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作者: 笹舟

 怠惰な者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、賢くなれ。


‡‡‡‡

 奴らはよく我が家の前で屯っている。大抵の者はうろうろと要領を得ぬ。それでも四月のよく晴れた日、その年初めて奴らが顔を見せたときなぞは、旧友に会ったかのように嬉しくなったりもするものだ。

 とある五月の晴れた日。わたしは午前中、軽く公園で運動をした。と言っても、ちょっと走っただけで脇腹が痛くなる体たらくで、早々のうちに失意と惨めさのうちに下を向いて帰ったのである。

 と、家の前で奴らが何やら小豆と格闘しているところに出くわした。否、よく見ると小豆にしては光沢が強い。動いている。それは小さな甲虫の類だった。奴らはそいつをどうにかして自分たちの巣へ運び込もうと苦闘していたのである。

だがその努力はあまり功を奏していなかった。突進する像の巨足の各々に人一人ずつしがみつくようなものであった。その非力の哀れに、或いはその心意気の勇猛さに、思わず視界が滲む。

 然し、見よ、小豆の奴も流石に能無しである。纏い付く蟻の諸氏を振り切ろうと突き進む先はその我が家たる巣窟の方ではないか。嗚呼、遂にこいつも地獄の暗渠に魅入られてしまったのか。無自覚の罪はこの度も自らを滅ぼすのか。

 わたしは天を仰いだ。空は無自覚にただ青い。

 決着はついたか。暫しの後、覚悟と共に再度俯き見ると意外や意外、小豆は危機を間一髪で退け、逆サイドへようよう回り込んでいた。巨体力士が土俵際身軽に体を入れ替えるが如き、意表をつく鮮やかさであった。

 これは案外長期戦と洒落込みそうな気配である。わたしは家の門の前で腰を落ち着けた。アスファルトがほんのり熱い。肺の痛みが少しばかり思い出される。

 

 ふと視線をずらすと、小豆の他にも4、5人集まっているポイントがあった。

 何か。騒ぎの中心を俯瞰すると、曳かれているのは蟻の遺骸そのものであった。葬式であろうか。その割には騒がしい。不穏当である。みな思い思いの方向へ遺体を引っ張っているのである。皆一歩も引かない。小豆に対するより真剣な何かがそこにはあった。

 わたしは耳を澄ませた。

「下がれ、下がれ!これはもはや営舎へ運ばれる食料であるぞ」

「待ってくれ、これは俺の友人だ。食いもんじゃない。どこかへ葬らせてくれ」

「散れ!さもないと軍を呼ぶぞ」

しかし兵隊は見てみぬ振り。

「頼む、葬らせてくれ」

「散れ、無礼者!公共の蛋白源に何をするか」

 堂々巡りである。どうやら遺体をどのように処理するかで問題があるらしい。実際わたしは、蟻が仲間の亡骸を、誰にも知られぬよう巣から遠くへ持ち去るのを目撃したことがある。だが身内で密葬できぬこのようなケースはトラブルになりがちなのだろう。


 背中の方で足音が聞こえる。つと振り返ると、向いに住む女の子が学校から帰ってきたところだった。鮮やかなオレンジ色のランドセルが、とても大きく見える。

「こんにちは」

挨拶してみると、怯えたように二、三度瞬き、ぱっとお辞儀して家に駆け込んだ。地べたに座り込んで何やら熱心に見ている半そで短パンのお兄さんは、人生経験の浅き者には少し奇異な光景であったやも知れぬ。彼女はまたひとつ世界を知った。


 さて。視線を戻すと奴らはまだ小豆と闘っていた。ああ、大いに結構――。粘り強さは大いに評価するが、これでは何時になったら勝負がつくのか解りゃしない。早くもわたしは飽き始めていた。

 大体奴らには節操が無い。集中力が決定的に不足している。小豆に挑みかかるまではよいのだが、すぐ離れてうろうろサボりだす。或いは触覚同士を打ち合わせ、雑談に興じ始める。これではとても無理だ。尤も、目の前で如何にお仲間が労苦していようと手を貸しさえしない輩も多い。一度でも挑む奴はましなほうだ。

 よく見ると蟻の諸氏は案外勤勉でない。その振りが上手いだけである。わたしも時給で働く一フリーターとして、その立ち居振る舞いに学ぶべきところは多いのかもしれない。

 一度小豆は不覚を取り、ひっくり返されるに及んだ。ずるずる引きずられ万事窮したかにも思われたが、そこもやはり蟻諸氏の不手際と、小高い丘の連続する地形にも助けられ、体勢を持ち直していた。

 溜息。これにてわたしは興味を完全に失った。


 何となく脛の辺りがむず痒い。目をやると、その密林を冒険する果敢な奴がいた。幾千もの毛がその行く手を阻む。うっすら浮かんだ汗も強敵である。それでも彼は果敢に挑み、上を行ったり下を行ったりしながら探索してゆくのであった。下に潜った時なぞは相当むず痒かったが、偉業に挑戦する者への敬意ゆえ、わたしは必死でこらえた。観察者はその試みに決して干渉してはならないのである。

 しかし残念なことに冒険家の足もだんだん鈍くなった。しきりに顔をぬぐうようになった。三歩おきぐらいにぬぐう。丁寧に、丁寧に。初めは微笑ましく思っていたが、繰り返されるとだんだん腹が立ってくる。わたしは彼を吹き飛ばした。

 じりじりと首筋の焼かれる感覚。深く息を吸う。

 相変わらず奴らは屯い、そして小豆と格闘している。

 またひとつ、大きく息を吐く。

 わたしは尻を払って立ち上がった。


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