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俺の人生を返せ

掲載日:2026/01/20

深夜二時。

赤本の文字が霞んで見える。

受験まであと一ヶ月。焦りはあるが、睡魔には勝てない。

目が乾いた。「疲れたな」と思い、パチリとまばたきをした。


目を開けた瞬間、窓の外から強烈な朝日が差し込んできた。


「え?」


思考が追いつかない。

寝落ちしたのか? いや、俺はシャーペンを握ったままだ。ノートの端が折れているのも、さっき見たままだ。

まるで編集された動画のように、一瞬で「夜」が「朝」に切り替わった。


狐につままれた気分のまま、俺は学校へ向かった。


教室で世界史の授業を受けている。黒板の文字をノートに写す。

目が乾く。

パチリ。


「おい、帰ろうぜ」


次の瞬間、目の前には友人の顔があった。

夕焼けが教室を赤く染めている。


「は……?」


チャイムが鳴ったのか? 授業はどうした?

背筋に冷たい汗が流れる。

俺は今の数時間、何をしていたんだ?


「何ボケてんだよ。さっきまで普通に笑って喋ってたじゃんか」


友人は怪訝そうに俺の顔を覗き込む。

笑って喋っていた? 俺が?

記憶がない。俺の意識は、まばたきをした瞬間に途切れていたはずだ。


恐怖が、じわりと足元から這い上がってきた。

俺が目を開けている間、俺の体は「俺じゃない誰か」が動かしているんじゃないか?

俺の意識があるのは、まばたきの直前と直後だけなのか?


まばたきをするのが怖い。

必死に目を見開く。ドライアイの激痛に耐える。

だが、生理現象には勝てない。

瞼が落ちる。

パチリ。


「合格おめでとう!」


目の前には掲示板があった。自分の受験番号がある。

横では母が泣いて喜んでいる。

あれから半年が経っていた。


受験の記憶も、努力の記憶もない。

苦しかったはずの勉強も、合格発表の瞬間の緊張も、何ひとつ覚えていない。

でも、俺の体(乗っ取り犯)は、完璧に人生をこなしている。


俺は叫びたかった。「俺じゃない!」と。

だが、口から出た言葉は「ありがとう、母さん」という、落ち着き払った他人の声だった。


パチリ。

大学の入学式。桜が満開だ。

パチリ。

知らない美女とレストランで食事をしている。

彼女は俺を見て、愛おしそうに笑う。「愛してるわ、トシユキ」

俺は彼女を知らない。名前すら知らない。

でも、俺の口は勝手に動き、優しく微笑む。「僕もだよ」


俺の意識は、まばたきの一瞬の「闇」という檻に閉じ込められている。

光の世界(現実)では、俺よりも優秀で、要領がよくて、冷徹な「ニセモノ」が、俺の人生を謳歌している。


やめてくれ。俺の人生を返してくれ。

俺は観客じゃない。俺が主人公なんだ。

パチリ。パチリ。パチリ。


時間は無慈悲に加速する。

俺はもう、まばたきを止める努力すらしなくなった。どうせ無駄だからだ。


気づけば、消毒液の匂いがする病室にいた。

ベッドには、痩せ衰えた母が横たわっている。

あんなに元気だった母が、見る影もなく小さくなっている。


「……とし、ゆき……?」


母が最期の力を振り絞って、震える手を伸ばしてくる。

俺を見ている。最愛の息子を見ている。


俺は泣きたかった。

駆け寄って、母さんの手を握り返したかった。

「今までありがとう」と、「産んでくれてありがとう」と叫びたかった。


だが、俺の体は動かない。

パイプ椅子に座り、足を組んだまま、冷めた目でスマホをいじっている。

母の手を握ろうともしない。


(やめろ! 無視するな! 母さんが死にそうなんだぞ!)


心の中で絶叫する。体当たりをしてでも主導権を奪い返そうとする。

だが、指一本動かせない。

スマホから目を離さず、俺の口が動く。


「チッ。まだ死なないのかよ。遺産の手続き、面倒なんだからさっさと逝けよ」


母の目が見開かれた。

驚きと、絶望と、深い悲しみ。

その瞳から、ゆっくりと光が消えていく。

伸ばされた手は、俺に届くことなくベッドに落ちた。


ピーーーーーー。

心拍モニターの電子音が、部屋に響き渡る。


俺は心の中で泣き叫んだ。

違うんだ。俺じゃない。俺はそんなこと思ってない。

母さん、ごめん。ごめん、母さん!


パチリ。


洗面所の鏡の前に立っていた。

白髪。深いしわ。

老人になった俺がいる。


鏡の中の自分が、ニヤリと笑った。

そして、七十年目にして初めて、俺(意識)に向かって話しかけてきた。


「騒ぐなよ。俺のおかげで、いい人生だっただろ?」


鏡の中の男は、皮肉っぽく口角を上げた。


「金持ちになれた。美人の妻も娶った。会社も大きくした。お前みたいな臆病で、優柔不断で、出来の悪い本来の人格じゃ、こんな成功は掴めなかった」


男は自分の顔――俺の顔――を満足そうに撫でる。


「感謝してほしいくらいだね。辛い努力も、面倒な人間関係も、親の介護も、全部俺がやってやったんだ。お前はずっと、まばたきの間の暗闇で寝ていればよかったんだからな」


「……返せ」


俺は心の中で唸った。

声には出ない。でも、鏡の男には聞こえているようだ。


「返せ? 何をだ? もう終わりだぞ」


男は低い声で告げた。


「さて、そろそろ最期だ」


胸の奥が痛む。心臓が限界を迎えているのがわかる。


「死ぬ時は、目を閉じるだろう? それが『お前』の出番だ」


男は残酷に笑った。


「永遠に続く暗闇。何も見えず、何も聞こえず、体も動かせない。それがお前の人生のすべてだ。じゃあな、無能な俺」


心臓がドクン、と大きく跳ねた。

視界が揺れる。

意識が遠のく。


俺は、ゆっくりとまばたきをした。


視界が暗くなった。


しかし。


もう二度と、目は開かなかった。


意識だけが鮮明に残っている。

思考だけがクリアに残っている。

だが、光はない。音もない。手足の感覚もない。


ああ、そうか。

そこで俺は理解した。


地獄とは、死後の世界にある針の山や火の池のことではない。

「何もできないまま、ただ意識だけが存在し続ける」

この永遠の暗闇のことだったのだ。


俺は暗闇の中で、叫び声を上げ続けた。

誰にも届かない声を、永遠に。

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