2:堕天使の囁き
「……復讐、ですか?」
ルイスはゆっくりと問い返した。
カフェの静寂を破るように、女性の指がカップの縁をなぞる。その指先は微かに震えていた。
「ええ……」
彼女の声には、怒りと悲しみが混ざっていた。
「私は、愛した男に裏切られた。彼は私を騙して、別の女と結婚したのよ。私がすべてを捧げたのに……!」
握りしめた拳が震え、カップが微かに揺れる。紅茶の表面が波紋を描いた。
「彼を地獄に落としたい。私と同じ……いいえ、それ以上の苦しみを味わわせたいの」
ルイスは彼女をじっと見つめた。その眼差しは、まるで人間の心の奥底を覗き込むようだった。そして、彼はゆっくりと微笑んだ。
「……面白い」
その瞬間、空気が変わった。
暖かだった店内の雰囲気が、一瞬にして冷たく張り詰めたものへと変わる。
彼女が顔を上げると、ルイスの瞳はいつもの穏やかなものではなかった。
冷たく鋭く、まるで底なしの闇を湛えた悪魔の目。
「ならば、教えてやろう」
彼はゆっくりと身を乗り出し、低く囁いた。
「君は、どこまで堕ちる覚悟がある?」
その声は甘美で、誘うようでありながら、どこか冷酷だった。
「復讐は簡単だ。彼を破滅させたいなら、方法はいくらでもある。証拠を集め、世間に曝すか。彼の信用を地に落とすか。あるいは……もっと直接的な方法もある」
「直接的……?」
彼女の声が震える。
ルイスは薄く笑った。
「そう、君が彼のすべてを奪えばいい。愛も、名誉も、未来も。もし君が望むなら、俺が手を貸してやろう」
彼の指がカウンターの上をゆっくりと滑る。
「だが、一つだけ忠告しておこう」
「忠告……?」
「復讐の果てに、君はどうなる?」
彼女の瞳が揺れた。
「復讐が終わった後、君には何が残る? 満足か? 喜びか? それとも――虚無か?」
「私は……ただ、あの男を苦しめたいだけ」
「それだけか?」
ルイスの声は優しく、それでいて残酷だった。
「復讐が叶った時、君は本当に救われるのか?」
女性の肩が小さく震える。
「そんなこと……わからない……でも、何もしないでいるなんて……耐えられない……!」
彼女の声は掠れ、涙がこぼれそうになっていた。
ルイスは静かに見つめた後、ふっと微笑んだ。
「本当に愛していたのか?」
「えっ…」
「自分の人生を賭けれるほど、愛していたのか?」
彼はそっとティーポットを傾け、彼女のカップに新しい紅茶を注ぐ。
「焦る必要はない。復讐を選ぶも、選ばぬも、決めるのは君自身だ」
紅茶の甘く深い香りが、ゆっくりと店内に広がる。
「……もし、復讐を決意したなら、俺が力を貸してやろう」
ルイスの声は、どこか甘美な響きを帯びていた。
「人間の道を捨て、復讐に身を捧げる覚悟があるのならな」
彼女は震える手でカップを持ち上げ、一口飲んだ。
「……ありがとう」
彼女の声には、迷いと安堵が混ざっていた。
やがて彼女は席を立ち、ゆっくりと出口へ向かう。
店を出る頃、彼女の表情は少しだけ和らいで、前を向いていた。
ルイスはその背中を見送りながら、静かに呟く。
「貴女はそう選択しましたか……」
彼の瞳の奥には、優しさが揺らめいていた。
閉店後、ルイスはカウンターの奥で一人、グラスを傾けていた。
琥珀色の液体がグラスの中で揺れる。
「……人間とは、つくづく面白い生き物だ」
薄暗い店内に、ルイスの独り言が響く。
「愛と憎しみは、表裏一体。少しのきっかけで、愛は憎しみへと変わる」
彼はグラスを軽く揺らしながら、微笑んだ。
「復讐を望む者、復讐をしない者――どちらに転ぶかは、その人間の想いの重さ次第だ」
そして、彼はふっと小さく笑った。
「さて、次の客は、どんな話を持ってくるのか」
彼の瞳の奥には、悪魔の影が揺れていた。
カフェ・ファーレンは、また新たな悩める者を迎え入れる。