バス停で途切れた物語
木曜日の午後。ほんの短い間だけ、彼女は外界から隔絶された自分になれる時間を持っていた。
家事と仕事の喧騒が遠のき、夕食の支度までの静かな空白。誰にも告げず、彼女は自宅近くのバス停へ向かう。いつもの210円の路線バス。それは、家族の視線から解放される、ささやかな逃避行であり、彼女だけの秘密の儀式だった。
バスの車内は、夕暮れ前の柔らかな光に満ちていた。西日が窓から差し込み、床や座席の端をじんわりと照らしている。
いつものように、運転席のすぐ後ろの左側——彼女にとっての"特等席"は、今日も先客がいた。若いサラリーマンらしき男性が、無表情にスマートフォンを操作している。
「仕方ないわね」
彼女は小さく息をつき、右側の二人掛けシートに腰を下ろした。窓に額を預け、流れ始める景色に意識を委ねる。その瞬間、現実の輪郭がぼやけ、内なる空想の世界がじんわりと色づき始める。
(郵便局の赤い屋根の上には、巨大な羽虫が静かに翅を休めている。それは、誰にも気づかれずに長い年月を生きてきた古代の生物で、もし言葉を持てば、私たち人間に何を語りかけるだろうか……)
彼女の心の中で、そんな奇妙な想像が羽根を広げる。
バスがゆっくりと左折する。煌々と光る電気店の看板が、一瞬、彼女の視界を奪い、新たな空想の扉を開く。
(ショーウィンドウに飾られた最新型の冷蔵庫。その扉を開けると、未来の家族の幸せな記憶が、冷気とともに流れ出してくるのだ……)
彼女は誰かの母であり、誰かの妻である。けれど、この束の間のバスの中では、その肩書きは消え去り、ただの「彼女」になる。そして同時に、心の翼を広げれば、どんな存在にもなり得た。
——「あの」
突然、肩に軽い衝撃が走り、彼女は意識を現実に引き戻された。
隣には、見慣れない男の子が立っている。紺色の制服は、近くの小学校のものだろうか。
「ここ、座っていい?」
彼女は言葉を発する代わりに、静かに頷いた。そして、窓の方へ少し体を寄せた。
男の子は礼儀正しく「ありがとう」と言い、彼女の隣に腰を下ろした。小さく足をぶらぶらさせながら、窓の外を見ている。
再び、彼女の意識は車窓へと向かう。バスは川沿いの道を走り始めた。夕陽が水面に反射し、きらきらと宝石のように輝いている。その光景は、彼女の心に眠る空想の種火をそっと灯した。
(この川の深く静かな底には、今も人知れず眠る古代の神殿がある。千年前に捧げられた祈りの言葉が、ひっそりと石の隙間に息づいているのだ……)
バス停に停まるたび、見慣れない人々が乗り降りし、風景は少しずつ変化していく。けれど、彼女にとって「人々」は、流れゆく景色の中に現れる一瞬の彩りのようなものだった。話しかけてくる子どもも、好奇の視線を向ける大人も、彼女の物語の中では背景の一部となる。
(景色が流れているのではない。私が、無数の物語が息づく世界の中を、静かに漂っているのだ……)
——「ちょっと、ちゃんと座ってよ!」
突然、隣の男の子が顔をしかめて彼女を睨みつけた。
その声には、小さな棘があった。
「え……?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。彼女の体は、窓に寄りかかっていたため、少し斜めになっていたかもしれない。無意識のうちに足を組んでいたことも考えられる。子どもにとって、彼女との距離が近すぎたのかもしれない。しかし、その声は、彼女の意識の表面をかすめ、遠くの音のように感じられた。
ちょうどその時、彼女の視界の端に、古びた佇まいの文房具店が飛び込んできた。色褪せた木製の看板と、夕焼けの色を映して赤く染まったショーウィンドウ。
(あそこが……物語の裏側へ続く、秘密の通路の入り口なのかもしれない……)
彼女は、心の中でそう呟いた。
男の子はしばらく黙っていたが、次のバス停で立ち上がり、降りていった。
彼女は、そのことにさえ気づかなかった。彼女の意識は、すでに目の前に広がる別の世界へと深く入り込んでいた。高くそびえ立つ塔、風に揺れると囁き声を発する木々。
「……今日は、風が冷たいわね」
ふと、誰に言うともなく、彼女の口から言葉が漏れた。
何気なく隣に目をやると、さっきまでそこにいた男の子の姿はなく、見知らぬ年配の男性が座っていた。手には、スーパーマーケットのビニール袋を提げている。彼女は、小さく会釈をした。
(さっきの子は……私の物語の、ほんの一場面に現れた旅人だったのね)
誰が隣に座ろうと、降りていこうと、それもまた、彼女の心の物語を彩る一要素に過ぎなかった。そう、彼女はぼんやりと思った。
数日後の夕暮れ、玄関のチャイムが鳴った。彼女は、リビングで畳み終わった洗濯物を整理していた。
インターホンから聞こえてきたのは、落ち着いた低い声だった。警察官だと名乗った。
「〇〇さんですね。先日、〇〇路線のバス内で発生いたしました、"不適切な身体接触"について、いくつかお伺いしたいことがございまして——」
「……え?」
彼女の頭の中で、数日前の夕方のバスの光景が、スローモーションのように再生された。
隣にいたのは……あの小さな男の子?注意された?声をかけられた?あれは……もしかして、私の空想の中の出来事ではなかった……?
警察署の待合室。冷たい灰色の壁、蛍光灯の無機質な光。
「被害者の証言によりますと、あなたは座席で体を傾け、小学生のお子様に密着した状態だった、と」「また、注意を促したにも関わらず、それを無視された、とのことです」と、冷静な声で警官は告げた。
「私は……ただ、窓の外を見ていただけです」
「それだけですか?」
「……はい」
言葉が、まるで空気のように相手に届かない。ここでは、彼女にとってかけがえのない心の居場所だった空想が、単なる「言い訳」として扱われてしまう。
「被害者のお子様の証言は、具体的かつ明確です。女性が体を押し付けてきて、気持ち悪かった、と」
明確な言葉の重みに、彼女は言い返す言葉を失った。まるで、見えない力に押しつぶされるような感覚だった。
数日後、地域のテレビニュースが、ぼやけた映像と共にその出来事を報じた。「路線バスでの迷惑行為」「女性が児童に不適切な接触か……」。
彼女の名前は伏せられていたが、近隣の住民には、それが誰のことかすぐに分かった。
「あの時、私は空想の中にいた」などと、誰に説明できようか。「子どもが嫌がっていた」という事実だけが、重い鉛のように人々の心に沈殿していく。「見ていただけ」という彼女の言葉は、誰にも信じてもらえない、ありえない言い訳として切り捨てられた。
数日後、学校からは、PTAからの強い要望を受け、謝罪と退任の要請が届いた。町内会でも、好奇と非難の入り混じった視線を感じ、人前に出るのが辛くなった。
そして彼女は、あの210円の短い放浪の場所、路線バスに、二度と乗ることができなくなった。
木曜日の夕方、彼女は自宅の窓辺に一人座っている。
もう、あのバスに乗る勇気は残っていない。
かつての彼女にとって、窓の外には無限の物語が広がっていた。
けれど今は、ただの曇りガラス。その向こうで、夕陽が所在なさげに歪んでいる。
その光景に、かつてのような色彩も、意味も、もう感じられない。
——私は、一体、何をしてしまったのだろう。
問いかけても、部屋の静寂が応えるだけだった。
そして、彼女自身も、もう、自分が何をしたのか、本当に分からなくなっていた。