ光を放つ異形の大群だ。
先頭に立つのは、かつて私の右腕であった黒い妖狐。私の姿を捉えるとすっと一礼して、口に咥えたままの青い火を灯した提灯を左右に揺らす。
すると、妖狐の後ろを付いていた物の怪たちは、一斉に膝を付いて私へと頭を垂れた。
「白夜さま」
ころころと鈴が転がるような声で、妖狐が私へと声を掛ける。
暫しヒトの世に居た私への忠誠は、少しも衰えていないらしい。
妖狐の首に下げられた鈴が鳴る。
頭を垂れる物の怪たちの私を見る目は、畏怖に支配されていた。私はそんな目に笑ってしまった。
『ヒトでありながらヒトに崇められる凪波神社の神子』と『愚かなヒトたち』を見て嘲笑ってはいたが、私も同じではないか。
物の怪でありながら物の怪たちに恐れられ平伏される。それが、千年の刻を生きた妖狐の王たる私の真の姿だ。
鳥居の向こうで、悲鳴が響いていた。
私を取り囲むようにして移動し始めた物の怪たちの姿が見えたのだろう。
醜く顔の崩れたものや、鳥居ほどの大きさの身体を持つ鬼たち。
炎で包まれた巨大な生首。
一つ目の坊主。
緋色の旗を持った二足の戌。
ヒトとは大きく姿形の違う彼らに、ヒトはこの世の終わりのような顔をして震えている。
そんなヒトの姿を捉えた我が同胞たちは、私を見ていた畏怖の目とは違う、ただ本能のままにヒトを喰らうぎらついた色をした目を泳がせ始めていた。今まさに、その身体には耐え難い食欲だけが渦巻いているに違いない。
「白夜さま。我らはこの鳥居の結界を破れはしませぬ」
妖狐の声がする。
「どうか貴方様のお力で、ここを開けて下さいませ」
ふっと、小さな笑いが漏れた。
この鳥居を行き来出来る力があるのは、私だけだ。他の物の怪には、この向こうにいるヒトには手も足も出ない。
それを、破れと云う。
そして、ヒトを喰わせろと云う。
物の怪の頭領として、それに応えるのが正解なのだろう。
けれど私は、凪波神社の神子という愚かな人間に、僅かに情を移してしまった身だ。
私を慕う彼らの言葉には、頷けない。
「白夜さま」
妖狐の声が、私を急かしている。
私は、私の同胞たちにふっと笑みを返してみせた。
ほんの少し、目を伏せる。
足元からひやりと冷たい感覚が襲って、すぐに消えていく。私の身体から噴き上がった無数の白い光の玉が、濃紺の空へと飛んでいく。それはまるで、降り積もった雪が風で舞い上がるかのように軽やかに、そして朧気な光景だ。
光の玉は儚く霧散していく。私の姿は、ヒトから、白く輝く毛並みを持つ狐の姿へと変わっただろう。
一層大きくなったヒトの悲鳴が私を包んだ。
私を見つめる物の怪たちの目が羨望で飲まれている。
白い毛と、九つの尾を持つ私のこの姿こそが、私の本来の姿だ。
そして、ヒトの最大の恐怖の対象、『九尾の妖狐』。
今の今まで『神子』の従者だと思っていた男が物の怪に変わる光景を、ヒトはどんな思いで見ただろう。彼らを覆う恐怖を考えると、妙に可笑しかった。
白い狐は笑う。カラコロと鈴の鳴る音をした笑い声に、ヒトは声を発することも忘れていた。
「我が同胞よ」
白い狐の低い声は、凛と夜闇に響き渡る。
その声は鳥居の向こうで守られているヒトと、その頂点に立つ神子にも聞こえただろう。
私の言葉を、ヒトを喰らう号令を待つ同胞たちの目が、月明かりの下で怪しく煌く。耐え切れずに涎を垂らす戌を見て、白い狐は何度目かの嘲笑を漏らした。
白い狐は云う。
「私はこの地に飽いた。今宵、ここを離れようと思う」
物の怪たちの目に、動揺が浮かんでいた。
それも仕方ない話だろう。
今、目の前に最上級の餌を吊り下げられているというのに、彼らを飼う白い狐は『待て』をしたまま、ここから離れろと命令したのだから。
妖狐が、何か言いたげに提灯を揺らし、しかし黙って私の傍らに寄った。待ち望んだ宴よりも、私への忠誠を選んだらしい。
妖狐の英断を物の怪たちは顔を見合わせながら眺めていたが、一体、また一体と、己の持ち場へと戻っていく。名残惜しげに鳥居の向こうを眺める彼らの目を、白い狐は金色の瞳で見つめていた。
物の怪の行進は、現れた時と同じく、狐を先頭に二列ずつ並ぶ大行列へと戻る。違うのは、更にその先頭に、白い光を放つ九尾の狐が立っていることだ。
本来の頭領を得た百鬼夜行は、ゆっくりと前進を始めた。
白い狐の脚の下で、砂利が音を鳴らす。夜行が進むと乾いた音が延々と続いていく。
左右を覆う竹林道を、のんびりと、物見遊山のように進んでいった。
その脚が、ほのかに重い。けれどそれは、気付かぬふりをした。
あと少しで、かつての神域であった地域を抜ける。
凪波神社が最北に位置し、そこから東西南に広がる『剛天の神域』であった地。そこを、白い狐は離れようとしている。
ヒトの時にすれば四年の月日。千年の刻を生きた白い狐からすれば、ほんの一瞬の出来事だ。ゆえに、まるで昨日の事の様に、この地で過ごした日々が思い浮かぶ。
それらをすべて、この地へ置いていかねばならない。この地を離れたと同時に、白い狐は物の怪の王たる存在へと戻るのだから。
ヒトに情を掛けた愚かな白狐など、物の怪の王に相応しくはない。だからこそ、そんな過去すらすべて置いていくのだ。すべての記憶を、ここへ捨てていく。
白い狐は、ヒトを捨てていく。
「白夜!!」
甘い声だ。
白い狐が聞き慣れ、そして焦がれた声が、名を叫ぶ。
夜行がざわついた。
歩を止めた白い狐が振り返る。
夜行の向こうで立ち尽くす姿を捉え、小さな小さな嘆息を漏らした。
獅桜。
鳥居から出て、夜行を見送る一つの影に、私は喉を震わせた。
濃紺の中に浮かぶ白い月のように、闇夜の中で立ちすくむ白と朱の装束を纏う獅桜は、彼自体が光を放つかの如く、柔らかで美しい存在感を放っている。
獅桜。
喉の奥で呼ぶと、私の足など、すぐに歩みを止めてしまいたくなる。
どうして、鳥居の向こうから出てきてしまったのだろう。このまま姿を見せず、私を恨んだままでいてくれれば、私は。
彼が、何度も何度も私の名を呼んでいた。
その声は、私に縋り付くものだ。
私を引きとめようと必死に叫ぶ声が、掠れて濁る。
もうやめなさい、と声を掛けてしまいそうだった。
彼の、笛の音のような美しく低い声が好きなのだ。今やその美しい声が、濁って痛々しい音へと変わってしまっている。
獅桜の目が、私だけを見つめている。
その大きな瞳から流れ出た一筋の涙に、私は背を向けた。
足は、一層に重い。
獅桜の声が響くたびに、夜行には戸惑いが沸き立つ。されど、私はなんとも無いことのように歩を再開した。
一歩、一歩と進み往く。
一歩、一歩と離れ往く。
鼻先に神域の終わりが差し迫っても、獅桜の掠れた声が耳に届いていた。嗚咽の様に途切れる声が、ただ、この身体へと狂おしい熱を沸き立たせていく。
神域を囲むように咲き誇っていた桜の花びらが、強い風に煽られて夜行へと降り注いだ。雨のように身体中に落ちた淡い紅色の可憐な花びらを見つめ、私は彼の姿を脳裏に焼き付けて、そしてすぐに消し去った。
濃厚な夜に咲く桜は、酷くか弱い色をした小さな花弁だというのに、儚くも麗しく宵闇を彩って、そして散っていく。
危うく、妖しい、美しいその花と同じ名を持つ彼は、同じ様に美しかった。その姿を、目を強く伏せて暗い黒の奥へと押し遣る。
身体を包んでいた熱も、同時に消えていく。私の足は、憮然と歩みを再開した。
神域を抜けて暫くの後、胸がどくりと熱く脈を打つ。
一気に力を吸い取られるような感覚と背後で濃厚になった桜の香りで、神域に新たな結界が張り直されたことを知る。
滞りなく結界を張り直すことに成功した獅桜の腕の良さに、私はくすりと一つ、笑みを溢して、すぐにそれを忘れた。
獅桜。
貴方に手を触れたのは、戯れでもなんでもないのです。
貴方を欲したのは、私の真なる想いなのです。
獅桜。
私は貴方を愛していました。
貴方と居られたほんの僅かな時を、私は、幸せだと思いました。
だからこそ、獅桜。
さようなら。
◆ ◆ ◆
……少し前までは薄桃の彩りを全身に纏わせていた木々が、今は青青とした健やかな葉を天へと伸ばしていた。力強く上へ上へと伸びる姿の清清しさは、見ていて飽きない。
じりじりと皮膚を刺す様な暑い陽射しを受けて、物の怪たちは一斉に暗いねぐらへと逃げ込んでしまった。彼らは、暑さに弱い。
大半の物の怪は、この時期は夜にならなければ外へは出てこない。昼に溜まった鬱憤を、夜に晴らすのだ。なので夜な夜な宴会が開かれる。人里から奪った酒を振舞い、川から拾った魚や、木の実で豪勢な宴会を催して、饗宴に耽る。何の制限もない、自由な日々だ。
私は、といえば、毎日飽きもせずに木々を眺めて過ごす。
ヒトとして過ごしていた時も、『彼』と並んでそうして過ごしていたからだ。
暑い季節には、木陰から日に日に重量を増していく艶やかな緑の葉を見上げて、ひんやりと冷やされた麦を炒った茶を啜る。
ほのかに外気が冷えた頃になってくれば、燃えるような紅へと変わっていく周囲を歩み、『彼』はよく栗を外套に包んで持って帰っていた。
深々と降り積もる雪に支配され、音を遮られる頃になれば、社務所の窓を開け放ち、辺りを白へと変えていく情景を肴に酒を煽る。
そして、薄紅が咲き誇る季節には、『彼』と並んで散り逝く姿を見届けていた。
今は隣に無い温もりに、私は微かに苦笑してみせた。
視線の先にある木々の茂る地区は、結界で守られている。己の力を分け与えて作った結界とはいえ、私には、そこを抜ける術は無い。
ヒトに崇め奉られていた今代の神子の力は、本来ならば神や物の怪の加護など無くとも強大なものだったようだ。
思ったよりも強靭な結界を張ってみせた『彼』には、今さらながら感心した。所詮はヒトと侮っていたが、『彼』ならば、これから何が起こっても民を守れるだろう。
あの結界の向こうで過ごした日々は、夢だと思うのだ。
昨日のことのように、『彼』の一句一言が思い出せるというのに、その姿が思い出せないのだから。
低く、甘い、私の好む音を発する口すら、思い出せない。
『彼』を抱いたときの温もりが腕には残っているのに、その身体がどんな形をしていたか、どんな目で私を見ていたか、もう、思い出すことは出来ない。
……それで良い。
あの向こうの世界と、私の住む世界は別のもの。違う世界のものを、こちらには持ってきてはいけない。秩序を乱してしまうからだ。
夜行の後暫くは、私がヒトと過ごしていたことに疑心を持つ同胞たちも多かった。それどころか、ヒトを守るために多くの同胞を殺したのだ。
けれど、今の私には、ヒトの記憶など朧気で不確かなものでしかない。
それを感じ取った彼らは、再度私に忠誠を誓ったようだ。
一度ヒトのもとへと居た私に再度盲目的な畏怖を向ける彼らを、やはり私は嘲笑してしまう。
何度も思うのだ。
私も、『彼』も、同じだと。
同種に畏怖と尊敬に塗れた薄気味の悪い目を向けられる『彼』に、同族に対する深い好意を抱いたのが始まりであっただろうか。
それとも、最初から、愛しいという想いがあったのだろうか。
ここ最近、そんなことを厭きもせずに延々と考えている。
『彼』に対して抱いた気持ちのすべてを、はっきりと理由付けて、心に繋ぎとめておきたいからだ。
曖昧なままでいれば、きっと、さらに数千の刻を生きる私は、忘れてしまう。
忘れたくはないのだ、もう。『彼』に関してのすべてを。
「白夜さま、そろそろ涼みにいらしてください」
背後から聞こえた声で振り返る。そこには、黒い狐が恭しく頭を垂れて控えていた。細められた瞳から、彼が暑さに耐えていることを悟って、私はふふ、と笑ってみせた。
「私は暑さが苦ではないよ。お前は先に戻りなさい」
「ですが」
「川へ行って、今宵の宴用の魚を選んできなさい。ついでに身体を冷やしてくるといい」
私が言えば、暫し躊躇した黒狐は、しかし暑さに相当参っていたのか、一礼してから森へと戻っていった。
神域の外にある大きな森は、私の統治する場の一部だ。
夏の日除けにはうってつけの、鬱蒼と生い茂る木々を好んで、物の怪たちはそこに各々の住処を作っている。中央に流れる川には美味い魚も沢山いる。
そういった利便性から、私はここに残ることにした。私が縄張りを移動すれば、私を慕うものも、住み慣れた場を捨てなければならない。それは、少し残酷な気がしたからだ。
森の最深部にある松の木が、私の住処だ。
そこで寝て、そして陽が昇ると、私は森を出る。
神域の見える位置まで来て、そこでのんびりと腰を下ろして、一日を過ごす。
酷く、穏やかで、単調な日々。
神域の中にいたころと比べれば、平和で、暇な時の過ごし方だ。
それが私の本来の姿とはいえ、少し、寂しい。
必ず隣にいた温もりがないことを、一層悲愴めいて思い出させるのだから。
逢いたいと、思ってもいいのだろうか。
いや、だめだ。
それに、思っても詮無いことだ。
私には、あの結界を越える力がない。
思うだけ、狂おしくなるだけ。
けれど、思うのだ。
毎日、毎日、毎日、毎日。
日に日に変わっていく自然の姿を共有して、愛しさを注いで生きたあの日々が、ただ、呼吸を忘れるほどに切なくこの身を狂おすのだ。
そして、思い出せぬ『彼』に触れたくて堪らなくなる。
千の刻を生きた中で、こんなにも身を焦がしたことなど無かった。
だからこそもう一度、その甘い時の過ごし方に、身を投じたくなってしまう。
喉を震わせる。
沸き上がる情欲を吐き出すように、私はその音に、想いを乗せる。
『彼』には届かないその音が、甘い響きを持って木々を揺らした。
「獅桜」
なんと、美しい名だろう。
思い出せぬ姿。けれど、その名だけで、私はこんなにも焦がれる。
「愛しております」
はっきりと告げられなかった想いを乗せて、風が吹き荒ぶ。
青い草木を揺らす風に、私は口端を歪ませた。
幻想だと思った。
狂った私の作り上げた、虚偽の光景だと。
神域を覆う青い木々の下、白と朱を纏う美しい姿の青年が、私を見ていた。
その姿は、思い出そうと必死になる度に目蓋の裏側に浮かぶ、偽りの『彼』の姿と酷似していた。
風で簡単に舞う、細い漆黒の髪。
冷ややかな色を秘めた、大きな瞳。
燃えるような赤をした、艶やかな唇。
抱いたら折れてしまいそうな、華奢な体躯。
伸ばした指は、細く、白く、しかし力強い。
夢見た姿とまったく同じ形をしたヒトに、私の目は釘付けになっていた。
ヒトは、ふっと笑う。
物の怪である私に対して笑うその青年に、私はぞくりと背中を走る得体の知れない感覚を持て余してしまった。
青年は私に甘美な感覚を絶え間なく与える。
沸き上がる欲を飲み干すように喉を鳴らすと、青年は一層深い笑みを向けた。
「白夜」
呼ぶ声は、『彼』の声だった。
伸ばした細い指先が、私を指差している。
「どうした? 先に呼んだのは、お前の方だろう」
低い、甘い、優しい声。
望み続けた『彼』を前に、私は熱い想いに支配されて一歩も動けやしなかった。
彼は、獅桜は、踏み出す。
それ以上はいけません、と叫ぼうとした声も音にならなかった。
神域の境界を示す注連縄を一瞥した獅桜は、何の躊躇いもなく、それを乗り越えてしまう。
じわりと蜃気楼の様に神域が歪み、そしてすぐに元通りになった。周囲にわっとたち込めた桜の芳しい香りが、青い風に乗って舞い上がる。
獅桜は、神域の外へと踏み出していた。
神域の外、つまり私の縄張りの上で、獅桜はさらさらと成す術なく風に揺れる花弁のように、頼りなく立っている。けれどその目には、恐れも、後悔も、何もない。ただじっと、私だけを見ていた。
そして、そのしなやかな両手を伸ばすのだ。
「獅桜」
呼ぶと、花の綻ぶような笑みが私へと向けられる。
夢でもいい。
夢でも。
抱き締めたその細い身体からは、季節はずれの甘い桜の香りがした。
包み込んだその花弁を、私は、もう、手離しはしないだろう。