4: 闇の誘惑
ルシファーの鋭い瞳が、真司を射抜くように見つめていた。
「……っ!」
真司は背筋が凍りつくのを感じた。先ほどまでの穏やかなカフェの雰囲気はどこへやら、一気に冷たい緊張感が満ちる。
ルイス・ファーレンだったはずの男は、今や全く別人のように見えた。
整った顔立ちはそのままだが、目の奥に潜む光が違う。冷酷で、人を試すような視線。唇に浮かぶ微笑みも、まるで獲物を弄ぶ捕食者のようだった。
「そんなことも決められないのか?」
ルシファーの低い声が、カウンター越しに真司の鼓膜を叩く。
「お前は今、何を悩んでいる? ライバルを蹴落とすことが『正しい』かどうか? それとも、そんな手を使わずに売れるかどうか?」
真司は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
ルシファーは指でコツコツとカウンターを叩く。
「お前がいくら努力したところで、才能のある奴には勝てない。それはわかっているだろう?」
「……!」
図星だった。
真司は、これまで必死に努力してきた。何度も賞に応募し、何度も落選した。同期の藤崎は簡単に評価され、出版社からも期待されている。そんな現実を見せつけられるたびに、心がすり減っていった。
「でも、藤崎の才能は……本当のものじゃない……!」
やっとのことで、彼は声を振り絞った。
「彼はゴーストライターを使ってる……!」
「それがどうした?」
ルシファーは肩をすくめる。
「お前の言う『本物の才能』とは何だ? 世の中の人間が評価するものが、本当にお前が信じる『正しさ』なのか?」
真司は言葉に詰まった。
ルシファーは微笑みながら続ける。
「告発しろよ。証拠をつかめば、藤崎は消える。そして、お前の番だ。ライバルがいなくなれば、評価されるのはお前だ」
その言葉に、真司の心は大きく揺れた。
藤崎を告発すれば、彼のキャリアは終わる。自分がその席を奪えるかもしれない。
「でも……そんなやり方でのし上がったとして……本当に、それでいいのか……?」
「はっ、バカバカしい」
ルシファーは冷笑する。
「お前は『きれいな道』で成功できるとでも思っているのか? 世の中の成功者は、みんな何かを犠牲にしている。お前は何を差し出す?」
「……っ」
ルシファーの言葉は、真司の心の奥底にある迷いを暴き出す。
――自分は、本当に才能がないのか?
――このまま、正攻法だけを貫いて埋もれていくのか?
――それとも……憎たらしい藤崎を蹴落とし、自分が成功を掴むか?
思考が堂々巡りする。
ルシファーは、カウンターの奥から羊皮紙を取り出した。
「お前に、チャンスをやろう」
真司はその羊皮紙を見つめる。
「これは……?」
「契約書だ」
ルシファーの瞳が妖しく光る。
「この契約書にサインをすれば、お前の文章は誰よりも魅力的になる。圧倒的な筆力で、誰もが感動し、称賛するだろう」
「……!」
「ただし――」
ルシファーは笑みを深める。
「その文章を書くたびに、お前は『何か』を失うことになる」
真司の手が震える。
「何か……って?」
「それはお前次第だ」
ルシファーは楽しそうに笑う。
「才能を手にするのに、代償がないと思うなよ?」
カフェの静寂の中、真司は契約書を前に葛藤する。
「俺は……」
真司の指が、ルシファーの差し出したペンを震えながら掴んだ。
その瞬間、ペンの軸が冷たく滑らかに手に馴染んだかと思うと、じわりと熱を帯びていく。不思議な感覚だった。だが、それ以上に真司の胸に満ちたのは、奇妙な高揚感だった。
「それが、君の選択か……」
ルシファーは悲しげに微笑んだ。
「これでお前は誰よりも優れた文章を書ける。さあ、存分に使うがいい」
真司は深く息を吸い込むと、拳を握りしめ、カフェを後にした。
数日後……
真司は出版社の編集長に、藤崎の不正を暴く証拠を突きつけた。ゴーストライターとのメールのやり取り、契約書のコピー――決定的な証拠は揃っていた。
編集長の表情が険しくなる。
「これは本当なのか?」
「ええ。間違いありません」
藤崎は当然、必死に否定した。だが、証拠は揺るがなかった。結果、出版社は藤崎との契約を解除。大々的なスキャンダルとなり、彼の作家人生は一瞬で終わった。
それと同時に、真司の元には新たなチャンスが訪れた。
出版社は、新人枠として真司を売り出すことを決めたのだ。
最初の原稿執筆。
真司は震える手で、ルシファーにもらった、才能を使い書き始めた。
――言葉が溢れ出した。
今までの自分とは比べ物にならないほど、文章が洗練されている。生き生きとした情景、息をのむような心理描写、読者の心を揺さぶる展開――まるで、天才作家になったような気分だった。
書き上げた原稿は、編集部でも絶賛された。
「これはすごい……! まさに傑作だ!」
デビュー作は大々的にプロモーションされ、発売初週でベストセラー入り。真司の名前は一夜にして世間に知れ渡ることとなった。
彼の夢は、ついに叶ったのだ。
しかし、その栄光の裏で、彼は異変を感じ始めていた。
最初の小説を書き上げた直後から、真司の記憶が曖昧になっていったのだ。
ある日、編集者と話していたとき、ふと気がついた。
「……あれ? 俺、昨日何してたっけ?」
昨日の出来事が思い出せない。家に帰ったはずなのに、どんな夜を過ごしたのか記憶が抜け落ちている。
「まぁ、疲れてるのかもな……」
最初はそう思った。だが、次の作品を書き上げるたびに、忘れることが増えていった。
やがて、日常生活にまで影響を及ぼすようになる。
家の鍵をどこに置いたか忘れる。編集者との約束を覚えていない。好きだった音楽や映画の内容も曖昧になっていく。
そして、ある日
鏡の前に立った彼は、恐怖に震えた。
――自分の名前が、思い出せない。
「俺は……誰だ?」
何を好きだったのか。何を目指していたのか。どんな人生を歩んできたのか。
その記憶が、次々と失われていく。
執筆のたびに、何かを失う。
そう――ルシファーは言っていた。
「その文章を書くたびに、お前は『何か』を失うことになる」
真司は震えながら自分の顔を見つめた。
「契約のせい……?」
だが、もう遅かった。
彼の作品は次々とヒットし、出版社はさらに多くの原稿を求めた。書かずにはいられない。書けば書くほど、称賛を浴びる。
だが――書けば書くほど、自分が消えていく。
そして、決定的な瞬間が訪れた。
ある日、編集部から帰る途中の夜道で、真司は気づくと、カフェによっていた。
「俺は……なぜ、小説を書いているんだ?」
――答えが、出てこなかった。
なぜ、作家を目指したのか。なぜ、成功を求めたのか。
何も思い出せない。
そのとき、背後から低い笑い声が響いた。
「気づいたか?」
振り向くと、そこにはルシファーが立っていた。
「お前は、何を失った?」
真司の脳裏に、恐ろしい疑念が浮かぶ。
――まさか、俺は……俺自身を……?
「お前はもう、作家でもなければ、人間でもない」
ルシファーが手を差し出すと、真司の体がふわりと宙に浮いた。
「お前は成功を望んだ。そして、俺と契約した。その代償として――お前の魂をいただこう」
「わからない……」
真司は抗おうとしなかった。彼にはもう、抵抗する力は残っていなかった。
ルシファーの指が軽く動くと、真司の体は淡い光を放ち始めた。そして――
コロン
小さな水晶が、彼のいた場所に転がった。
ルシファーはそれを拾い上げると、悲しげに微笑んだ。
「哀れなものだな」
水晶の中には、真司の魂が閉じ込められていた。
かつて、成功を渇望した作家の成れの果て。
ルシファーは水晶を、ポケットにしまった。
「さて――次の客を迎えようか」
彼は踵を返し、静かにカウンターへと戻っていった。
『Café Fallen』の扉が、そっと音を立てて閉じる。
まるで、新たな客を待ち構えているかのように――