俺の人生を返せ
深夜二時。
赤本の文字が霞んで見える。
受験まであと一ヶ月。焦りはあるが、睡魔には勝てない。
目が乾いた。「疲れたな」と思い、パチリとまばたきをした。
目を開けた瞬間、窓の外から強烈な朝日が差し込んできた。
「え?」
思考が追いつかない。
寝落ちしたのか? いや、俺はシャーペンを握ったままだ。ノートの端が折れているのも、さっき見たままだ。
まるで編集された動画のように、一瞬で「夜」が「朝」に切り替わった。
狐につままれた気分のまま、俺は学校へ向かった。
教室で世界史の授業を受けている。黒板の文字をノートに写す。
目が乾く。
パチリ。
「おい、帰ろうぜ」
次の瞬間、目の前には友人の顔があった。
夕焼けが教室を赤く染めている。
「は……?」
チャイムが鳴ったのか? 授業はどうした?
背筋に冷たい汗が流れる。
俺は今の数時間、何をしていたんだ?
「何ボケてんだよ。さっきまで普通に笑って喋ってたじゃんか」
友人は怪訝そうに俺の顔を覗き込む。
笑って喋っていた? 俺が?
記憶がない。俺の意識は、まばたきをした瞬間に途切れていたはずだ。
恐怖が、じわりと足元から這い上がってきた。
俺が目を開けている間、俺の体は「俺じゃない誰か」が動かしているんじゃないか?
俺の意識があるのは、まばたきの直前と直後だけなのか?
まばたきをするのが怖い。
必死に目を見開く。ドライアイの激痛に耐える。
だが、生理現象には勝てない。
瞼が落ちる。
パチリ。
「合格おめでとう!」
目の前には掲示板があった。自分の受験番号がある。
横では母が泣いて喜んでいる。
あれから半年が経っていた。
受験の記憶も、努力の記憶もない。
苦しかったはずの勉強も、合格発表の瞬間の緊張も、何ひとつ覚えていない。
でも、俺の体(乗っ取り犯)は、完璧に人生をこなしている。
俺は叫びたかった。「俺じゃない!」と。
だが、口から出た言葉は「ありがとう、母さん」という、落ち着き払った他人の声だった。
パチリ。
大学の入学式。桜が満開だ。
パチリ。
知らない美女とレストランで食事をしている。
彼女は俺を見て、愛おしそうに笑う。「愛してるわ、トシユキ」
俺は彼女を知らない。名前すら知らない。
でも、俺の口は勝手に動き、優しく微笑む。「僕もだよ」
俺の意識は、まばたきの一瞬の「闇」という檻に閉じ込められている。
光の世界(現実)では、俺よりも優秀で、要領がよくて、冷徹な「ニセモノ」が、俺の人生を謳歌している。
やめてくれ。俺の人生を返してくれ。
俺は観客じゃない。俺が主人公なんだ。
パチリ。パチリ。パチリ。
時間は無慈悲に加速する。
俺はもう、まばたきを止める努力すらしなくなった。どうせ無駄だからだ。
気づけば、消毒液の匂いがする病室にいた。
ベッドには、痩せ衰えた母が横たわっている。
あんなに元気だった母が、見る影もなく小さくなっている。
「……とし、ゆき……?」
母が最期の力を振り絞って、震える手を伸ばしてくる。
俺を見ている。最愛の息子を見ている。
俺は泣きたかった。
駆け寄って、母さんの手を握り返したかった。
「今までありがとう」と、「産んでくれてありがとう」と叫びたかった。
だが、俺の体は動かない。
パイプ椅子に座り、足を組んだまま、冷めた目でスマホをいじっている。
母の手を握ろうともしない。
(やめろ! 無視するな! 母さんが死にそうなんだぞ!)
心の中で絶叫する。体当たりをしてでも主導権を奪い返そうとする。
だが、指一本動かせない。
スマホから目を離さず、俺の口が動く。
「チッ。まだ死なないのかよ。遺産の手続き、面倒なんだからさっさと逝けよ」
母の目が見開かれた。
驚きと、絶望と、深い悲しみ。
その瞳から、ゆっくりと光が消えていく。
伸ばされた手は、俺に届くことなくベッドに落ちた。
ピーーーーーー。
心拍モニターの電子音が、部屋に響き渡る。
俺は心の中で泣き叫んだ。
違うんだ。俺じゃない。俺はそんなこと思ってない。
母さん、ごめん。ごめん、母さん!
パチリ。
洗面所の鏡の前に立っていた。
白髪。深いしわ。
老人になった俺がいる。
鏡の中の自分が、ニヤリと笑った。
そして、七十年目にして初めて、俺(意識)に向かって話しかけてきた。
「騒ぐなよ。俺のおかげで、いい人生だっただろ?」
鏡の中の男は、皮肉っぽく口角を上げた。
「金持ちになれた。美人の妻も娶った。会社も大きくした。お前みたいな臆病で、優柔不断で、出来の悪い本来の人格じゃ、こんな成功は掴めなかった」
男は自分の顔――俺の顔――を満足そうに撫でる。
「感謝してほしいくらいだね。辛い努力も、面倒な人間関係も、親の介護も、全部俺がやってやったんだ。お前はずっと、まばたきの間の暗闇で寝ていればよかったんだからな」
「……返せ」
俺は心の中で唸った。
声には出ない。でも、鏡の男には聞こえているようだ。
「返せ? 何をだ? もう終わりだぞ」
男は低い声で告げた。
「さて、そろそろ最期だ」
胸の奥が痛む。心臓が限界を迎えているのがわかる。
「死ぬ時は、目を閉じるだろう? それが『お前』の出番だ」
男は残酷に笑った。
「永遠に続く暗闇。何も見えず、何も聞こえず、体も動かせない。それがお前の人生のすべてだ。じゃあな、無能な俺」
心臓がドクン、と大きく跳ねた。
視界が揺れる。
意識が遠のく。
俺は、ゆっくりとまばたきをした。
視界が暗くなった。
しかし。
もう二度と、目は開かなかった。
意識だけが鮮明に残っている。
思考だけがクリアに残っている。
だが、光はない。音もない。手足の感覚もない。
ああ、そうか。
そこで俺は理解した。
地獄とは、死後の世界にある針の山や火の池のことではない。
「何もできないまま、ただ意識だけが存在し続ける」
この永遠の暗闇のことだったのだ。
俺は暗闇の中で、叫び声を上げ続けた。
誰にも届かない声を、永遠に。




