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3/11

3:曇った目をした青年

 夜の帳が降りる頃、カフェ「Café Fallen」の扉が静かに開いた。


 カラン――


 鈴の音とともに、一人の青年が足を踏み入れる。


 黒髪を無造作に伸ばし、眼鏡の奥の目には深い疲れの色が滲んでいる。肩はやや猫背で、歩く姿にはどこか自信のなさが漂っていた。


 「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥にいたルイス・ファーレンが、柔らかな笑みを浮かべる。彼の声音は穏やかで、まるで静かな湖面に落ちる小石のように、来客の心を静める力がある。


 青年は小さく頷くと、カウンター席に腰を下ろした。


 「何か温かいものを……」


 掠れた声。


 ルイスは優雅にティーカップを取り出し、数種類の茶葉を手に取る。


 「アールグレイに、少しオレンジピールを加えたものなどいかがでしょう? 気持ちが軽くなる香りです」


 「……お願いします」


 青年はぼんやりとカウンターの上を見つめながら、深いため息をついた。


 ルイスは紅茶を淹れながら、静かに尋ねる。


 「お仕事でお疲れですか?」


 「……ええ、まあ」


 曖昧な返事。


 しかし、ルイスにはわかっていた。この青年の疲れの根源は、単なる仕事のストレスではない。心の奥底に何かが燻っている――それが、このカフェに足を踏み入れさせたのだ。


 彼はカップに注いだ紅茶を青年の前に置いた。


「どうぞ、ごゆっくり」


 ルイスは静かに微笑んだ。


 青年――真司は、まだ迷いながらもカップを持ち上げ、一口飲んだ。そして、かすかに驚いたような表情を浮かべる。


 「……香りがいいですね」


 「それはよかった」


 ルイスは相変わらず穏やかだったが、その瞳の奥では、真司の抱える悩みを見抜こうとしていた。




 紅茶を数口飲んだ後、真司はぽつりと呟いた。


 「僕は……小説家を目指しているんです」


 ルイスは静かに相槌を打つ。


 「それは素晴らしいですね」


 「……でも、なかなか芽が出ない」


 真司は唇を噛みしめ、悔しそうにカップを握りしめた。


 「僕は、ずっと書き続けてきました。でも、同期の藤崎という作家ばかりが評価されて、僕はずっとくすぶったままです」


 彼は忌々しげに眉をひそめた。


 「藤崎は……僕より才能がある。文章もうまいし、話の構成力もずば抜けている。編集者からも期待されている。でも……」


 真司の指が、カウンターの上でかすかに震えている。


 「彼には秘密があるんです」


 ルイスは、静かに首を傾げた。


 「秘密……?」


 真司は周囲を気にするように少し身を乗り出した。


 「彼は……ゴーストライターを使っています」


 その言葉を聞いて、ルイスの目がわずかに細まる。


 「ほう……」


 「最初は信じられませんでした。でも、ある日、彼がある人物と密かに会っているところを見たんです。その相手は、僕も知っている売れない作家でした。後で、その作家が酔った勢いで『俺が藤崎の影武者だ』と漏らしているのを聞いたんです」


 真司は深く息を吐いた。


 「許せないんです。僕は必死に書いているのに、彼はずるをして成功している。でも、証拠がない……。いや、もし証拠を掴めたとして、それを公にするべきなのか……」


 彼は自分の指を強く握りしめた。


 「このことを暴露すれば、藤崎は業界から追放されるでしょう。でも、それをやったら、僕は卑怯者でしょうか?」


 ルイスは、ゆっくりとカップを持ち上げ、口元に運ぶ。


 「それは難しい問いですね」


 穏やかな声音。しかし、その言葉の裏には、何かを試すような響きがあった。




 ルイスは、静かに穏やかに言葉を紡ぐ。


 「あなたは努力を惜しまず、自分の力で成功したいと願っている。その気持ちは素晴らしいことです」


 彼はにこりと微笑んだ。


 「しかし、他人の失敗によって自分がのし上がることに、罪悪感を覚えるのであれば――それは、あなたがまだ誇りを持っている証拠ではないでしょうか?」


 真司はルイスの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。


 「誇り……」


 「ええ。あなたの物語は、あなた自身の言葉で綴られるべきです。他人を陥れることで成功したとして、それで本当に満足できますか?」


 ルイスの言葉に、真司は沈黙したまま、紅茶の表面を見つめる。


 彼の中には、まだ迷いがあった。


 藤崎を告発すれば、業界に衝撃が走り、彼の立場は失われるだろう。そうなれば、自分がその座に取って代わることができるかもしれない。


 だが、それは「正しいこと」なのだろうか?


 彼は思い悩む。


 ルイスは静かに微笑んでいた。


 ――そして、その時だった。


 ルイスの表情が、一瞬にして変わる。


 優雅だった目元が鋭くなり、声色が冷え込む。


 「……そんなことも決められないのか?」


 真司の体が、びくりと震えた。


 ルイスの瞳には、底なしの闇が広がっている。


 「お前は凡人のまま埋もれるか? それとも――」


 彼の声が、甘く、そして残酷に響く。


 「ライバルを蹴落として、上へ行くか?」


 その瞬間、店の空気が一変した。


 ルイスではない。そこにいたのは、悪魔ルシファーだった。


(後半へ続く)

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