『空白の教室で——四十年後の再会』
『空白の教室で——四十年後の再会』
第一章 蝉の声と記憶
「今日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます」
私は配布資料を手に、十数人の職員たちを見渡した。エアコンの効きが悪い会議室には、外から蝉の声が響いている。四十年前の夏を思い出させる、あの単調で執拗な鳴き声だった。
前の方には二十代から三十代前半の若い職員たちが座り、中年からベテランの職員たちは後ろの席に陣取っている。まるで年功序列が視覚化されたような配置だった。
「えー、今日はISOマネジメントシステムとIT基礎について、二時間ほどお話しさせていただきます」
職員たちは皆、無言だった。前列の若い職員は机に突っ伏し、後ろのベテラン職員たちは腕を組んで壁を見つめている。まるで葬儀の通夜のような、重苦しい空気が会議室を支配していた。
十分ほど一方的に説明を続けた後、私は耐えられなくなった。この沈黙を破らなければ、二時間を乗り切れない。人に何かを伝える難しさを、今まさに痛感していた。
「では、皆さんにお聞きします」私は明るい声を作った。「ISO9001という言葉を聞いたことがある方は?」
誰も手を上げない。全員が机を見つめたまま、石像のように動かない。
「あの……どなたか一人でも」
長い沈黙の後、前列の若い職員が重いため息をついて、仕方なく手を半分だけ上げた。
「ありがとうございます。では、どのような場面で聞かれましたか?」
「……さあ、よく覚えてません」彼は迷惑そうに答えた。「昔、どこかで」
「そうですか。ありがとうございます」
再び沈黙。私は冷や汗をかいていた。自分の無能さが、嫌というほど身に染みていた。この空気は、四十年前に味わったあの感覚と全く同じだった。
第二章 四十年前の記憶
四十年前、私は指定自動車教習所の学科指導員だった。
あの頃も、生徒たちは皆無言だった。前の方には十八歳、十九歳の若者たちが座り、後ろには二十代後半の社会人が陣取っていた。二十人ほどが机に向かって座っているが、誰も私を見ようとしない。まるで死人のような表情で、ただ時間が過ぎるのを待っているだけだった。
「はい、それでは交通標識について質問します」私は必死に場を活性化しようとした。「一時停止の標識を見たことがある人は?」
誰も手を上げない。葬儀場のような静寂が続く。人に何かを伝えることの絶望的な難しさを、その時初めて知った。
「あの……どなたか一人でも」
ようやく前列の若い生徒が、迷惑そうに手を挙げた。
「ありがとう。では、どんな形でしたか?」
「……八角形です」生徒は投げやりに答えた。「早く終わりませんか」
「そうですね、八角形です。では、なぜ八角形なのか分かりますか?」
「知りません」即答だった。「そんなこと覚える必要ありますか」
後ろに座っている年上の生徒たちも、うんざりした表情でこちらを見ている。まるで「なぜこんな無駄なことを聞くのか」と言いたげだった。
私は必死に質問を重ねたが、答えは全て仕方なく、迷惑そうに返ってくるだけだった。教室の空気は重く、まさに通夜のようだった。
そしてその時、自分の無能さを嫌というほど思い知らされた。人に何かを教える才能が、自分には微塵もないのだと。
あの頃の私は、まだ若く、何とか生徒たちに興味を持ってもらおうと努力していた。しかし現実は残酷だった。どれだけ質問しても、返ってくるのは義務的な答えだけ。誰の心にも響いていなかった。
そして、あの絶望的な空気に耐えられなくなって、私は退職を決めたのだった。教える仕事には向いていない。人に物事を伝える能力が、自分には決定的に欠けている。そう悟った瞬間だった。
第三章 現在へ戻る
「では、品質管理の重要性について、皆さんはどう思われますか?」
再び、墓地のような静寂。誰も目を合わせようとしない。前列の若い職員たちは机に伏せ、後ろのベテラン職員たちは完全に私を無視している。
「あの……どなたか一言でも」
前列の女性職員が、大きなため息をついて重い口を開いた。
「……重要だと思います」声には感情が一切こもっていない。まるで録音テープを再生しているようだった。
「ありがとうございます。では、なぜ重要だと思いますか?」
「さあ……よく分かりません」女性は机の上のペンをいじりながら、明らかに迷惑そうに答えた。「そう言うものなんじゃないですか」
私は冷や汗を拭った。四十年前の記憶が鮮明によみがえってきた。あの時と全く同じ空気。同じ絶望感。そして、人に何かを伝えることの絶望的な困難さ。自分には、他人の心に響く言葉を紡ぐ能力が皆無なのだと、改めて思い知らされた。
「それでは、ITについてお聞きします」私は話題を変えた。「パソコンを日常的に使われている方は?」
全員が仕方なく手を上げる。しかし、その手は重く、まるで鉛でできているかのようだった。
「ありがとうございます。では、どのようなソフトを使われていますか?」
長い沈黙の後、前列の若い職員が投げやりに答えた。
「……ワードとかエクセルとか」
「そうですね。では、エクセルのどのような機能を——」
「別に、普通に使ってるだけです」職員は私の質問を遮った。「特別なことは何も」
その口調には、明らかに「なぜそんなことを聞くのか」という苛立ちが込められていた。
私は資料をめくりながら、心の中で自分の無能さを嘆いていた。
(結局、自分はなぜ人前で話そうとしているのか?四十年前と何も変わっていない。この通夜のような空気。無関心な視線。仕方なく答える声。そして、人に物事を伝える能力の決定的な欠如。あの時決めた退職への気持ちが、再びよみがえってくる。自分は、教えることに全く向いていない無能な人間なのだ。)
第四章 休憩時間の真実
「ちょっと休憩を取りましょうか」
職員たちは無言で席を立った。若い職員たちは前の席からゆっくりと立ち上がり、後ろのベテラン職員たちは素早く廊下に向かった。誰も私と目を合わせない。まるで霊安室から出てきた人々のようだった。
私は机の前に一人残り、ペットボトルの水を飲んだ。手が震えていた。自分の無能さが、骨の髄まで染み渡っていた。
廊下の奥で、ようやく小さな会話が聞こえてきた。
「まだ半分も終わってない」
「きついな、これ」
「質問ばっかりして、何がしたいんだろ」
「分からんけど、答えないわけにもいかないし」
「面倒くさい」
「早く終わらないかな」
私は椅子に深く座り込んだ。四十年前、あの自動車教習所での最後の日を思い出していた。
あの日も、今日と同じような空気だった。前に座る若い生徒たちの無関心な視線。後ろに座る年上の生徒たちの冷ややかな表情。質問に対する投げやりな答え。そして、教室を支配する死のような静寂。
私はあの日、職員室で退職届を書いた。「教える仕事には向いていません。人に何かを伝える能力が決定的に欠けています」と上司に告げたとき、心の底からほっとしたのを覚えている。
なのに、なぜ四十年後の今、また同じことを繰り返しているのだろう。なぜ自分の無能さを、再び嫌というほど味わっているのだろう。
第五章 後半戦の虚無
「それでは後半を始めましょう。ITセキュリティについてお話しします」
職員たちは再び石像のように座っている。前列の若い職員たちは目を虚ろにし、後ろのベテラン職員たちは露骨に時計を見ている。まるで魂が抜けているようだった。
私は質問をやめて、実生活に役立つ話をしようと決めた。
「パスキーという新しい認証技術について、Googleが重要性を警告しています。従来のパスワードに代わる技術で、皆さんのスマートフォンでも既に使えるんです」
誰も反応しない。完全な無関心。まるで私が空気に向かって話しているようだった。
「例えば、Amazonや楽天でのお買い物でも、このパスキーを使えばより安全になります。設定も簡単で——」
前列の若い職員が、あからさまにあくびをした。後ろのベテラン職員は天井を見つめている。
「フィッシング詐欺の被害も防げるんです。最近、銀行を装ったメールが——」
誰も聞いていない。全員が別のことを考えている。人に何かを伝えることの絶望的な困難さを、今まさに全身で感じていた。
私は必死に続けた。
「スマートフォンのアップデートも重要です。セキュリティの穴を塞ぐために——」
「すみません」前列の男性が口を開いた。「それで、いつ終わりますか?」
その一言で、私の心は完全に折れた。実生活に役立つ話をしても、誰も興味を示さない。何を話しても無駄なのだ。
「二要素認証についても——」
「先生」後ろのベテラン女性職員が重いため息をついて言った。「正直、そういう話、私たちには関係ないんです」
「でも、皆さんのスマートフォンやパソコンを守るために——」
「知りません。そんなこと、分からないし、覚える気もありません」
私は立ち尽くした。どうしていいか分からなくなった。実用的な話をしても無関心。質問をしても迷惑がられる。一体、何をどう話せばいいのか。
四十年前の記憶が鮮明によみがえる。あの絶望感。あの屈辱感。そして、人に何かを教える才能が自分には全くないのだという、嫌というほどの自覚。二度と教壇に立たないと誓った気持ち。
それなのに、なぜ今、同じ苦痛を味わっているのだろう。なぜ、自分の無能さを再び嫌というほど思い知らされているのだろう。
第六章 時計の針
壁の時計が、ゆっくりと針を進めている。残り三十分。前列の若い職員たちも後ろのベテラン職員たちも、皆一様に時計に視線を向けていた。
「何かご質問はありませんか?」
静寂。誰も手を上げない。誰も声を出さない。まるで霊安室のような空気が流れている。
「それでは、最後にまとめとして——」
「先生」前列の一人の職員が、ついに堪えきれずに口を開いた。「もう質問はやめてください」
その言葉は、まるで四十年前の生徒の声そのものだった。
「毎回毎回、質問されても、私たちは答えたくないんです」女性職員が続けた。「苦痛なんです」
「そうです」後ろに座っているベテラン職員も同調した。「なぜ無理やり答えさせるんですか」
「私たちは興味がないんです。なのに、なぜ質問で理解させようとするんですか」
「もう、やめてください」
私は立ち尽くした。四十年前のあの瞬間が、鮮明によみがえった。
あの日、一人の生徒が立ち上がって言った。
「先生、もうやめてください。私たちに質問しても意味がないんです。誰も答えたくないんです。なぜそれが分からないんですか。先生は、人に何かを教える才能がないんです」
その時の私は、ショックで何も言えなかった。人に物事を伝える能力の決定的な欠如を、嫌というほど思い知らされた。そして、その日の夜、退職届を書いた。「教えることに向いていません。生徒たちを苦痛に陥れるだけです。私は無能な教師です」と。
今、目の前で同じことが起きている。四十年という時間を経て、再び同じ失敗を繰り返している。自分の無能さを、再び嫌というほど味わっている。
「申し訳ありませんでした」私は頭を下げた。「質問をやめます」
職員たちは、ほっとした表情を見せた。しかし、それは私にとって屈辱でしかなかった。四十年経っても、私は人に何も伝えることができない無能な人間のままだった。し、それは私にとって屈辱でしかなかった。
第七章 終了のベル
「それでは、時間になりましたので、これで終了とさせていただきます」
職員たちは無言で席を立った。資料を机に置いたまま、誰一人持ち帰ろうとしない。誰も私と目を合わせない。まるで葬儀が終わった参列者のように、静かに、そして足早に会議室を後にした。
「お疲れ様でした」
私の挨拶に、数人が小さく頭を下げただけだった。声を出す者は誰もいなかった。
一人残された会議室で、私は机の上の資料を片付けながら、深くため息をついた。
四十年前と同じ、空白の教室。変わったのは、自分が年を取ったことと、教える内容が少し変わっただけだった。そして、あの時味わった絶望感が、再び私を包み込んでいた。
四十年前の退職願を書いた夜のことを思い出す。「二度と教壇には立ちません」と誓ったあの夜のことを。
なのに、なぜ今ここにいるのだろう。なぜ同じ苦痛を、再び味わっているのだろう。
第八章 同僚との会話
「お疲れさま。大変だったろ?」
共同事業体の仲間である佐藤が声をかけてきた。
「正直、苦痛だったよ」私は正直に答えた。「昔も今も、自分には向いてない」
「まあ、プロポーザルで決まってるからさ、やるしかないんだよ」
「でも、誰のためにもなってないよ。二時間、ただ時間を埋めただけだった」
「現場も上もみんな分かってるさ。形だけってことも、意味なんてないってことも」
「それなら、やる意味なんて——」
「でも、やらないわけにはいかない」佐藤は肩をすくめた。「世の中、そういうことばっかりだろ?書類上は『職員研修実施』って書けるからな」
「アリバイ作りか」
「そういうこと。まあ、飲みにでも行くか?愚痴でも聞くよ」
「ありがとう。でも今日はちょっと——」
「分かった。また今度な」
エピローグ 夏の夕暮れ
夜、帰り道の電車の窓に映る自分の顔を見ながら、私は静かに思った。
四十年前、あの自動車教習所を退職した日の夜、私は心に誓った。「二度と教える仕事はしない。人を苦痛に陥れるだけだから」と。
しかし今日、私は再び同じ過ちを犯した。質問で理解を促そうとして、結果的に相手を苦痛に陥れただけだった。四十年という時間は、私に何も学ばせてくれなかった。
教えること、伝えることに意味はあるのだろうか。四十年前も今も、私はただ相手を困らせ、嫌がらせているだけなのかもしれない。
それでも、やらなければならない。大人とは、そういうものなのだろう。自分に向いていないことでも、求められれば引き受けてしまう。そして、また同じ失敗を繰り返す。
駅に降り立つと、どこかで蝉が鳴いていた。四十年前と同じ、蒸し暑い夏の夕方だった。
あの時の退職の決意が、再び心の奥でうずいている。もう二度と、誰かに何かを教えようとは思わない。そう思いながらも、きっとまた同じことを繰り返すのだろう。
これが現実なのだと、四十年という時間をかけて、何度も何度も思い知らされ続けている。