第4話:父の誇り、そして新たな旅立ち
中庭の噴水が上げる水音が、静まり返った会議室に心地よいリズムを刻んでいた。
先ほどまで濁った淀みでしかなかった水は、今は陽光を反射して宝石のように輝いている。それは、この国の腐敗が払拭される未来の象徴のようにも見えた。
私は窓から視線を外し、再び会議テーブルへと向き直った。
そこには、崩れ落ちた正妃ベアトリスと、顔面蒼白で震えるジェラルド王子の姿があった。彼らを囲む大臣や貴族たちの視線は、もはや「王族への畏敬」ではなく、「無能な経営者への軽蔑」へと変わっていた。
「……さて、証明は終了しました。交渉を続けましょうか」
私はドレスの裾を翻し、悠然と席に戻った。
隣に座るアレクセイ殿下が、感服したように小さく口笛を吹く。
「見事だ、リリアナ。あの噴水の構造、私が把握していたよりも複雑だったはずだが」
「基礎設計図が頭に入っていますから。それに、詰まりの原因があの辺りのバルブだということは、音を聞けば分かります」
小声で言葉を交わす私たちの余裕が、さらに正妃たちを追い詰めたようだ。
ジェラルド王子が、引きつった顔で叫んだ。
「ぐ、偶然だ! たまたま古くなったバルブが外れただけだろう! そのような手品で、我々を愚弄する気か!」
「手品、ですか。……では、こちらの資料もご覧いただけますか?」
私は追加の書類をテーブルに広げた。それは帝国調査団が作成した技術報告書ではなく、王宮の会計監査記録の写しだった。
「王都のインフラ維持予算、過去三年間で大幅に増額されていますね。ですが、現場には資材一つ届いていませんでした。その消えた予算と、ほぼ同額の支出が、正妃殿下の離宮改装費と、ジェラルド殿下の『ご遊学』費用として計上されています」
「なっ……!」
「民が汚水に怯え、冬の寒さに震えている間、貴方たちはその修繕費で新しいシャンデリアを買い、外国から高級なワインを取り寄せていた。……違いますか?」
私の問いかけは、静かだが鋭い刃のように空気を切り裂いた。
言い逃れはできない。全ての証拠が揃っている。
正妃ベアトリスが、わなわなと震えながら顔を上げた。その化粧は汗と涙で崩れ、かつての傲慢な美貌は見る影もない。
「黙りなさい……! 卑しい妾腹の分際で! お前はただ、泥の中で這いつくばっていればよかったのよ! 私が高貴な血筋を守るために、どれだけ苦労してきたか……!」
「血筋を守る? それは民を犠牲にしてまで守るべきものですか?」
私は彼女の言葉を遮った。
「高貴さとは、血の中に宿るものではありません。背負う責任の中に宿るものです。泥に触れることを厭わず、民のために汗を流すことこそが、王族の務めではありませんか」
私の言葉に、周囲の大臣たちが深く頷いた。
長年、正妃の実家である公爵家の権威に怯え、口をつぐんできた彼らも、今日という日を境に何かが変わったようだった。
「……もうよい」
その時、重く、厳かな声が響いた。
上座で沈黙を守っていた国王フリードリヒ陛下だ。
父はゆっくりと立ち上がり、冷徹な瞳で正妃と王子を見下ろした。
「陛下……! お聞きください、この娘は帝国と結託して、私たちを……!」
「黙れと言ったのだ、ベアトリス」
父の一喝に、正妃がヒッと息を呑む。
父は、これまでに見たことがないほど強い眼差しをしていた。それは、事なかれ主義を装っていた仮面を脱ぎ捨てた、真の王の顔だった。
「余は、全てを知っていた。お前たちが予算を横領していたことも、リリアナを虐げていたことも、そして国を傾かせていることもな」
「し、知っていて、なぜ……」
「公爵家の力を削ぐ機会を待っていたのだ。だが、余が優柔不断であったがゆえに、リリアナには過酷な重荷を背負わせ、民には苦しみを与えた。……その罪は、余にある」
父は痛ましげに目を伏せ、そして再び顔を上げて宣言した。
「ジェラルド。お前の王位継承権を剥奪する。並びにベアトリス、お前を王妃の座から廃し、北の離宮での療養を命じる」
「なっ、廃妃ですって!? そ、そんなことが許されると……!」
「公爵家も同意している。……帝国の介入を招いた責任を取らねば、家そのものが潰れるからな」
父の言葉は死刑宣告に等しかった。
処刑や追放といった派手な罰ではない。けれど、権力という名の命綱を断ち切られ、忘れ去られた場所で「飼い殺し」にされることは、彼らのようなプライドの塊にとっては死よりも辛い屈辱だろう。
「連れて行け」
父の合図で、近衛兵たちが正妃と王子を取り囲んだ。
「離せ! 私は王子だぞ!」「嫌よ、あんな寒い場所へ行くなんて! 陛下、お願いですわ!」
喚き散らす二人の声が、扉の向こうへと遠ざかっていく。
その醜態を見送る貴族たちの目は、氷のように冷ややかだった。かつて私に向けられていた蔑みの視線は、今、そのまま彼らに返されたのだ。
会議室に静寂が戻った。
重苦しい、けれどどこか清々しい沈黙だった。
「……アレクセイ殿下。並びに、リリアナ大使」
父が私たちに向き直った。
「交渉の条件を呑もう。インフラ管理権限の譲渡、および予算の開示。全て貴国の要求通りに進めてくれ。……我が国の恥部を晒すことになるが、民の命には代えられん」
「賢明なご判断です、国王陛下」
アレクセイ殿下が鷹揚に頷いた。
これで、交渉は成立した。祖国は帝国の技術支援を受け、再生へと歩み出すことになる。私の役目は、これで終わりだ。
「では、我々はこれで失礼いたします。詳細な詰めは、後ほど実務担当者より……」
「待ってくれ」
私が席を立とうとした時、父が呼び止めた。
その声は、先ほどの王としての威厳に満ちたものではなく、どこか震える、一人の父親の声だった。
「少しだけ……時間をくれんか。リリアナ、お前と話がしたい」
私はアレクセイ殿下を見た。彼は「行ってやれ」と目で合図し、大臣たちを促して部屋を出て行った。
広い会議室に、私と父、二人だけが残された。
父はゆっくりとテーブルを回り込み、私の目の前に立った。
近くで見ると、父の髪には白いものが増え、顔には深い年輪が刻まれているのが分かった。この三年間、彼もまた、孤独な戦いを続けていたのだろうか。
「……立派になったな」
父が絞り出すように言った。
「あの泥だらけだった少女が、まさか帝国の全権大使として、余の前に現れるとは」
「……お父様が、行けと仰ったからです」
私は胸元から、あの黒檀の万年筆を取り出した。
使い込まれ、少し傷がついたけれど、私の魔力を通し続け、支えてくれた相棒だ。
「『よく見て、学びなさい』と。お父様はそう仰いました。だから私は、見てきました。世界の広さを、技術の深さを。そして、何が本当に大切なのかを」
父は万年筆を見て、懐かしそうに、そして悲しげに目を細めた。
「それは、余が若かりし頃、魔導工学を学びたいと夢見ていた頃に使っていたものだ。……王になるために夢を捨てた、その残骸だ」
「残骸ではありません。これは、私の道標でした」
私は万年筆を強く握りしめた。
「お父様。私はずっと、貴方を恨んでいました。どうして助けてくれないのかと。どうして私だけが泥にまみれなければならないのかと」
「……すまない」
父が頭を下げた。一国の王が、娘に対して深く、深く頭を下げた。
「余には力がなかった。正妃の家門に対抗し、お前を城に留め置けば、いつかお前は暗殺されていたかもしれん。……だから、あえて汚い仕事をさせ、目立たぬようにした。そして機を見て、実力主義の帝国へ逃がすことしか……できなかったのだ」
父の声が震えていた。
不器用で、臆病で、けれど必死だった愛情。それが痛いほど伝わってくる。
「汚れ仕事」は罰ではなかった。私が生き延びるための隠れ蓑であり、そして結果として、私に最強の武器を与えてくれる試練だったのだ。
「……ずるいです、お父様」
視界が滲んだ。堪えていた涙が、頬を伝い落ちる。
「そんな風に言われたら、怒れなくなるではありませんか」
「怒っていい。恨んでいい。……だが、これだけは言わせてくれ」
父は顔を上げ、私の肩に手を置いた。その手は温かく、大きく、震えていた。
父は真っ直ぐに私の目を見て、万感の思いを込めて言った。
「余は誰よりも誇りに思う。──我が娘よ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で凍りついていた何かが、音を立てて溶け出した。
「泥鼠」でも「掃除婦」でもない。「我が娘」としての誇り。
私が欲しかったのは、地位でも名誉でもない。ただ、この一言だったのだ。
「……はい、お父様……!」
私は父の胸に飛び込んだ。ドレスが皺になることも構わず、子供のように声を上げて泣いた。父は黙って私を抱きしめ、背中を優しく叩いてくれた。
窓の外、噴水の水音が、まるで祝福の拍手のように響いていた。
***
それから数日後。
王都の復興計画が正式に始動した。
帝国の技術団が到着し、私の指揮の下、王城地下から市街地に至るまでの大規模な配管清掃と改修工事が始まったのだ。
市民たちは最初こそ帝国の介入に戸惑っていたが、劇的に改善されていく生活環境を目の当たりにし、次第に歓声と感謝で迎えてくれるようになった。
そして今日、私は再び旅立つ。
港には、修理を終えた魔導船『ヴィクトリア号』が停泊している。
「本当に行くのか? リリアナ」
見送りに来た父が、寂しげに尋ねた。
傍らには、新しい宰相と、私の技術を学ぼうと目を輝かせる若き魔導師たちが控えている。
「はい。私は帝国の外交官ですから」
私は微笑んで答えた。
父からは、王籍への復帰と、次期女王としての地位を打診された。正妃と王子が失脚した今、私こそが正統な後継者であるという声は多い。
けれど、私はそれを断った。
「私は玉座に座るよりも、現場で泥にまみれている方が性に合っているのです。それに……」
私は隣に立つアレクセイ殿下を見上げた。彼は満足そうに頷き、私の腰に手を回した。
「彼女はもう、我が国になくてはならない至宝だ。返してもらうわけにはいかないな」
「……ふん、アレクセイ殿下。娘を泣かせたら、直ちに国交断絶だぞ」
「肝に銘じておきましょう」
父とアレクセイ殿下が、男同士の握手を交わす。かつての敵対関係は消え、そこには新たな信頼関係が芽生えていた。
「リリアナ、いつでも帰ってこい。ここはもう、お前の敵がいない故郷だ」
「はい、お父様。……また、配管の掃除が必要になったら呼んでくださいね」
冗談めかして言うと、父は初めて声を上げて笑った。
汽笛が鳴り響く。
私はタラップを上がり、甲板から大きく手を振った。
港には、マーサや下働きの仲間たち、そして多くの市民が集まり、色とりどりのハンカチを振ってくれていた。
船がゆっくりと岸を離れる。
遠ざかる王都の景色。かつては灰色に見えたその街は、今は洗い流されたように鮮やかに見えた。
城の塔、その一番高い場所に、父の姿が小さく見える。
「いいのか? 女王になれば、誰もがひれ伏す存在になれたのだぞ」
アレクセイ殿下が、からかうように尋ねてきた。
私は海風に髪をなびかせながら、空を見上げた。
「いいえ。玉座から見下ろすだけでは、地面の泥は見えません。私は知っています。泥の中から見上げる空が、どれほど美しいかを」
私は胸元のブローチに触れた。そして、懐にある万年筆の感触を確かめる。
「それに、私にはもっと大きな仕事がありますから。帝国とこの国、二つの国を技術で繋ぎ、二度と淀ませないように循環させる。……それが、私の新しい『掃除』です」
「頼もしいな。では、頼んだぞ、私のパートナー」
アレクセイ殿下が私の手を取り、甲板で跪いて口付けを落とした。
まるで物語の王子様のように。いや、彼は本物の皇太子様だった。
顔が熱くなるのを感じながら、私は彼の手を握り返した。
船は白波を立てて進む。
泥濘から咲いた華は、もう枯れることはない。
私は前を向く。
海を越え、国境を越え、この世界中の「流れ」を正すために。
それが、泥の王女リリアナが選んだ、誇り高き未来なのだから。




