8:ミカエルの選択
夜の静寂がカフェ「Café Fallen」を包んでいた。
ルシファーはカウンターの奥で紅茶を淹れながら、昨夜の出来事を思い返していた。
――また来る。
ミカエルはそう言って光とともに消えた。
彼女の目には、いつもとは違う迷いがあった。
天界の使者である彼女が、揺らいでいる。
それが何を意味するのか、ルシファーはまだ考えあぐねていた。まぁ、相手は天使、時間の感覚がおかしい奴らだ、次は100年後かもしれない。
カラン――
扉のベルが鳴る。
ルシファーは顔を上げた。
「……早かったな」
そこに立っていたのは、昨日と同じく純白のドレスを纏ったミカエルだった。
「おはようございます、ルシファー」
「人間の挨拶を覚えたのか?間違ってるけどな」
「ええ!?」
ミカエルは静かに焦っていた。
「どこがですか?」
ルシファーは小さく鼻を鳴らし、カウンターの上に新たなティーカップを置く。
「さて、今日の目的は何だ? また俺を天界に連れ戻しに来たのか?」
「それもあります」
ミカエルはカウンターの前に座り、ルシファーをまっすぐに見つめる。
「でも、普通に説得してもあなたは応じないでしょう?」
「ようやく理解したか」
ルシファーは皮肉げに笑う。
しかし、ミカエルは動じず、続けた。
「だから、私はあなたが今の世界に執着する理由を知ることにしました」
「……ほう?」
「そのために、私はしばらくここであなたの仕事を手伝います」
「……は?」
ルシファーは思わず聞き返す。
「手伝うだと?」
「ええ」
ミカエルはきっぱりと頷く。
「あなたがなぜ、このカフェで人間と関わるのか。その理由を知るために、私もこの店の一員として働きます。」
「お前が?」
ルシファーは半ば呆れたように彼女を見た。
「天界の高潔なる天使が、こんな裏路地のカフェで給仕をするというのか?」
「そうです」
ミカエルは真剣な眼差しで答える。
ルシファーはしばし彼女を見つめ、そして深いため息をついた。
「……お断りだ……」
「……ありがとうございます」
ミカエルは軽く会釈し、椅子から立ち上がった。
――こうして、天使ミカエルのカフェでの仕事が始まった。
しかし、初日から問題が発生した。
「いらっしゃいませ」
ミカエルは静かに微笑み、客を迎えた。
しかし、その微笑みがあまりに神々しく、客が戸惑う。
「……え、あ、あの……?」
「ご注文をどうぞ」
「えっと、ブレンドコーヒーを……」
「かしこまりました」
ミカエルはすっとメニューを閉じ、優雅にカウンターへ戻る。
しかし、ルイスはそれを見て小さく笑った。
「貴女の接客は、威圧感がありますね」
「そうでしょうか?」
「お客様が緊張していましたよ」
「……?」
ミカエルは首をかしげた。
「私はただ、丁寧に対応しただけです」
「そうですか」
ルイスはカップを手に取りながら説明する。
「貴女は“天使らしさ”を隠しているつもりでも、まだ人間にとっては異質なんですよ」
「……私は、あなたと同じように接しているつもりですが」
「“つもり”じゃ駄目です。人間というのは、貴女が思っている以上に繊細な生き物なんですよ」
ミカエルはしばし考え込み、静かに頷いた。
「なるほど……学びが必要ですね」
それから数日間、ミカエルはカフェで働き続けた。
彼女は人間との会話を学び、次第に自然な接客ができるようになった。
だが、それ以上に彼女が驚いたのは――ルシファーの人間への態度だった。
ある日、常連の客が涙を浮かべながらカフェを訪れた。
「……失礼します」
その女性は、目を腫らしながらカウンターに座った。
ミカエルはすぐに察し、静かに水を差し出した。
「大丈夫ですか?」
「……ありがとうございます」
女性は水を一口飲み、深く息を吐いた。
「彼氏に……振られてしまって」
「……そうですか」
ミカエルはかすかに眉を寄せた。
そんな時だった。
「何か甘いものでも食べます?」
ルシファーが、何気なくそう言った。
女性は顔を上げる。
「……え?」
「甘いものは、落ち込んだ時に効きますよ」
ルイスは笑顔で言いながら、カウンターの奥で手を動かした。
そして、数分後――
「はい、特製のチョコレートケーキですよ」
女性の前に、香り高いケーキが置かれた。
「……ありがとうございます」
女性は少しだけ微笑み、スプーンを手に取った。
ミカエルは、その光景をじっと見ていた。
――なぜ?
堕天した悪魔であるはずのルシファーが、人間に寄り添っている。
それは、彼が天使だった頃には見せなかった姿だった。
「……あなたは、昔よりも優しくなっていませんか?」
ミカエルは、ぽつりと呟いた。
ルイスは一瞬だけ手を止める。
しかし、すぐに肩をすくめ睨んできた。
「はっ!」
「えぇぇ」
ミカエルはまっすぐにルシファーを見つめ
「私は、あなたを天界に戻すためにここに来ました」
「知ってる」
「でも……」
ミカエルは言葉を選びながら続けた。
「……あなたは、本当に戻るべきなのか?」
その問いに、ルシファーは少しだけ目を細める。
そして、悲しげに笑った。
「さぁな」