第3話:華麗なる帰還と、崩壊する虚飾
懐かしい風の匂いがした。
だが、そこには微かに、しかし確かに、鼻をつく腐敗臭が混じっていた。
甲板に出た私の頬を、海風が撫でる。眼前に広がるのは、三年ぶりに見る祖国の港町だ。灰色の石積みで作られた街並みは相変わらずだが、どこか活気がなく、どんよりとした空気が漂っているように見えた。
背後には、ガルガディア帝国の威信をかけた巨大魔導船『ヴィクトリア号』の煙突から、純白の蒸気が噴き上がっている。
「……酷い有様だな」
隣に立ったアレクセイ皇太子が、双眼鏡を下ろしながら呟いた。
彼は今回、表向きは「友好親善訪問」の名目で、実質的には私という全権大使の後ろ盾となるために、自らこの船に乗り込んでくれていた。
「港の魔導クレーンが半分も動いていない。検疫所の浄化結界も出力低下を起こしている。リリアナ、君の報告通りだ」
「ええ。港でこれですから、王都の内情はもっと深刻でしょう」
私は手すりを強く握りしめた。
かつて私が夜な夜な整備して回っていた結界装置や配管たちが、悲鳴を上げているのが聞こえるようだった。あれから三年。正妃ベアトリスと第一王子ジェラルドが、いかにインフラを軽視し、放置してきたかが手に取るように分かる。
「緊張しているか?」
アレクセイ殿下が、私の手にそっと自分の手を重ねた。その温もりに、強張っていた肩の力がふっと抜ける。
「いいえ。……武者震いですわ」
私は彼に向かって、練習したばかりの淑女の微笑みを向けた。
身に纏っているのは、帝国の最高級シルクで仕立てられた、深い藍色のドレス。胸元には殿下から贈られたプラチナのブローチが輝いている。
今の私は、泥まみれの掃除婦ではない。大国ガルガディアの全権大使、リリアナ・フォン・ガルガディア(仮称)だ。
「よし。では行こうか。君の晴れ舞台だ」
***
王都への道中、馬車の窓から見える景色は荒んでいた。
路地裏にはゴミが溢れ、かつては美しく水を湛えていた噴水は干上がり、緑色の藻がこびりついている。道ゆく人々もどこか表情が暗く、衣服も薄汚れているように見えた。
そして到着した王宮。
正門の前には、形式ばかりの歓迎式典の準備がなされていた。赤い絨毯が敷かれているが、端がほつれて黒ずんでいるのが目につく。
近衛兵たちの整列も乱れており、彼らの鎧には磨き残しがあった。王宮の威信が、内部から崩れ落ちている証拠だ。
馬車が止まり、従者が扉を開ける。
アレクセイ殿下が先に降り、私に手を差し伸べた。その手を取り、私は優雅にステップを降りる。
瞬間、集まっていた貴族たちから感嘆のため息が漏れた。
「おお……なんと美しい」
「あれが帝国の貴婦人か。なんと洗練された身のこなしだ」
「隣にいらっしゃるのは皇太子殿下か? まるで絵画のようだ」
彼らの視線は、私の顔を見ても、誰一人として「あのリリアナ」だとは気づいていないようだった。
無理もない。かつての私は常に泥と油にまみれ、顔を隠すように俯いて歩いていたのだから。
正面の階段の上には、国王陛下、正妃ベアトリス、そして第一王子ジェラルドが並んで待っていた。
父である国王陛下は、三年で随分と痩せられたように見えた。その瞳には疲労の色が濃いが、私を見て一瞬だけ、微かに目を見開いたのが分かった。
一方、正妃とジェラルド王子は、あからさまに私のドレスや装飾品を品定めするような視線を向けている。
「ようこそ、遠路はるばる我が国へ。ガルガディア帝国の皇太子殿下」
ジェラルド王子が一歩進み出て、大袈裟なジェスチャーで歓迎の意を示した。
金髪を無駄にセットし、香水をきつく振り撒いているが、その笑顔は薄っぺらい。
「そして、そちらの麗しいレディは……? 皇太子殿下の婚約者でいらっしゃいますか?」
ジェラルド王子が私に甘い視線を向けてくる。
三年前、私に泥水を浴びせ、「ゴミ」と呼んだ男が、今は私の美貌に鼻の下を伸ばしている。滑稽すぎて、笑いが込み上げてくるのを堪えるのに必死だった。
私は扇子をゆっくりと閉じ、優雅にカーテシー(膝を折る礼)を行った。帝国の宮廷マナー教師に、足の筋肉が悲鳴を上げるまで叩き込まれた、完璧な礼法で。
「お久しぶりでございます、ジェラルド殿下。そしてベアトリス王妃殿下」
鈴を転がすような声色を作り、顔を上げる。
そして、にっこりと微笑んで告げた。
「元・王城地下配管清掃係、リリアナでございます」
「……は?」
ジェラルド王子の笑顔が凍りついた。
正妃ベアトリスの目が、信じられないものを見るように見開かれ、扇子が手から滑り落ちそうになる。
「リ、リリア……ナ? あの、泥鼠の……?」
「馬鹿な! あのような薄汚い娘が、これほど……!?」
周囲の貴族たちもざわめき始めた。「リリアナ様? あの妾腹の?」「追放されたと聞いていたが……」といった声がさざ波のように広がる。
私はその混乱を楽しむように、さらに言葉を重ねた。
「この度は、ガルガディア帝国皇帝陛下の名代として、全権大使の任を拝命し帰国いたしました。以後、お見知り置きを」
***
歓迎式典という名の茶番を早々に切り上げ、私たちは「緊急御前会議」の場へと移動した。
場所は王宮の大会議室。本来なら豪華なシャンデリアが輝いているはずだが、魔力供給が不安定なせいか、薄暗く明滅している。暖房も効いておらず、肌寒い。
長テーブルの上座に国王陛下、その左右に正妃とジェラルド王子。対面に私とアレクセイ殿下が座る。周囲には宰相や大臣たちが緊張した面持ちで控えていた。
「単刀直入に申し上げます」
私は手元の資料をテーブルに置いた。
「我が帝国は、貴国からの技術支援要請を受理しました。しかし、支援を実行するためには条件があります。王都の魔導インフラ管理権限の一時的な譲渡と、現状のブラックボックス化している予算配分の全面開示です」
「なっ……無礼な!」
バンッ! とテーブルを叩いて立ち上がったのは、ジェラルド王子だった。
「管理権限を渡せだと? 属国になれと言うのか! 我が国には我が国の誇りがある! 貴様らは黙って技術と金だけ出せばいいのだ!」
「誇り、ですか」
私は冷ややかに彼を見上げた。
「その誇り高き王城の地下で、今何が起きているかご存知ですか? 第三区画の汚水貯留槽は限界水位を超え、逆流寸前です。貴方たちが毎晩催している夜会の排水が、そのまま市民の井戸水に混入している可能性が高い」
「で、出鱈目を言うな! そんな報告は受けていない!」
「報告が上がらないのは、貴方たちが『悪い報告を持ってきた者を処罰』してきたからでしょう? 現場の技師たちは恐怖で口を閉ざし、データは改竄され続けている」
私は指を鳴らした。
控えていたアレクセイ殿下の近衛兵が、魔導映写機を作動させる。
空中に浮かび上がったのは、つい先ほど、私の指示で帝国の調査員が撮影した王城地下の映像だった。
ひび割れ、汚物が漏れ出す配管。魔力暴走で赤く発光するクリスタル。そして、ヘドロに埋もれて機能停止した浄化装置。
「ひっ……!」
正妃ベアトリスが悲鳴を上げ、口元を覆った。
映し出された映像は、あまりにも醜悪で、グロテスクだった。
「これが、貴方たちの足元です」
私は静かに、だが重く告げた。
「美しいドレスを着て、香水を振り撒き、高尚な理想を語る。結構なことですわ。ですが、その足元が腐敗し、今にも崩れ落ちようとしていることに気づかないのでは、裸の王様以下ですわね」
「き、貴様……! よくも母上の前で汚らわしいものを!」
ジェラルド王子が顔を真っ赤にして叫ぶ。「すぐにその映像を消せ! この売国奴め! 帝国に魂を売って、祖国を辱めるのが楽しいか!」
「辱めているのはどちらですか!」
私は声を張り上げた。これまでの淑女の仮面をかなぐり捨て、かつて現場で怒鳴っていた時の、ドスの効いた声を響かせた。
その迫力に、ジェラルド王子がビクリと肩を震わせて黙る。
「私は祖国を憎んではいません。ここの民も、この城も、私が守りたかったものです。だからこそ、泥にまみれて直してきた。それを『汚い』と蔑み、管理を怠り、ここまでボロボロにしたのは誰ですか!」
会議室が静まり返る。大臣たちも、近衛兵たちも、誰もが私を凝視していた。
そこにはもう、「泥鼠」を見る侮蔑の目はなかった。圧倒的な「正論」と「覚悟」に対する畏敬の念があった。
「……ふん、口だけは達者になったようだな」
沈黙を破ったのは、正妃ベアトリスだった。彼女は震える手で扇子を握り直し、憎々しげに私を睨みつけた。
「ですが、所詮は掃除婦上がりの浅知恵。配管が壊れているなら直せばいいだけのこと。我が国には優秀な宮廷魔導師団がいます。帝国の力など借りずとも、すぐに修復させてみせますわ」
彼女はまだ分かっていない。事態の深刻さを。技術の根本を。
私は小さく溜息をつき、アレクセイ殿下に目配せをした。殿下は「やってしまえ」とばかりにニヤリと笑った。
「宮廷魔導師団、ですか。確かに彼らは攻撃魔法には長けているでしょう。ですが、インフラ維持に必要なのは繊細な制御と構造理解です。……よろしい、では証明しましょう」
私は席を立ち、窓際に歩み寄った。そこからは中庭にある巨大な噴水が見える。かつては王都の水源循環の要だったが、今は水が止まり、ドブのような臭いを放っている場所だ。
「あの噴水、宮廷魔導師団が三ヶ月かけても直せなかったと聞いています。私が今、ここから動かしてみせましょう」
「はっ、ここからだと? あの距離で? 馬鹿を言うな」ジェラルド王子が鼻で笑う。
私は無視して、懐から万年筆を取り出した。父から貰った、黒檀の万年筆。
窓を開け、風に乗せて魔力を練り上げる。
イメージするのは、地下水路の地図。あの噴水に繋がる配管の詰まり、バルブの固着、魔力回路の断線。全てが頭の中にある。見なくても、触れなくても、私には「見える」。
「──術式展開。遠隔接続。対象、中央噴水制御系。洗浄、修復、再起動」
万年筆の先から、幾重もの魔法陣が展開された。
複雑怪奇な幾何学模様が空中に描かれ、光の帯となって中庭の噴水へと伸びていく。
それは単なる魔力の放出ではない。編み物のように繊細で、手術のように精密な、神業的な魔力操作だった。
ガゴン、という重い音が地響きのように伝わってくる。
固着していたバルブが強制開放され、詰まっていたヘドロが洗浄魔法で分解される。
そして──。
シュウゥゥゥ……バシャアァァァッ!
勢いよく、天を衝くような水柱が噴き上がった。
濁っていた水は、一瞬にしてクリスタルのように透明な輝きを取り戻し、太陽の光を受けて虹をかけた。
止まっていた心臓が、再び脈打ち始めたかのように。
「な……っ!?」
「まさか、一瞬で……!」
会議室にいた全員が窓に駆け寄った。
正妃も、王子も、大臣たちも、言葉を失ってその光景を見つめていた。
たった一人で、遠隔操作で、国の最重要インフラを蘇らせた。その事実は、どんな言葉よりも雄弁に私の「力」を証明していた。
私はゆっくりと振り返り、青ざめた正妃たちに向かって微笑んだ。
帝国で学んだ、最高に優雅で、最高に冷酷な微笑みを。
「ご覧いただけましたか? これが『掃除婦』の仕事です。……さて、交渉に戻りましょうか。それとも、このまま汚物に埋もれて沈みますか?」
正妃ベアトリスはその場に崩れ落ちた。プライドも、偏見も、全てが粉々に砕け散った音が聞こえるようだった。
ジェラルド王子はパクパクと口を開閉させるだけで、声も出ない。
そして上座の国王陛下は──静かに目を閉じ、深く頷いていた。
勝負は決した。
だが、これで終わりではない。これはまだ、腐敗を取り除くための最初の一手に過ぎない。
私は万年筆を胸にしまい、再び交渉のテーブルへと戻った。
その足取りは軽く、誇りに満ちていた。




