二人乗りは、遅刻の日に
「祗園乃宮」
「はぁ?」
「あたしの名前」
〇
桜が風と共に散り、梅雨が過ぎ、夏の太陽が遅れてやってきたある夏の日の事。
ギーコーギーコーと重いペダルを必死に漕ぎ、いつもの坂道を汗を振りまきながら上る。
俺は立ち漕ぎなどしない、だから滅茶苦茶大変だ。だが、俺はあんな方法邪道だと思っている。
俺の中では、いかなる時も立ち漕ぎをしてはいけない、したら一生呪われる。
そんなジンクスが子供の頃からある。
何故かと聞かれれば俺にも分からない。表現豊かで発想が柔軟な子供の時に考えた事に対して、どうしてそう至ったのかという疑問を持ってはいけない。
まあ、ジンクスを破っても実際には何も起きはしない。それだけの話である。
「ハーハー…やっとこさ頂上だー」
高校に入学し、この坂と3年間付き合う羽目になったわけだが、二年経った今でもこの坂道は足に堪える。
迂回ルートもあるのだが、いかんせんかなりの遠回りになる。特に遅刻常習犯の俺は、必然的にこの坂道を毎日上り続けている。
実は今日も時間ギリギリだったりするわけで、俺は乳酸の溜まった両足をさらに酷使させ学校へと向かう。
せっせとペダルを漕ぎ、一本道の住宅街に差しかかる。
すると。
「ん?」
数メートル先に女子高生と思われる人物が、電柱の下で体育座りをしていた。
瞬時に俺は、このままスピードを上げて何食わぬ顔で通り過ぎるか、それともリスクを覚悟し減速して様子を見るか考えた。
遅刻魔というレッテルを貼られて早二年が経つ。
今更この汚名の返上も叶わぬ夢だと適当に理由を付け、減速して謎の女子高生の様子を見てみる事にした。
少し近づくと、その女子高生は俺の通っている高校の生徒だという事に気付いた。
今時にしては珍しいセーラー服に身を包み、ぴっちりと足を折りたたみ手を膝のあたりで組み、組んだ手の上に顎をのせる形で体育座りをしている女子高生は、ずいぶんと清楚な顔立ちだった。
前髪は眉に少しかかるくらいの所で横一線にピッと揃えられ、長い黒髪が二の腕に覆いかぶさるように乗っており、白い肌と黒い髪のコントラストがとても目に栄える。
しかし、どうしてあんな綺麗な女子高生がこんな時間に電柱の下で体育座りをしているんだろう?
電柱の下にはきっと、犬の縄張り意識が生んだ習性の一環で行われた排泄の後があるだろう。
だが、彼女はそんな事などお構いなしにそこに座っている。
今時の女子高生にしては珍しく、清潔面をあまり気にしてないご様子だ。
彼女との距離が残り僅かに迫ったその時、彼女が俺の存在に気が付いた。
いきなりこっちを向いたので、俺はばっちりと目が合ってしまった。
目の焦点をこちらに合わせ、ジーッと黙って見つめてくる。
これ以上深入りするのもアレだなと思い、ここで自転車のスピードを上げる。彼女の視線が少々居心地の悪かったのが、主な要因なのだが。
そして、彼女の真横を通り過ぎようとしたその瞬間。
「ねぇ」
ポツリ、と彼女が独り言のように言った。
恐らく俺に向けられた言葉なので、驚きつつも急ブレーキをかけて自転車を止める。
「な、なんか用か?」
「あなた、これから学校よね?」
彼女は一回も顔をこちらに向けずに喋るので、特に意味もないが俺もそれに対抗して顔を向けずに言う。
「ああ、そうだけど?」
あんたもな、と心の中で付け加える。
「なら、乗せてって」
「お前をか?」
「他に誰かいるのなら、話は別だけど」
…これはどう捉えるべきか。おかしな所で座っているおかしな女子高生に「後ろに乗せて」と頼まれるシチュエーションは、きっと少ないだろうから判断に困る。
出来る事ならあまりこれ以上彼女に関わりたくないのが本音だ。
だが下手に断ってしつこくせがまれて、これ以上時間を喰うのも正直キツい。
いたしかたないが、ここは了承することにした。
「まあ、別にかまわないけど」
「そう。お礼は言うは」
そう言って、彼女は初めてこちらに顔を向けた。大きな瞳が予想以上に綺麗で、内心ドキリとしたが顔には出さないよう努力した。
彼女はゆったりと立ちあがり、静かな動きで俺の自転車の後ろに跨った。
人生初の女子との二人乗りだった。
「私は軽いと評判がいいから、気にせず行ってちょうだい」
「…あっそう」
彼女は両腕をガッチリと俺の腹の下で組み、彼女の体が俺の背中に触れる。
それは二人乗りで行われる当然の行為であって、特に他意は無い筈だ。
なのに、俺の心臓はひっきりなしに騒いでいる。
別に意識してる訳ではない…はずだ。ただ、自転車の二人乗りでしかも後ろが女子高生で、さらに可愛くて、体を俺の背中に密着させている状況を今まで生きてきて経験していないからであって、決してときめいている訳では断じてない筈なのだ。
はー、と一息つき、心の中で荒れている感情を鎮めて自転車を発進させる。
確かにペダルを漕いでいて、まったく足が疲れを訴えてこない。それどころか、重くなったという感情すら湧きあがらない。
横目で彼女を見てみるが、しっかりと尻を付けて座っている。手だってこうして俺の腹の前にある。
若干の不思議さを漂わせながらも、急いでペダルを漕いで学校へと前進する。
すると、彼女が口を開いた。
「祗園乃宮」
「はぁ?」
「あたしの名前。たぶんね」
「たぶんだぁ?」
「あなたは?」
祗園乃宮と名乗る彼女は俺の質問を無視し、俺の自己紹介を促してきた。
とりあえず話を合わせとく。
「俺か? 俺は蓼科。二年生だ。お前は何年だ?」
「祗園乃宮だって、たぶん。一年生かしらね」
「なんで、そうお前の言葉は歯切れが悪いんだ? 頭でも打ったか?」
しかし、祗園乃宮はまたもや俺の質問を無視し、周りの住宅を見ていた。何か、懐かしい物を見るような目で。
おかしな態度をとる祗園乃宮に疑問を抱きつつも、自転車は着実に学校へと近づいていた。すでに校舎の一角が見えている。
「お、見えてきたな学校。ついてるなお前。ギリ遅刻はまぬがれそう―…ってあれ?」
嬉々して後ろを振り返ると、そこには祗園乃宮の姿がなかった。
今しがたまであった気配は完全に無くなり、耳元にかかる吐息の温もりも消えていた。
本当にいつの間にか、いなくなっていた。
まるで蜃気楼のように。
〇
翌日。
今日も俺は自転車のペダルをせこせこと漕いでいた。自分の学習力のなさに涙が出る。
そんな時、ふと前方を見ると、昨日祗園乃宮が座っていた電柱がある所に差し掛かっていた。
そこには今日も一人、セーラー服に身を包んだ祗園乃宮が無表情で体育座りで座っていた。
「あら、昨日の」
「お前どこ行ってたんだよ? いつの間にか降りやがって…降りたきゃ言えよな、危ない」
「そう、ごめんなさい。ところであなた、今日も遅刻しそうなの?」
「ああそーだよ。そしてお前もな」
「なら、またお願いするわね」
そう言うと、祗園乃宮は立ち上がり勝手に俺の自転車の後ろに跨った。昨日と同じく祗園乃宮の両手が俺の腹にあたり、心臓の鼓動が速くなる。
一回深呼吸をし自分に一喝入れ、そのまま俺は昨日と同じ位のスピードで学校に向けてペダルを漕いだ。
気のせいか、いつもより体が軽かった気がした。
〇
「…祗園乃宮。どこかで聞いたような」
俺は無意識に独り言を漏らしていた。
今日も祗園乃宮を自転車に乗せて学校に向かったが、初めて会った昨日と一緒で、学校が見えてきた辺りで祗園乃宮の姿は消えていた。
祗園乃宮に会って二日目。
購買で買ったパンを片手に、俺は体育館と格技場の中間にある踊り場の下に座ってお昼を食べながら祗園乃宮の事を考えていた。
昨日から極力休み時間は廊下に出て学校中を歩き回ったが、一度も祗園乃宮の姿を発見できなかった。
食べかけのパンを無理やり喉に押し込み、立ちあがる。
コンクリートむき出しのとこで座り過ぎたせいか、激しく尻が痛い。
携帯を開き時計を見る。約束の時間になったため、俺は足早に校舎に入った。
アイツの素性を探るために。
〇
職員室はエアコンが完備されているので、いつ来ても居心地が良い。
あとは先生がいなければ最高なのだが。
「おお、来たか」
担任の先生が俺の姿を確認し、手招きで俺を呼ぶ。俺はつかつかと先生のデスクに向かって歩いた。
「朝、蓼科に頼まれた通り調べておいたが、一学年で祗園乃宮っていう名字の生徒はいなかったぞ。一応二学年、三学年も調べてみたが同様だ。昨年の卒業生の名前も確認したが、まったくかすりもしなかった。そもそも、祇園乃宮ってのは本当になのかどうかすら怪しいぞ」
「そう…ですか。どうも、ありがとうございました」
「蓼科、ホントにその生徒はうちの生徒だったのか?」
「アイツ自身から直接聞いてませんが、制服は間違いなくうちのです。校章だってあったし、指定のスクールバッグだって……あ!」
俺は素早く一礼して職員室の出口へ向かった。後ろから先生の声が聞えたが無視して、職員室をあとにし昇降口へ走った。
〇
「はぁ…はぁ……どうして」
どうして気が付かなかったのだろう。
俺は走っていた。体育の授業の時もここまで必死に走った事は無い。
恐らく人生で一番早く走っていると思う。
見慣れた道を逆走し、アイツが座っていた電柱のある場所を目指し俺は駈ける。
数分のうちに、あの電柱のある所まで来ていた。そして、アイツの姿が見えてきた。
祗園乃宮は朝会った時と同じ格好でそこにいた。汚れる事など一切気にせずに電柱の下で体育座りをしている祗園乃宮は、俺が近づいている事に気が付きこちらを振り向いた。
「…あら」
「はぁ……はぁ…よう、また会ったな」
俺は息を整えながら冷静を装って話しかける。祇園乃宮も大して表情を変えず言う。
「駄目じゃない。学校ぬけ出しちゃ」
「いいんだよ、どうせ午後の授業は英語だし。それに、今すぐお前に訊きたい事があったし」
「何かしら?」
「お前、スクールバッグはどうした?」
「………」
「ない、だろう? よく考えてみたらおかしな事だ。学校に行くのに鞄持ってないってのは」
祗園乃宮はここで初めて表情を変えた。ばつの悪そうな、まるで子供が仕掛けた悪戯が親にばれた時のような顔をした。
そして、静かに祗園乃宮は言った。
「それじゃ、あなたは私が何に見えるの?」
「さあな。訳の分からない奴だ」
「訳の分からない、か。そうね…私自身もよく分からない」
祗園乃宮はぎこちない笑みを浮かべ、自嘲気味に言った。始めてみる祇園乃宮の笑顔は、少し悲しそうだった。
「親は誰なのか。友人はいるのか。住んでいる所はどこなのか…自分が誰なのか」
「…記憶喪失ってやつか?」
「それ以前の問題ね。私、生きてないのよ?」
「幽霊ってことか?」
「ええ、そうね。…あなた意外に冷静ね。少しびっくりしたわ」
「まあ、な」
どうしてだか、俺はひどく落ち着いていた。
幽霊などという現実味のない言葉のせいなのか、それとも心の奥底でこの事を予期していからだろうか。
「私が見えるのはほんの極一部の人だけ。稀に私の事が見える人がここを通っても、私に興味を持つ人は誰一人いなかったわ。あなた以外ね」
「見た感じ普通の高校生だしな。電柱の下に座っているのは、普通じゃないが」
「私なりに興味を惹かれようと考えてとった行動よ。私が見える人が、私の目の前を通るのは本当に稀だから」
「…だけどおかしいぞ? 俺は毎日この道通ってるが、お前を見た事なんか一度もないぞ」
「ちょっと前まで、この隣の道にいたから」
祗園乃宮は右手を壁に向かって指差しながら続けた。
「周期的にいる場所を変えているの。名前はここの通りの名前を貰ったわ」
祗園乃宮。胸の内で引っかかっていた物が漸く外れた。
そうだ、どこかで聞いた名だと思ったら昔回覧板か何かで見た覚えがある。
珍しい名前だな、と関心した記憶が漠然とあった。
「だから、名前を名乗った時にたぶん、って続けたのか」
「そうね」
「じゃあ、何で俺の自転車の荷台に乗って学校へ連れてってくれ、って頼んだんだ? 結局途中で消えちまうくせに」
「初めてあなたに話しかけた時、咄嗟に思いついたのが理由よ。話しかけたのはいいけれど、それ以上の話しの発展が難しかったから、苦肉にもね。途中で消えなきゃ、あなた、一人でブツブツと喋りながら校舎に入るとこだったのよ?」
「あー…そりゃお気づかいどうも」
「フフ」
「あ、あははは」
二人してぎこちない笑みを浮かべ、お互いの顔を見比べまた薄い笑い声をあげた。
ポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認する。
友達からメールが来ていた。
「今どこにいるんだ? か。うーん、学校抜け出したのバレたら担任にどやされるだろうなぁ」
「なら、早く戻りなさいよ。学生の仕事は勉強なんだから」
「…仕方ない、そうするか」
学校に戻るため自転車にまたがろうと、俺の愛車の姿を探したが、愛車は学校の納屋にある事を思い出した。
「しまった、走ってきたんだった」
「残念ね。また後ろに乗せてってもらおうかと思ってたのに」
「なぁ、祇園乃宮」
「何? いきなり真剣な顔して」
「おまえ、突然いなくなったりしないよな?」
「…そうね。私は不成仏霊だから、いきなりは成仏はしないわ」
「そうか」
俺はなぜか心から安堵した。まるで、祇園乃宮が突然いなくなる事が、俺にとって重大な意味をもってるかのように。
「じゃ、俺は行く」
「ええ、行ってらっしゃい」
祇園乃宮の顔を一瞥し、俺はまた全力で走った。
俺は一度も後ろを振りからず、学校を見据えながら祇園乃宮と別れた。
〇
下校時間になり、すぐさま俺は自転車にまたがり、あの電柱へと向かってペダルを強く漕いだ。
あの場所に近づくにつれ、俺の鼓動が自転車の速度と同調するように早くなる。
ついに、祇園乃宮が座っている電柱が見えてきた。
だが、そこには薄汚れた電柱が立っているだけだった。
アイツの姿は、空気のようにそこからなくなっていた。
〇
俺は必死にパンを食べていた。
朝食に出されたパンは何も塗っておらず、焼いてすらいない食パンだった。
運悪く親も寝坊したため、まともな朝食が用意できなかったようだ。
片手で口に咥えたパンを喉へと押し込め、片手でスニーカの踵に指を入れる。
次に、携帯を開いて時刻を確認する。
八時三十四分。
間に合うか、間に合わないかギリギリの時間だ。三日連続の遅刻は流石にやばい。
もはや一刻の猶予もない。叩きつけるように玄関を開け、自転車が停まっている納屋に行く。
すると、そこには見慣れたセーラー服を着たアイツがいた。
「あら、おはよう。今日も急いでるの?」
俺は数秒間、茫然と立ちつくした。一秒も無駄に出来ないはずなのに。
「ねぇ、今日も乗せてってくれるかしら?」
セーラー服を着たアイツが俺のほうを向き、薄く笑いながら聞いてきた。今度は、とても楽しそうな笑みで。
俺は、心を落ち着け静かに質問した。
「どこまでだ? 祇園乃宮」
「そうね。学校までお願い。蓼科」
俺は自転車にまたがり、その後ろに祇園乃宮が座り、俺の腰に手をまわした。
ふーっと一呼吸つき、自転車を発進させる。
不思議と、自転車はいつもより軽かった。
俺は燦々と降り注ぐ日光に顔をしかめ、ペダルをせこせこと漕ぎ、汗を垂らしながら今日も学校へ向けて全速力で。
祇園乃宮と、一緒に。