暁の水平線
アクアと紫苑、初の本格的な共闘です。
昨日の「修羅の女王」襲来は夢だったのかと錯覚するほど、空は澄み切っていた。
アクアは眠そうに目をこすりながら、入口からひょっこり顔を出した人物に声をかけた。
「……メグ!どこ行ってたんだよ!?」
現れたのは、いつも通りのだるそうな笑みを浮かべた大賢者。
彼女は砂を払いつつ、けろっとした顔で答えた。
「昨日が休肝日だった世界線に行ってたの〜」
「……そんな日あるのか?」
メグは肩をすくめ、頬をぽりぽりかきながら続ける。
「いやぁ〜、正直言うと、女王様
アレはマジで焦ったわ〜。
未来視も空間操作も“干渉”されるなんて思わなかったしさ。だから一回……安全な世界線に避難してた」
紫苑は刀の柄に手を添えながら、じっとメグを見据える。
「つまり……本気で“退いた”のですか、メグ殿」
「そゆこと〜。いや〜、アクアくんが姉離れできてたら、アタシ今ここにいないかもね」
「……何言ってんだよもう」
「……その通りでは、ございますが」
ちょっとした緊張が残る空気の中、3人は顔を見合わせ──やがて、同時にため息をついた。
──宿屋の前。
瓦礫と化した壁、吹き飛んだ屋根……昨日の「修羅VS大賢者」の爪痕が痛々しく残っていた。
宿屋の主人が頭を抱えている
「ひ、ひどい……せっかく先代から受け継いだ宿が……!」
「メグ……どう責任取るんだよ」
「まさか、旅の途中で宿をひとつ潰すとは……」
メグは両手を合わせ、ぺろっと舌を出した。
「ゴメンて! ちゃんと直すからさ〜。昨日はマジで無理だったの! 女王様ブチギレモードとか、想定外すぎてさぁ……」
そう言うと、彼女は腰の酒瓶をぽん、と軽く叩いた。
「はいはい、“時間巻き戻し”っと」
指を鳴らした瞬間――
崩れていた壁が逆再生のように積み上がり、割れた窓が元通りに、舞い散っていた瓦礫もひとつ残らず元の場所へ吸い込まれていく。
宿屋の主人「えっ……!? な、直ってる……!」
「はい修復完了! いや〜便利便利♪」
「……なんで最初からそれやらないんだよ!」
「殿、無駄です。きっとこの御方は“追い込まれないと本気出さない”のです」
メグは得意げに胸を張りながら――
「いやぁ〜、昨日は死ぬかと思ったけど、こうして直せば“ノーカン”でしょ? ノーカン♪」
アクアと紫苑はそろって大きなため息をつくのだった。
アズールと待ち合わせの約束をしている港へ着いたアクア達。
朝日を浴び、蒼い波がきらめいていた。
その岸壁には整列した水兵たちの列、そして堂々と停泊する王国旗艦マリアライト号の姿。
「アクア第三王弟に対し――敬礼!!」
号令とともに、一斉に手が掲げられる。波の音すらかき消すほどの統一された動き。
「アクア、次の国までは俺達が送ろう」
前へ歩み出たアズールの蒼い瞳は、どこまでも凛としていた。
「兄さん……やり過ぎだって……」
アクアは少し居心地悪そうに頭を掻くが、周囲の空気は誇らしさと期待で熱を帯びていた。
「うわ〜〜っ、すごい〜っ!これが“王国海軍”の精鋭……!」
メグは子供のように手を叩き、目を輝かせてはしゃぐ。
「殿……!まるで英雄の凱旋です……!」
紫苑は胸に手を当て、感極まったように見上げる。
アクアは赤面しつつ、深く息を吸い込んだ。
旅立ちは、もう“ただの旅人”ではない。――王国の誇りを背負う船出となっていた。
「……えっ、これ……軍艦……だよな?」
アクアは思わず声を失った。
艦内には赤い絨毯が敷かれ、壁には絵画や黄金の装飾がきらめく。食堂は王宮の晩餐会さながらの豪奢な食器が並び、個室に案内されれば、柔らかなベッドと海の見える大きな窓、まるで高級ホテルのスイートルームだった。
「殿、お部屋に温浴施設まで……!」
紫苑は感激のあまり目を輝かせている。
「ふっふ〜ん!ほらアクアきゅん、こっち見て!チョコミントのアイスまで冷蔵庫にあるよ!完璧ぃ〜!」
メグはテンションMAXで飛び跳ねている。
「兄さん……これは……」
アクアは呆れ半分、困惑半分でアズールに視線を向けた。
「当然だろ?」
アズールは涼しい顔で微笑みながら答える。
「お前は俺たちの弟であり、この国の未来を背負う者だ。荒波の中で雑魚寝なんてさせられるわけがない」
アクアは深いため息をつき、ベッドに腰を下ろす。
「……姉さんもそうだけど、兄さんも……やっぱ過保護なんだよなぁ……」
紫苑はその言葉に頬を染め、そっと微笑む。
「……過保護ではなく、愛情ゆえかと」
アクアは言葉を詰まらせ、窓の外に広がる水平線を見つめた。
船出の空は、やけに澄み切って見えた。
豪華軍艦マリアライト号のデッキ。
水平線に夕日が沈み始め、潮風と共に兄弟の会話が心地よく響いていた。
「兄さん、こんな立派な船を……本当にありがとう」
アクアはまだ若干落ち着かない様子で頭を掻く。
「旅の道中くらいはゆったりとな」
アズールは当然のように言い切る。
「弟に楽をさせるのも兄の務めだ」
紫苑は感激のあまり胸に手を添え、深々と頭を下げる。
「アズール様のお心遣い、心より感謝致します」
……そして。
デッキチェアに寝そべりながら、片手に酒、片手にアイス。
金髪を潮風に揺らし、全力でくつろぐ大賢者の姿が。
「あ〜船最高〜〜!風気持ちいいし〜酒も美味いし〜……。あ、アクアくん〜?もう一杯欲しいな〜」
「俺の財布から出すつもりだろ!!」
「わ〜バレた♡」
……どうやら「ゆったりとした船旅」というのは、
人によって定義が大きく違うらしい。
マリアライト号のデッキ、夕風が心地よく吹き抜ける。
「しかし……紫苑ちゃん…」
アズールはニヤリと口元を緩め、わざとらしく紫苑を一瞥する。
「護衛にしては可愛すぎる……いや、もしかして旅の間は“恋人役”もしてくれるのか?」
「っ……!? わ、私はそのような──」
耳まで真っ赤になり、慌てて否定する紫苑。
だが、その瞬間。
アクアが一歩前に出て、真剣な目で兄を睨んだ。
「おい!彼女だぞ!」
「……!?」
紫苑は一瞬固まり、顔を真っ赤にして俯いた。
「お〜、言った言った♡ もう完全に彼氏ムーブだね〜」
「ははっ……! やっぱり親父譲りだな、お前は」
……こうして“王族兄弟の会話”は、結局ニヤニヤする展開にしかならなかったのであった。
メグが寝そべりながら目を細める。
「……あれ〜? なんか旗黒いし、ドクロ描いてあるし〜。海賊船じゃない?」
アズールの表情が一瞬で引き締まった。
「海賊だと……!? よりによってこの海域か。ここは交易ルートの要……やつらを放置すれば大損害だ!」
紫苑が身を乗り出し、沖を指差す。
「見えます!あの豪華な船……襲われています! あれは……貴族船かと!」
海上では、白い帆の豪華船が煙を上げて逃げ惑い、黒旗を掲げた粗暴な海賊船が迫っていた。怒号と銃声が風に乗って聞こえてくる。
「兄さん!」
「分かっている!」
アズールが鋭く指揮を飛ばす。
「――砲門、用意!!」
兵士たちが一斉に動き、マリアライト号の側面の砲口が次々と開いていく。
「舵を切れ!距離を詰める!援護射撃の準備だ!!」
紫苑がトライデントを携えたアクアを振り返る。
「殿、我らも!」
アクアは頷き、潮風を受けながらデッキの先へ走り出す。
メグは涼しい顔で腰を上げ、チョコミントアイスを食べかけながらひと言。
「まー、アイス溶けないうちに終わらせてよね〜」
アクアがトライデントを高く掲げる。
「……波よ、来てくれ」
その声に応えるように、海面がうねり、巨大な波が形を変えて――まるで生き物のようにアクアと紫苑を乗せる。
「紫苑!行こう!」
「な、波を……乗っている!? 殿……凄い……!」
波は白馬の如く駆け、瞬く間に海賊に囲まれた民間船の甲板へ。
着地と同時に、アクアはトライデントを横薙ぎに振るう。
甲板に飛び込んだ瞬間、海賊たちの怒号と剣閃が殺到する。
青白い閃光を纏った一撃が、迫り来る海賊たちをまとめて吹き飛ばした。
「て、てめえ……何者だ!!」
恐怖と怒号が入り混じる中、背後から斬りかかる影――
紫苑がすかさず踏み込み、刀を弾く。
「殿の背は、私が守る!」
アクアも笑みを浮かべ、背中を預けるように叫んだ。
「なら俺は、前を切り拓く!紫苑、行くぞ!!」
背中合わせに立つ二人。
一人は海を操る海神の力を宿す少年。
一人は忠義に燃える剣士。
振り返ることなく、互いの気配を信じ、左右から迫る海賊たちをなぎ倒していく。
波しぶきが舞い、剣と槍が閃く。
その瞬間――民間人の目に映ったのは、“一陣の嵐”そのものだった。
アクアはトライデントを構え直し、軽く踏み込み――
一閃。
槍の切っ先が、弧を描いて走る。
「らぁッ!」
稲光を纏った穂先が敵の剣を弾き飛ばし、そのまま柄を返すように逆突き。
二人目の海賊が呻き声を上げて吹き飛んだ。
一撃ごとに雷鳴が尾を引き、まるで“嵐を振るう舞踏”のよう。
背後から迫る刃――
「殿ッ!」
紫苑が声を重ね、袴を翻しながら踏み込む。
その動きは無駄一つなく、美しく。
剣先が一閃、弧を描くたびに海賊の剣が空を舞う。
足さばきは舞踊のように軽やかで、腰のひねりから繰り出す斬撃は鋭く的確。
「はぁぁッ!」
袈裟斬りと見せかけた瞬間、刃を翻して逆袈裟――
二段の閃光に晒された敵は膝から崩れ落ちる。
互いに振り返らない。
アクアの槍が前を切り拓き、紫苑の剣が背を守る。
敵が左右から迫る。
「任せろ!」アクアが槍を一閃、突きから薙ぎへ。
「受けました!」紫苑が敵の剣を払い、鮮やかに首筋へ切っ先を滑らせる。
波しぶきと雷光の中、二人の姿はまさに“舞”だった。
見る者に恐怖を、そして――惚れ惚れするほどの圧倒的な美しさを刻みつけていく。
槍術と剣戟が響き、次々と倒れる海賊たち。
アクアと紫苑が背中合わせに立ち、敵を睨み据えたその時――
「動くなァッ!!」
鋭い怒号が甲板に響く。
振り返れば、ひとりの海賊が剣を掲げていた。
その腕の中には――
豪奢なドレスに身を包んだ少女。
高貴な生まれと一目でわかる令嬢が、必死に身を縮めている。
「ひっ……!」
少女の頬に涙が滲む。白い首筋に冷たい刃が押し当てられた。
紫苑の目が怒りに揺れる。
「卑怯な……!武士の名を名乗る価値もない下郎め!」
海賊は口角を吊り上げ、アクアに剣先を向ける。
「ガキども……この女の命が惜しけりゃ、槍を捨てろ!
ここで英雄ぶって死ぬか、見殺しにして生き延びるか……好きに選べや!!」
波間を渡る風が、甲板の空気をさらに張り詰めさせる。
紫苑が歯を食いしばり、アクアは槍を握る手に汗をにじませた。
海賊の怒号が甲板に響き渡る。
「槍を捨てろって言ってんだ!!!」
令嬢の声が震える。
「……た、助け……て……」
甲板に吹く潮風が、凍りつくように冷たく感じられた。
紫苑は刀を握りしめ、一歩でも動けば令嬢の喉を裂かれるとわかって足が止まる。
しかし、アクアは――焦らなかった。
その瞳は真っ直ぐに、海賊だけを射抜いている。
(……槍を捨てる?俺に、そんな選択肢はない……)
沈黙。
波の音と、少女のかすかな嗚咽。
海賊の剣がさらに首筋に食い込む。
「はやくしろ!!こいつの命が惜しけりゃ――!」
それでもアクアは、じり……と半歩前へ踏み出した。
紫苑が思わず声を上げる。
「殿……!」
少年の表情に浮かぶのは――恐怖ではなく、確かな“決意”だった。
「槍を捨てろって言ってんだよォ!!」
アクアは薄く笑った。
「……わかったよ。捨てるよ」
カランッ。
トライデントが甲板に転がる音。
海賊は下卑た笑い声をあげた。
「ハハハッ!武器を捨てりゃただの小僧だ!」
アクアは真っ直ぐに睨みつけ、低く呟いた。
「……違うさ。捨てても外れない」
カランッ。
甲板に転がったはずのトライデントが、不意に震えだす。
青白い稲光が走り、槍全体が呼吸を始めたかのように脈動した。
「な、なんだ……!?」
アクアが静かに命じる。
「狙え――ゲイボルグ!!」
ズドンッ!
空気を裂いて放たれた槍は、もはや矢尻の分裂など必要としない。
“必ず届く”という理そのものが形を成し、逃げ場のない軌跡で海賊の腕を穿った!
「ぎゃああああッ!!」
握っていた剣が音を立てて転がり落ち、令嬢が解放される。
紫苑は息を呑んだ。
「……外れない……。あれが、殿と槍の力……!」
アクアは令嬢を庇いながら、槍を引き抜き、冷ややかに吐き捨てた。
「“トライデント”そして“ゲイボルグ”が、お前を逃さないんだ」
海賊は恐怖に目を見開いたまま、甲板に崩れ落ちた。
しかし、前衛を蹴散らして尚も響く轟音。
海賊船の砲門が火を噴いた。黒煙と火薬の匂いが一気に広がる。
「やばい!皆、甲板から離れろ!!」
アクアが令嬢と旅人たちを庇い、叫ぶ。
だが、その声をかき消すほどの低く力強い声が響いた。
「無駄だ――。」
アズール。
彼の号令と共に、マリアライト号の艦砲群が一斉に火を噴いた!
ドゴォォォォォンッ!!
海賊船の片舷に直撃。
衝撃でマストが折れ、船体が悲鳴を上げるように軋む。
「ひ、ひぃぃっ!!」
「燃えてるぞ!消せ!……いや無理だ!!」
追撃の二撃目が船腹を抉り、三撃目で船尾が大破。
海賊たちは蜘蛛の子を散らすように海へ飛び込み、必死に命を繋ごうとした。
甲板の上で、アクアは兄の背中を見つめる。
「……流石だよ、兄さん」
アズールは片手をひらひらと振り、涼しい顔で答えた。
「悪党に情けはいらん。それが海の掟だ」
紫苑は胸に手を当て、深く頭を垂れる。
「……見事な采配にございます」
メグは口笛を吹きながら、呑気にビールを煽った。
「いや〜、アクアきゅんも派手だったけどさぁ……やっぱ本職の提督は格が違うねぇ〜」
海に飛び込んだ海賊たちが必死に手足を掻いている。
「お、泳げ!」「木片に掴まれ!」「助け――」
メグはグラスを片手に、にやりと笑った。
「ふ〜ん、逃げ切れると思ってんだ? ……甘いね」
彼女の指先が軽く弾かれる。
「あそこだけ重力100倍にしてやろ〜」
次の瞬間、海面がズズンと沈み込み、水飛沫も飛ばない。
海賊たちの体はまるで鉛の塊のように海に引きずり込まれた。
「な、なにが……!? 身体が……動かっ……」
「ひぎゃああああッ!!」
バシャバシャと暴れる音が一瞬響いたかと思うと、後は静寂。
泡の輪が海面に浮かんでは消え、やがてすべて沈黙に飲まれる。
メグは肩を竦め、涼しい顔でビールを飲み干した。
「っと、これで片付いたね〜。んー、重力って便利♡」
アクアは青ざめながら叫ぶ。
「便利って…いちいちグロテスクなんだよ! 沈めるにしても容赦なさすぎだろ!!」
紫苑はそっと刀を納めながら、真顔で呟いた。
「……殿、やはりこの大賢者殿こそ、最も恐ろしい存在では……」
民間船の甲板は、歓喜と安堵の声で溢れていた。
「殿下だ!王弟殿下が我らを救ってくださった!」
「おお……紫苑殿も!背中合わせであれほどの戦いを……!」
兵士だけでなく、旅人や乗客までもが感極まり、アクアと紫苑へと感謝を叫ぶ。
その視線を一身に受けながら、アクアは少し照れたように槍を肩に担いだ。
そこへ――
震える声で、しかしはっきりとした礼が響いた。
「助けてくださり……心より感謝いたします」
振り向くと、先ほど人質にされていた高貴な少女が、裾を摘まんで優雅に一礼していた。
絹のドレスは乱れ、長い栗色の髪は風に乱れているが、それでも隠せぬ気品が漂う。
「わたくし、クラリーチェ=フォン=リバルと申します。
リバル王国公爵家の娘にございます。……殿下、紫苑様、命の恩人として、心よりお礼申し上げます」
紫苑は深く頭を下げた。
「我が主の御威光を示す機会を頂けたこと、光栄にございます」
アクアは頭を掻きながら、少し照れ臭そうに笑った。
「助けられてよかったよ。……無事で、本当に良かった」
クラリーチェの蒼い瞳が、じっとアクアを見つめていた。
その夜。
貴族船の豪華広間は、まるで王宮の大広間を思わせるほどの絢爛さだった。
水晶灯が煌めき、銀の食器には豪華な料理が並び、吟遊詩人が歌を奏で、舞姫たちが舞を披露する。
招かれたクラリーチェは、礼として自らの家の宝飾を差し出そうとしたが、アクアはやんわりと断り、その代わりに彼女は宴の間じゅう、当然のようにアクアの隣を占めていた。
「殿下のお力に感服いたしました……」
「ご一緒にお食事を……」
そんな言葉にアクアは慣れない調子で相槌を返し、紫苑は横で静かに杯を傾けつつも、どこか落ち着かない様子を見せていた。
やがて宴も終わり、人々の熱狂が静まり返った頃。
夜風に当たろうと甲板へ出たアクアと紫苑。
蒸気を含んだ海の風が頬を撫で、遠くに星々がきらめいている。
「……はぁ……賑やかだったな」
アクアは気の抜けたように息をつき、槍を背に預けながら空を仰いだ。
「殿の隣は……賑やかすぎました」
紫苑がぽつりと呟く。視線は逸らしているが、その声音にはわずかな拗ねが滲んでいた。
アクアは思わず笑い、彼女の肩に軽く触れた。
「ごめん、紫苑。俺が一番安心するのは、君が隣にいる時なんだ」
その言葉に紫苑の頬が赤く染まり、夜風よりも熱い空気がふたりの間を流れた。
夜の甲板。
アクアと紫苑の間にほんのり甘い空気が流れていた、その時。
「アクア様……」
艶やかなドレス姿のクラリーチェが、海風を受けながら現れた。
さきほどまでの淑やかな令嬢とは違い、その眼差しには確かな熱が宿っている。
「わたくし……本気でお慕いしておりますの。
次の遠征には、ぜひこのクラリーチェもお供させてくださいませ♡」
唐突な告白にアクアは言葉を失い、頬を掻く。
「えっ、いや、その……」
背後から射抜くような視線。
紫苑の瞳は、月光を受けてひどく鋭く輝いていた。
「……殿には、すでに忠臣がついております故」
声は穏やかだが、その奥にある気迫は一国の武将すら黙らせる迫力。
クラリーチェは微笑んだまま、ふっと視線を逸らした。
「まあ……紫苑様。忠臣、ね……♡」
海風がひときわ強く吹き抜け、甲板に張りつめた緊張を攫っていった。
クラリーチェは胸に手を当て、鼓動を抑え込むように小さく息を吐いた。
「……本当に、罪なお方♡」
微笑むその顔には、切なさと憧れと、ほんの少しの諦めが同居していた。
咳払いひとつ。紫苑が一歩前に出る。
「そろそろ、失礼致しましょう殿」
「……うん、行こうか」
アクアが紫苑と並び立ち、歩き出そうとしたそのとき。
「アクア様!」
名残惜しそうに駆け寄るクラリーチェ。
振り返るアクアに、彼女はそっと手を差し伸べた。
「また……お会いできますわよね?……“友人”として」
アクアはその手を優しく握り返し、真っ直ぐに微笑んだ。
「もちろん。友達だろ?」
クラリーチェは潤んだ瞳で笑みを返す。
「……ふふ、ええ。お友達ですわね」
──切ないけれど、確かな絆。
その笑顔は、星明かりに照らされながら夜風に消えていった。
マリアライトの甲板、物資が並ぶ物陰
祝宴の灯りと音楽は遠ざかり、波音だけが響く静かな場所。
アクアと紫苑は顔を寄せ──
チュッ、と小さく吸い付くように口づけを落とした。
「……んっ♡ 殿……私、あのように令嬢と親しくされては……」
吐息混じりに囁く声は震えていて、それでいて熱を帯びている。
「嫉妬してしまいます……んっ♡」
堅物な忠臣の仮面を外した紫苑は、目を潤ませ、唇を重ねる。
何度も、何度も。
アクアはたじろぎながらも、その勢いに呑み込まれて腕を回す。
「紫苑……そんなに、嫉妬してくれるんだな……」
「……はい……だって、私は殿の忠臣で……
恋人ですから……♡」
甘い声に頬を染め、もう一度深く口づける紫苑。
夜の甲板、潮風がやわらかに吹く中、
月明かりの下──
──抑えきれぬ想いが、身体を寄せ合うように。
夜風が冷たいはずなのに、二人の間だけは燃えるように熱かった。
背後、少し離れた物陰にて──
メグは片手にワイングラスを掲げながら、にやにや笑っていた。
「いや〜、アオハルだねぇ〜。立派になっちゃってさ〜、アクアくん♡」
隣で腕を組むアズールは、肩をすくめつつも目元に笑みを浮かべる。
「……まあ、そういう年頃か。ほんと、父さんに似てきたな」
「ふふん、親譲りは伊達じゃないってことよねぇ」
「全くだ」
──2人は、やれやれと笑いながらも、どこか誇らしげに。
夜風が運ぶ波音を聞きながら、弟・仲間成長を静かに見守っていた。
──その頃、遥か遠く。
灯りの少ない裏通り。
夜の酒場の片隅で、ぼろ布のマントをまとったひとりの少女が、静かにグラスを傾けていた。
「……アクア……」
その顔は、かつての令嬢の面影を宿しながらも、憔悴と影を帯びている。
──シーナ・ユークリッド。
失われた誇り。砕かれた自尊心。
もはや“誰かの婚約者”ではなく、“誰かの令嬢”でもない。
(……何もかも失った。だったらせめて──もう一度、アクアに……会いたい)
彼女の手には、クレイン王国の新聞記事。
そこに映るアクアの写真を、食い入るように見つめる。
ギリ……と唇を噛み、震える指でその紙をくしゃりと握り潰す。
「見つける……。絶対に──」
酒場の灯りが揺れ、シーナの瞳に宿るのは狂気とも執念ともつかぬ光だった。
次回はちょっと脱線する予定(前作を知ってる人向けかもしれないです)




