出航準備
セーヴァスの海は穏やかだった。遠くに、不穏な気配を漂わせる孤島が見えるが、それ以外には何もない静かな海だ。
「本当は、どこに向かうつもりなんだ?」
レイラに声をかけたのは、網元のコロサールだった。彼の船に乗るため、桟橋へ向かって歩きながら、問いただしてきた。
「そうね、怖いの?」
レイラは静かに視線を向けると、少しだけ笑った。
「そんなわけあるか! と言いたいところだが、海はいつだって怖いさ。自然も魔物も……」
網元は首をすくめる。
「へえ、意外と素直なのね。でも、その方が信頼できるわ」レイラは微笑んだ。
検問所では、彼がいることで特に制止されることもなく通り抜け、市場へと出た。その先には、灯台のついた漁船用の桟橋が見える。多くの漁船が停泊している。
「港の奥には何があるの?」
「商船と倉庫、そのさらに奥には、軍船と造船所だ」
「見てみたいんだけど?」
さっきまでとは違い、港の奥側には厳重な警備所があり、門が固く閉じられている。軍船が並び、兵士たちが鋭い視線をこちらに向けていた。
「いや、ネグロクサの連中か、軍人でもなけりゃ……俺とは仲が悪いし」
コロサールは申し訳なさそうに言葉を濁す。
「じゃあ、大丈夫ね」
そう言うや否や、レイラは門へ向かって歩き出した。
「おいおい! 下手に近づくと──」
彼が慌てて止めようとした、その瞬間。
重い門が、まるで呪文でも唱えたかのように、音もなく開いた。
門の向こうでは、ネグロクサ商会の従業員たちが整然と並び、待ち構えていた。まるで、主の帰還を迎えるかのように。先頭には、ドラムの甥、スネアが立っていた。
「あら、歓迎されてるみたいね。まるで尾行されてたみたいだけど、リドリー?」
「ああ、ずっと監視されてたな。気分悪いな」 俺は冗談めかして言った。
「違います、叔父さんの命令で……」スネアは冷や汗を浮かべながら弁解する。
「冗談よ。皆様、少しお邪魔しますね、仕事に戻ってください」
レイラは軽やかに挨拶をして、軍船と海兵隊の動きを観察していた。
並ぶ軍船の上では、武装した海兵たちが規則正しく動いている。視線がこちらを一瞥するが、まるで何も見なかったかのように流している。
ネグロクサ商会とマリスフィア軍部の関係が深いのが、隣接した敷地を構えているだけでなく、こういう場面でもよく分かる。
「出航は出来そうね」彼女は小さく呟いた。レイラは、彼女の目的を果たしたようだ。
「レイラ様、よろしければ、ネグロクサの商船にお乗りいただけませんか?」
スネアは声をかけるが、彼女は手を振って断った。スネアは、がくりと頭を垂れた。
「お嬢ちゃんには、この島で一番頼れる船を用意してるぜ。安心しな、小僧!」
コロサールが、勝ち誇ったように笑った。スネアは睨みつけたが、網元は意に介さない。
「海は怖いがな、その怖さを知り尽くしているからこそ、俺の船が一番安全なんだ」
その言葉には、海の男としての矜持がにじんでいた。
「スネア、商船の護衛艦で後ろをついて来なさい。海軍にも、うまく交渉して軍艦を必ず出させなさい。そして、一列になってついて来るように!」
レイラは、彼女の家紋のついた財布を、スネアに投げた。
「は、はい!」
スネアは、指示を与えられて、急に背筋を伸ばした。コロサールは、その会話を聞いて何故か安心した顔をしていた。
『どうも今回は、あまり役に立てないかもな』
俺は、コロサールの船が出港の準備を終えるのを見ながら、心の中でぼやいた。
この航海の先にある危険を、本当の意味で理解しているのは、彼女なのだろう。
ティアが空を旋回し、何かを察知したように俺に目を向けた。その目は、すでに敵の接近を告げるものだった。
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