痛みは思い出に
原案段階ではシーナの扱いをどうするか結構悩んだんですよ。
潮騒が、静かに耳を撫でていた。
月明かりの下、砂浜に横たわる少女が一人。
シーナ・ユークリッド。
泣き疲れ、まぶたを閉じたまま、微かな寝息を立てていた。
夢の中。
彼女の視界には、眩しいほどの陽光と笑顔が広がっていた。
青い海辺、白い砂。
その中心で、アクアと紫苑が肩を並べて笑い合っている。
紫苑の手には花束、アクアはその手を優しく包み込み──
二人の姿が、まるで絵画のように穏やかで、美しかった。
だが、それがシーナの胸を締め付ける。
波の音が遠のき、世界が滲む。
シーナの夢の中で
「……どうして……? その笑顔、私に向けてくれたはずなのに……」
目を逸らしたくても、逸らせない。
愛した人が、もう自分のいない場所で幸せになっていく光景。
その幸福が、刃のように心を裂いた。
──その瞬間、夢が崩れる。
海辺の光景が黒く歪み、笑い声が遠く響いた。
アクアの影が遠ざかる。
紫苑の瞳が、どこまでも優しく、自分を拒絶していた。
「やだ……やだ……行かないで……!」
夢の中で、シーナはまだ彷徨っていた。
波の向こうに消えていくアクアの背中を追いかけ、必死に手を伸ばす。
「待って……置いていかないで……」
その声は誰にも届かず、潮騒に呑まれていった。
現実の世界。
夜の海風が、浜辺の砂をさらう。
静かな月光の下で、シーナは砂の上に倒れるように眠っていた。
頬には涙の跡、指先はかすかに震えている。
──その時。
近くを巡回していたジョンが、波の音に混じる微かな息づかいに気づいた。
「……? ん、誰かいる?」
懐中ランプを掲げ、光を向ける。
そこには、薄衣のまま倒れている一人の女。
長い髪が濡れた砂に広がり、月明かりを受けて儚く光っていた。
「うわっ、倒れてる!?」
慌てて駆け寄り、肩を抱き起こす。
脈はある。
だが、冷たい。
海にでも入っていたのか、服が少し濡れている。
「……ま、まぁ……なんだかんだ言って、ほっとけないんだよな……」
彼はため息をつきながら、そっと背中に手を回す。
軽い。
自分と同い年くらいに見えるのに、不思議なほど儚い重さだった。
ジョンはそのまま彼女をおぶい、
月の光を頼りにコテージへと歩き出した。
波の音が、背後で静かに寄せては返す。
夜風が止んだ。
ジョンがコテージへ向かう背を、静かに見送る影がひとつ。
メグだった。
木陰に腰をかけ、月明かりを受けて頬杖をついている。
その表情は、どこか満足げで、少しだけいたずらっぽい。
「よし……タイミング、完璧っと♪」
遠ざかっていくジョンと、背中で眠る少女を見つめながら、
小さく指を鳴らす。
魔法ではない。
けれど、まるで“運命”をほんの少しだけ押し出したような――
そんな確信があった。
「後は……頼んだよ、ジョンくん。
あの子には、もう一度“誰かを信じること”を思い出してもらわなきゃね……」
風が髪を揺らす。
大賢者の瞳が、夜の彼方を見つめた。
月光の下、メグはひとり静かに笑みを浮かべる。
「さぁ、舞台は整った。あとは──ハッピーエンドに持ってくだけだよ♪」
夜が明けた。
差し込む陽光が、白いカーテン越しに柔らかく揺れている。
小鳥の囀り、波の音。
それらがゆっくりとシーナの意識を現実へ引き戻した。
「……ここ、どこ……? 私、昨日……」
上体を起こすと、見知らぬ部屋。
窓の外には青い海。
温かな潮風が、部屋の香りと混ざり合っていた。
扉が軽くノックされる。
木製の扉が軋む音とともに、ひとりの青年が顔をのぞかせた。
「あ、起きた! よかった……」
彼の手には、皿に載せたパンと、冷えた水の入ったコップ。
差し出しながら、どこか安心したように笑う。
「とりあえず、これ飲んで。君、めちゃくちゃガリガリだったからな」
その言葉に、シーナは目を瞬かせた。
誰だろう、この人。
知らない顔なのに、不思議と優しい。
「……あんた、誰?」
「俺? 俺はジョン。
この島の──“島主”だよ。」
驚くシーナをよそに、ジョンは照れくさそうに笑った。
その笑顔が、どこかで見たアクアのそれに似ていて……シーナの胸の奥で、何かが小さく鳴った。
──それが、彼女の運命を変える出会いだった。
管理人用コテージの一室。
まだ朝靄が残る時間帯、窓からは柔らかな光が差し込んでいた。
木のテーブルの上には、湯気を立てるスープと焼きたてのパン。
潮の香りとスープの香ばしさが、心地よく混ざり合う。
ジョンはスプーンを手にして、少し照れたように微笑んだ。
「とりあえず……温かいの、飲んで」
カップを差し出すその手には、傷跡と土の汚れ。
派手さのない、けれど“働く手”だった。
シーナはカップを受け取り、湯気の向こうからジョンを見つめる。
「……ふん、まるで拾われた野良猫みたいな扱いね」
「だって、野良猫みたいに倒れてたじゃん」
「うっ……確かに、そうだけど……」
その返しに、思わず口元を引き結ぶシーナ。
だが次の瞬間、スープの温もりが喉を伝い、
胸の奥で“何か”がほんの少しだけ溶けた。
外ではカモメの鳴き声。
波の音が穏やかに寄せ、朝の光が二人を包む。
ジョンはパンをちぎりながら、柔らかく笑った。
「まぁ……猫でも人でも、腹が減ってたらまず飯だろ?」
「……ふふ、変な人」
初めて、彼女が笑った。
その笑顔を見て、ジョンの胸にも小さなあたたかさが灯る。
スープの湯気が、ゆらゆらと立ちのぼる。
その香りは、懐かしい匂いがした。
──安心、という名の香り。
シーナはカップを両手で包み込み、
ゆっくりと口をつけた。
温かい。
それだけで、涙が出そうになった。
誰かに優しくされたのも、
誰かのために作られた食事にありつけたのも……
あの“レグナスのクーデター”以来、無かった。
それからの彼女は、逃げ続ける日々。
拠点も持てず、乾いたパンと冷えた水だけで夜を越えてきた。
笑う理由も、泣く余裕も、いつの間にか失っていた。
けれど今──
目の前の男は、何の見返りも求めず、
ただ静かに「食べなよ」と言ってくれた。
その何気ない一言が、
胸の奥にじんわりと染みていく。
(……あったかい……)
震える指先を見つめながら、
彼女は、久しぶりに“人の温もり”を思い出した。
ジョンは何も知らないまま、
目の前の少女が、
心の底でようやく息を吹き返したことにも気づかずに、穏やかに笑っていた。
コテージの窓からは、光が二人の間をやわらかく照らしていた。
波の音だけが、ゆるやかに会話の隙間を埋める。
「……でさ、君、家は? 帰らなくて大丈夫?」
シーナはカップの底を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「帰る家なんて……無いのよ」
「そっか……」
それ以上、彼は何も聞かなかった。
ただ静かに立ち上がり、カーテンを少し開ける。
差し込んだ光が、二人の影を並べた。
「じゃあ、しばらくここにいればいい。
島は広いし、ベッドもあるし──猫の一匹くらい増えても困らない」
思わず、シーナの頬がわずかに緩む。
「……あんた、変わってるわね」
「そう?まあ…後先考えないタイプではあるけど」
二人は小さく笑い合った。
その笑みは、どちらもぎこちなかったけれど──
確かに、温もりがあった。
夕暮れの海風が、窓辺のカーテンを揺らす。
シーナの心の奥で、冷たく固まっていた氷が、
ほんの少しだけ、溶けたように感じられた。
正午の陽光が、白いカーテン越しに差し込んでいた。
海風に揺れる窓の外では、カモメが飛び交い、波が砂浜を撫でている。
テーブルの上には簡単な昼食――焼き魚とサラダ、それに果実水。
静かな時間が、流れていた。
シーナはフォークを握りながら、小さく呟く。
「昔は……何でもあったのにね。
屋敷も、友達も、行く先も……気がつけば、何も無くなった」
ジョンは魚をほぐしながら、ゆっくりと笑った。
「俺は逆かな。
最初は何もなかったけど、今が一番楽しいよ。
“本当に大事なもの”を、手に入れたからさ」
「……大事なもの?」
「仲間とか、夢とか。
どれも最初は形なんか無いけど……
信じて続けたら、ちゃんと手の中に残るんだ」
シーナはフォークを止め、
ゆっくりとジョンの横顔を見つめた。
陽の光がその頬を照らし、優しく笑う瞳がまぶしい。
──(なんか……ジョンって、アクアに似てる)
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
懐かしさと、安心と、
ほんの少しの、切なさが混ざり合っていた。
コテージ。
窓の外では、潮風が白いカーテンをやさしく揺らしていた。
シーナはコップの水を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「……ジョン」
「ん? どうした?」
「アタシ……元々は、貴族だったの。
綺麗な服を着て、欲しいものは何でも手に入って、“幸せになるのは簡単”だって、ずっと思ってた」
ジョンは黙って聞いている。
「でもね……玉の輿を狙って、失敗したの。
欲に目がくらんで、結局、何もかも失って……
友達も、家族も……みんな離れていった。
逃げるしかなかった。
……ただの馬鹿だよね、アタシ」
うつむくシーナの手が、震えていた。
それを見たジョンは、
そっと笑って、自分の胸を軽く叩いた。
「そっか……」
少し間を置いて、照れくさそうに続ける。
「俺もだよ。海に出たのは、親友に好きだった
子を盗られてヤケになってさ。“全部どうでもいいや”って、船出した。
……カッコ悪いだろ?」
「……ふふっ、同じね」
「うん、似た者同士」
しばらく、笑い合う二人。
その笑いは小さくて、少し照れくさくて、
けれど確かに“癒え始めた心”の音だった。
外では、波の音が二人の沈黙を優しく包んでいた。
ジョンは少しのあいだ黙って、
窓の外の青い空を見上げていた。
そして、穏やかに口を開いた。
「……だったら、さ」
「……?」
「もう一回、やり直せばいいじゃん。
失敗したって、逃げたって、
今、生きてるなら、まだ“続き”は描けるだろ?」
その言葉に、シーナは目を見開いた。
「俺もさ、ずっと後悔してたよ。
親友に負けた自分も、海に逃げた自分も、
情けなかった。でも……こうして島を作って、
みんなで笑えるようになって、思ったんだ。
“間違いの先にも、ちゃんと道はある”って」
「……そんな、簡単に言えることじゃ……」
「簡単じゃないさ。でも、誰かが“
そう言ってくれたら”……救われるだろ?」
静寂の中、
シーナの瞳がゆっくりと潤んでいく。
「……なんで、そんな優しいこと言うのよ……」
「優しい? 違うよ。俺が…誰かに言ってもらいたかった言葉なんだよ……」
風が吹き抜け、
シーナの髪がふわりと揺れた。
その向こうで、ジョンはいつも通りの笑顔を見せていた。
──ああ、この人は。
アクアに似てる。でも違う。
眩しいのに、どこか温かくて……胸が締めつけられる。
シーナは唇を噛み、俯いたまま小さく呟く。
「……やり直せるかな、アタシでも」
「やり直すんじゃないさ。“新しく始める”んだよ、
心機一転」
その言葉に、シーナは小さく笑った。
初めて見る──優しい笑顔だった。
数日後。
リゾートにオープンしたばかりの仕立て屋の前で、シーナはそっと鏡の前に立っていた。
白と淡い水色のワンピース。
肩口は軽く露出していて、風が通るたびに柔らかく揺れる。
鏡の中の自分を見つめて──少しだけ、照れくさそうに微笑んだ。
(……こんなの、いつぶりだろ)
ずっとボロボロの旅服ばかりだった。
戦うことも、逃げることもやめられなかった自分。
でも今、胸の奥の何かが、少しずつ溶けていく気がした。
そのとき、ノックの音。
「入っていい?」
「……うん」
ドアが開き、ジョンが立ち止まる。
そして、思わず息を呑んだ。
「……すごい。まるで別人だ」
「そ、そんな見られると恥ずかしいんだけど……」
頬を赤くしながら、そっと髪を耳にかける。
「似合ってるよ。本当に。
なんか……“幸せになりに来た人”の顔してる」
「……どう? 本当に……変われてる?」
「変わったよ。
でも、それより──“戻れた”んだと思う。
昔の君の優しさに」
シーナはしばらく黙って、
胸に手を当てると、微かに笑った。
「……ありがと。
アクアに言われたこと、今なら分かる気がする。
“強くて優しい”って、こういうことなのかも」
「ならもう大丈夫だな」
柔らかな笑みがふたりの間に流れる。
窓の外、真昼の海がまぶしく輝いていた。
シーナの瞳にも、ようやく“光”が宿っていた。
白い砂浜に波が寄せては返す。
エスペランサ島の港では、出航の鐘が静かに鳴り響いていた。
ジョンの前で、アクアたちはすでに荷を積み終えていた。
「いや〜、名残惜しいねぇ〜。
あたしたち、気づいたら一ヶ月半も滞在してたんだもんね〜」
アクアは笑いながらも、少しだけ寂しそうに手を差し出した。
「ありがとう、ジョン。
本当に助かった。君がいたから、この旅は忘れられないものになった」
ジョンはその手を強く握り返す。
頬を拭った指先が、潮風に濡れて光っていた。
「……俺の方こそだよ。
あんたたちがいなかったら、今頃まだボロ船で漂ってたと思う」
無理に笑おうとしても、声がかすれる。
「……また、いつか会えるよな?」
アクアは力強く頷き、まっすぐに言葉を返した。
「ああ。世界は広いけど、きっとどこかでまた」
紫苑も静かに微笑んで、深く頭を下げる。
「あなたなら、この島を守っていけます。
殿が信じた人ですから」
「ま、ジョンなら大丈夫っしょ♪
なんせ、アタシの弟子みたいなもんだし♡」
「え、いつ弟子に──?」
思わず苦笑いがこぼれ、みんなが笑った。
潮風が優しく吹き抜ける。
船がゆっくりと離れていく中、
ジョンは手を振りながら、声を張り上げた。
「アクアーー! 紫苑ーー! メグーー!!
絶対、また会おうなーー!!」
「じゃあな友よ!また会おう」
甲板の上で、アクアが大きく手を振り返す。
その姿が遠ざかっていくまで、
ジョンはずっと、笑顔のまま立ち尽くしていた。
港から少し離れた岩陰。
寄せる波の音が、遠くの船の汽笛をかき消していた。
そこに、ひとり立つ影があった。
シーナ。
彼女は岩肌に片手を置き、
潮風に揺れる髪もそのままに、
ただじっと、遠ざかっていく船を見つめていた。
声をかけることも、追いかけることもせず。
唇を噛んだまま、
それでも涙はもうこぼれなかった。
──あの背中を、何度夢に見ただろう。
けれど今は、不思議と心が静かだった。
(……いいの。あの人は、もう手の届かない場所に行ってしまった)
小さく笑うように呟くと、
シーナは海風に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
その横顔は、かつての“嫉妬に囚われた少女”
ではなく、どこか晴れやかで、柔らかい光を帯びていた。
船はエスペランサ島の港を離れ、ゆっくりと沖へと進んでいく。
波しぶきの音が穏やかに響く中、
メグは甲板の手すりに腰をかけ、片目を細めていた。
その瞳には、千里眼の映像が淡く揺れている。
──砂浜を離れ、静かに歩き出すシーナの姿。
そして、それを見守るように微笑むジョン。
「……シーナ、追って来てないね〜。
うん、概ね成功っと♪」
満足げに魔法陣を閉じて伸びをする。
その様子を見ていた紫苑が、少し首をかしげた。
「どうかしましたか? メグ殿?」
メグはニヤリと笑い、両手を後ろに組んで。
「ん〜ん、なんでもな〜い♪
ただ、“1人の女の子”がやっと前を向けただけだよ」
「……また何かを隠している顔、です」
「え〜? やだなぁ紫苑ちゃん♡」
「お前が隠し事してる時の顔、もう覚えたぞ」
「や〜ん、見透かされた〜♡」
みんなが笑う。
けれどその笑みの奥で、
メグだけが、少しだけ遠い海の向こうを見つめていた。
(……さ、あとはあの2人に任せよ。
これで“アクアの物語”は、ほんとの意味で次へ進める)
エスペランサ島を離れた船の上
波が穏やかに船体を撫でる。
白い帆を膨らませた船は、太陽の海をゆっくりと進んでいた。
「姉さんに、あの島のことを書いた手紙を送ったよ」
「あー、ディアドラさんね。
あの人が宣伝したら観光客100倍だね〜。
王国に広報担当してもらうみたいな♡」
アクアは笑って首を振る。
「いや、ジョンの頑張りを後押ししてやりたくてさ。あいつ、凄く真面目だし。
何も無かった場所を、ちゃんと“夢の島”に変えようとしてる」
紫苑は柔らかく微笑み、風に銀の髪を揺らした。
「きっと素晴らしい島になりますね。
殿のご友人なら、きっと……」
「ふふ、そりゃあね〜。
アクアきゅんに影響された人たちは、みんな強くなるんだから」
──風が吹いた。
潮の香りと共に、どこか遠く、別の国の王城へとその風が渡っていく。
そして場面は、クレイン王国王城。
ディアドラ・クレインの執務室へ──
磨かれた大理石の床を渡る風が、カーテンを静かに揺らしていた。
女王ディアドラ・クレインは、机に届いた封書を手に取る。
差出人は──アクア・クレイン。
「……新リゾート地、ね。
エスペランサ島……“希望”か。
ふふ、あの子らしいわね。名前のセンスまで父親譲り」
手紙を読み進めながら、口元に小さく笑みを浮かべる。
やがて立ち上がると、背後の扉を開けた。
「アズール、ハーデス。
少しの間、王務を任せても?」
執務室にいた二人の弟が同時に顔を上げる。
「……いいけど、姉上が自分から休みを取るなんて珍しいな。どこか行くのか?」
「姉上が休暇を取るとは……世界を救いに行くのですか?」
ディアドラは吹き出しそうになりながらも、軽くため息をつく。
「違うわよ。ちょっと、“母を迎えに行く”だけ」
二人がぽかんとする中、
ディアドラは肩をすくめて王冠を外し、
私服のコートを羽織る。
城下町
上皇后屋敷、その中庭にある花園で──
赤いバラの手入れをしていた一人の女性が、ふと顔を上げた。
彼女こそ、かつて“忠義の女騎士”と呼ばれたミレイナ・クレイン上皇后。
歳月を経てもその瞳は鋼のように澄み、背筋は微塵も揺るがない。
足音が響いた。
その主を見た瞬間、ミレイナの表情が驚きと喜びに揺れる。
「……ディアドラ!?あなたがどうしてこに……?」
白と金のドレスに身を包んだ女王は、花々の間に静かに歩み寄る。
微笑を浮かべ、深く一礼した。
「母上、ご無沙汰しております」
ミレイナは手にした剪定鋏をそっと置き、娘の肩に触れる。
その指先が、わずかに震えていた。
「まぁ……貴女、自分からここに来るなんて。
陛下ともあろうお方が、いったい何の御用で?」
ディアドラは小さく息を整える。
いつもの威厳はそこになく、
ほんの少し年下の娘のような、柔らかな声になっていた。
「……少し、お連れしたい場所がありまして」
ミレイナはふっと微笑む。
「ふふ……貴女がそう言うのなら、断れませんね。
けれど、“女王陛下”が私をどこへ?」
ディアドラは首を横に振り、
久しく見せなかった優しい笑顔を浮かべた。
「今は、ただの娘です。
……母に、旅の景色を見せたいと思いました」
その言葉に、ミレイナの瞳が静かに潤む。
母と娘。
かつて国を守るために剣を取り、そして冠を受け継いだ二人が、
ようやく“ひとりの家族”として並び立つ瞬間だった。
王室専用の帆船
白の船体が穏やかな波を切り、インドラ洋を南へ進んでいた。
潮風が甲板に立つ二人をやさしく撫でていく。
「……海の香りは、やはり良いものですね」
瞳を細め、遠い水平線を見つめる。
「懐かしいです。かつての旅を思い出します」
ディアドラも手すりに手を置き、母の隣に立った。
彼女の表情はどこか穏やかで、女王というより一人の娘そのものだった。
「ええ……。母上も、昔はこうして父上や義母上たちと旅をしたのですね、今のアクアたちのように……」
ミレイナは小さく笑い、潮風を胸いっぱいに吸い込む。
「アクアは、良い子ですね。
あの子は……ワイアットに似ている。少し無鉄砲だけれど、人の痛みに気づけるところがある」
「……そうですね。
私たちの血筋って、どうしてこうみんな真っすぐなんでしょう」
「ふふ……そうね。でも、それが“クレイン”の証」
波の音が二人の間を満たす。
国を築いた者と、それを継いだ者──
母と娘、女王とかつての騎士。
時を越えて並び立つその姿は、どこまでも凛として美しかった。
穏やかな波が、船体をやさしく揺らしていた。
昼下がりの海は陽光にきらめき、水平線の向こうには白い雲がのびている。
デッキの上、母娘は寄り添うように並んで座っていた。
「義理とはいえ、あの子は私の“息子”ですから。……誇りに思います」
その言葉には、戦乱の時代を越えてきた女性らしい深い慈しみがあった。
彼女の声を聞きながら、ディアドラはふと口元に笑みを浮かべる。
「……実は、アクア。
紫苑さんと──こっそり婚約したんですよ」
「まぁ……」
驚きの声を上げながらも、ミレイナはすぐに頬へ手を添え、
静かに微笑んだ。
「ふふ……あの子が“誰かを想える”ようになったのですね。ワイアットが知ったら、きっと泣いて喜ぶわ」
「ええ……母上も、父上も。みんなの想いが、きっとあの子に届いたんだと思います」
海風が二人の髪をそっと撫でた。
言葉少なに見つめ合う母と娘──
その瞳の奥には、失われた時代から受け継がれた“命の連なり”が静かに灯っていた。
陽が傾き始めた頃。
空は金と紅のグラデーションに染まり、海面が鏡のようにその光を映していた。
ディアドラが前方を見つめ、微かに笑みを浮かべる。
その眼差しの先に、淡く霞む翠の影があった。
「母上……あれが、“エスペランサ島”です」
ミレイナは思わず息を呑み、手すりに近づく。
遠くに見える島影は、夕日に照らされて宝石のように輝いていた。
白い砂浜、緑の森、そして島の中央に光る湖。
「まぁ……なんて美しい……」
その声音には、心の底からの感嘆が滲む。
ディアドラは母の反応を見て、小さく頷いた。
ディアドラ「アクアと仲間たちが創った島です。
“希望”という意味を持つエスペランサ──。
彼らがこの世界に残した、新しい夢の形なんです」
ミレイナは胸に手を当て、そっと微笑む。
「希望……。あの子らしい名ですね……」
船はゆっくりと港へ向かう。
潮風が二人の髪を撫で、金色の光が波間にきらめいた。
母と娘を乗せた船は、静かに“希望の島”へと滑り込んでいった。
白砂の桟橋に船が接岸すると、
波間に反射した陽光が王室の紋章を黄金に染めた。
静まり返る港。吹き抜ける潮風。
そして――緊張でカチコチに固まった青年が、必死に姿勢を正していた。
「よ、ようこそ……エ、エスペランサ島へっ!!」
ディアドラとミレイナが桟橋に降り立つ。
母娘の存在感は、まるで神話の女神のようだった。
ジョンはその迫力に飲まれ、背筋をピンと伸ばす。
「……あなたが、この島の管理人?」
「は、はいっ!じょ、ジョンと申しますッ!
し、島主ですっ!!」
ミレイナは小さく目を細め、優しく問いかける。
「まぁ……まだお若いのね。……ここ、あなたが?」
ジョンは両手をぶんぶん振って、必死に否定する。
「い、いえっ!あの、その、正確には“建てた”のはアクアさん達でして!わ、わたしは……その……あの……」
「落ち着いて。
あなたに、少し興味があって来ただけよ」
穏やかな笑みを浮かべながらも、その声には女王らしい圧が滲む。
ジョンは思わず背筋をさらに伸ばした。
(ちょっとだけ怖い……けど女王様……! 本物の威圧感だ……!)
そんなジョンの様子を見て、ミレイナはそっと口元に笑みを浮かべた。
「ふふ……こんな静かな場所に来るのは久しぶりです。アクアたちは、もう出発されたのですね?」
「は、はいっ! 昨日旅立たれて、次の目的地へ……!」
「なら、少しゆっくりさせてもらいましょうか」
「ジョンさん。あなたのおかげで、アクア達も随分休めたようです。本当に、ありがとう」
その微笑みは、まるで“母としての祝福”そのものだった。
ジョンの頬がほんのりと赤く染まる。
「い、いえっ……こちらこそ……光栄です……!」
南国の風が吹き抜け、女王と母、そして青年の物語が新たに交差した。
夜。
南の島の空は、星々が降るように輝いていた。
波の音とヤシの葉の擦れる音が、穏やかな子守唄のように響いている。
ジョンが手配したエスペランサ島の最上級VIPルーム。
月明かりがバルコニーのカーテンを透かして、室内をやわらかく照らしていた。
母と娘は、温かい紅茶を手に向かい合って座っていた。
王冠もマントも置き去りにして、ただの“親子”として。
「……私が王位を継承して、もう3年ですか」
窓の外の月を見上げながら、少し遠くを思うように呟く。
「不思議ですね。こうして母上の前にいると、
私まで子供に戻った気がします」
ミレイナは穏やかな微笑を浮かべた。
「貴女が王位を継いでからは、ずっと“女王”の顔ばかりだったものね。今日は“娘”に戻ってくれて
……嬉しいわ」
その声は、かつて剣を握りしめていた戦士のものではなく、
ただ一人の母の声音だった。
ディアドラは少し唇を噛み、
やがて目を伏せるようにして、静かに呟いた。
「……母上」
短い言葉の中に、3年分の想いが詰まっていた。
王としての孤独、背負ってきた責任、
そして、ただ母に甘えたかった少女の心。
ミレイナは何も言わず、そっと娘の手に自分の手を重ねた。
夜風がカーテンを揺らし、海の香りが二人の間を通り抜けていった。
翌朝。
エスペランサ島の港には、
王室専用の船が静かに停泊していた。
潮風がやわらかく吹き抜け、帆布が小さくはためく。
甲板の前では、ディアドラとミレイナが出航の準備を整えていた。
ジョンは深く頭を下げた。
「陛下……ご滞在ありがとうございました!」
ディアドラは微笑みを浮かべ、手すり越しにジョンを見下ろす。
「とても良い島でした。空気も澄んでいて、夜の星空は見事……まさに“希望の名にふさわしい島”ね」
「お褒めいただき、光栄ですっ!」
女王の凛とした笑顔の中に、どこか柔らかな色が宿っていた。
ほんの少しの休息。それが彼女にとってどれほど貴重だったか、ジョンにも伝わっていた。
ミレイナがその横で、小さく頷きながら言葉を添える。
「ジョンさん……本当に、素晴らしいおもてなしでした。ここには、あの子たちの“夢”が生きている。あなたが守ってくれているのね」
ジョンは少し照れたように頭をかき、笑った。
「いえ……僕はただ、あの人たちに教わった“楽しむ気持ち”を続けてるだけです」
ディアドラは満足げに頷き、船へと足を向ける。
「国の務めがある身ですから、長居はできませんが……最高の休暇でした。また来ます」
ミレイナも続く
「今度はお土産を持ってきますね。ふふ」
船がゆっくりと離岸する。
ジョンは桟橋の先で、潮風を浴びながら手を振った。
「ありがとう、女王陛下…上皇后陛下……!」
白い船体が陽光に溶けていく中、
ジョンは静かに呟いた。
「……俺も、あの人たちみたいに“誰かの希望”を守れるようになりたいな」
その目はもう、漂流していた少年のものではなかった。
エスペランサの風が、彼の背中を優しく押していた。
その後、エスペランサ島はクレイン王家の別荘地としてさらなる賑わいを見せていた。
白砂の浜辺には光が降り注ぎ、
空と海の境を駆け抜ける帆船が絶えない。
訪れる人々の笑い声、音楽、そして潮の香り――
それらがこの島を、インドラ洋屈指の人気リゾートへと押し上げた。
夕暮れ。
王室船が水平線の向こうへ消えていくころ、
ジョンはゆっくりと管理人用コテージへ戻ってきた。
潮風を背に受け、どこか充実した表情をしている。
玄関の扉を開けると――
ふんわりと漂う香ばしいパンとスープの匂い。
「おかえりなさい」
キッチンの方から、シーナの声が聞こえた。
振り向けば、白いエプロンをつけた彼女が、少し照れたように笑っていた。
「……ただいま」
短い言葉に、どこか照れくさい温もりがあった。
テーブルには、湯気の立つスープと焼きたてのパン、そして果物の盛り合わせが並んでいる。
「これ……シーナが?」
「暇だったから。……掃除も洗濯も終わらせといたわよ」
そう言いながら、髪を耳にかけて視線をそらす。
その仕草には、かつての棘がもうほとんど残っていなかった。
「……すげぇな。やってくれてるとは思わなかった」
「失礼ね」
ぷいとそっぽを向くが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
テーブル越しに向かい合い、
二人は静かにスープをすくう。
湯気の向こうで、ジョンが小さく呟いた。
「……ただいまって言ったら、“おかえり”が返ってくるの、なんかいいな」
シーナは一瞬、言葉を詰まらせて、
それでも柔らかく微笑んだ。
「……当たり前でしょ。
ここはもう、“帰る場所”なんだから」
コテージの窓から、エスペランサの星々がまたたいていた。
孤独だった二人の時間が、少しずつ“日常”に変わっていく。
夜風が涼しく吹き抜け、
コテージの縁側にはランプの淡い光が揺れていた。
二人は肩を並べて座り、海の向こうの月を眺めていた。
ジョンがふと、穏やかな声で口を開く。
「シーナ……君が、この島に来た頃は、なんだか辛そうだったよな」
シーナは少し目を伏せ、静かに頷いた。
「……うん、あの頃の私は、ボロボロだった。
人が怖くて、でも独りはもっと怖くて……」
潮騒の音だけが、しばし二人の間を埋めた。
「でも今の君は、笑ってる。
花の手入れして、移住してきた近所の子どもたちに本を読んでやって……」
シーナは驚いたように目を瞬かせ、
それから少しだけ照れくさそうに笑った。
「……見てたの?」
「そりゃ見るよ。
この島で一番きれいに笑う人、目立つに決まってるだろ」
シーナは俯いたまま、膝の上で指をもじもじと絡める。
頬がほんのり赤く染まっていた。
「……あんた、ほんとズルい」
「どこが」
「そういうこと、さらっと言うとこ」
小さく笑い合った後、
シーナは少し真面目な声で続けた。
「でもね……この島に来て分かったの。
人って、何度でもやり直せるんだって。
私、もう“誰かの影”じゃなくて、“私自身”として生きていける気がする」
ジョンは頷き、穏やかに笑った。
「そう思えたなら、もう十分だよ。
ここは、“希望”の島だからな」
その言葉に、シーナは静かに目を閉じ、
夜空を仰いでそっと呟いた。
「……ありがとう、ジョン」
月明かりが二人を照らし、
海面にきらめく光がまるで祝福のように揺れていた。
朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光が、
シーツの上をやさしく撫でていた。
窓の外では、小鳥たちが囀り、
エスペランサ島の新しい一日が始まろうとしている。
ジョンはゆっくりと目を開け、
隣で穏やかな寝息を立てるシーナを見つめた。
彼女の表情は、もうかつてのような憔悴に満ちたものではない。
まるで長い旅路の果てに辿り着いたような、安らぎがそこにあった。
「……シーナ」
声をかけると、シーナがゆっくりと目を開ける。
寝ぼけたように瞬きをして、そして小さく微笑んだ。
「……おはよう、ジョン」
ジョンも笑みを返し、
少しの沈黙のあと、まっすぐに言葉を紡ぐ。
「この島は、俺の夢だった。
でも……今は、君がいてくれるからこそ、
俺の“居場所”になったんだ」
シーナは一瞬、息を呑む。
ジョンの瞳に、迷いはなかった。
「シーナ……帰らないでくれ。
俺と一緒に、この島で生きていってくれないか?」
朝の光が二人の間に差し込み、
海からの風がカーテンをふわりと揺らす。
シーナは唇を震わせ、
そっとジョンの胸に手を置いた。
「……いいの? 私なんかで」
「“なんか”じゃない。君がいいんだ」
その瞬間、シーナの目からぽろりと涙がこぼれた。
それは悲しみではなく、
ずっと求めていた“居場所”に触れた証だった。
「……うん……私も、ここにいたい」
ジョンはそっと彼女を抱きしめ、
二人は静かな朝の光の中で、互いの温もりを確かめ合った。
外では波音が寄せては返し、
まるで祝福するように穏やかなリズムを刻んでいた。
ジョンの腕の中で、
シーナは静かに目を閉じた。
朝の光が二人の髪を淡く照らし、
寄せる波音が優しい伴奏のように響く。
ジョンはそっとシーナの頬を撫で、
微笑みながら言った。
「……シーナ」
「……なに?」
「ありがとう。出会ってくれて…」
その言葉に、シーナはわずかに震えながら、
彼の胸元に顔を寄せた。
「……もう離れないからね?」
「離さない」
短い沈黙。
そして、二人の唇が静かに触れ合った。
潮の香りと、朝の光と、
新しい未来の匂いが溶け合っていく。
唇を離したジョンは、
柔らかな笑みを浮かべてシーナの額を軽く叩いた。
「よし! じゃあ今日も仕事、頑張るよ!」
「……もう。せっかくいい雰囲気だったのに」
「だって支配人だから!お客様を待たせるわけにはいかない!」
シーナは小さく笑い、
ジョンの背中に腕を回して、そっと囁いた。
「行ってらっしゃい。……支配人さん」
扉を開けた瞬間、
海風が吹き抜け、潮騒と共に朝日が差し込む。
ジョンは笑顔で振り返り、手を振った。
「行ってきます!」
――新しい朝。
エスペランサ島の海辺に、二人の未来が始まった。
次回いよいよ最終回
Pixivでディアドラの私服版投稿してみました
オリキャラ ディアドラ・クレイン | 福島ナガト #pixiv https://www.pixiv.net/artworks/136415714




