終夜の果てに
「ワオーン――」
「ワオーン、ワオーン!」
狼の遠吠えが、侯都シュベルトの夜空を裂いた。
人々が眠りについた後も、一軒だけ明かりを絶やさない酒場がある。
そこでは、大商人ゴールドハルトと、彼が雇った冒険者集団の東方旅団が遅い酒盛りをしていた。
「やはり、現れたか。――行くぞ」
ゴールドハルトが立ち上がり、鋭い眼光で仲間を見渡す。
「人使いが荒いですね、旦那。さっき戻ってきたばかりですよ」
「お前たちが仕留め損ねたからだろう?」
返す声には、しかし笑みがあった。戦いを生業とする者への信頼の笑みだ。
冒険者たちは無駄のない動きで装備を整える。
鎧が軽く鳴り、革靴が床を叩く音だけが響いた。
それはまるで、身体に刻み込まれた儀式のようだった。
「では、ご案内します」
農政局の青年が立ち上がる。
彼が向かう先には、――あの石碑のある遺跡が待っている。
※
「追い詰められた首領は、石碑を再び動かそうとしている。だがあれは地下の力で浮かび上がってきているだけだ。……奴は、自分の力だと勘違いしているのさ」
ゴールドハルトが呟いた声は、夜気に溶けるように低かった。
一瞬の交錯、その刹那にして雌雄は決した。
大岩のような石碑。その前には、焼け焦げ斬り捨てられたダークウェルの首領とアオイ伯爵の死体が横たわった。
ゴールドハルトの仕掛けた罠、そして東方旅団、農政局の青年、黒犬たちの奮戦――すべてが、今この瞬間に実を結んでいた。
「……終わったな」
「アオイ伯爵は、いつ乗っ取られていたのでしょうか?」
旅団の団長が尋ねると、ゴールドハルトは顎に手を当てた。
「あの黒いスライムは、生気のある者には取り憑けん。おそらく伯爵が大怪我を負ったときだな。あの時点で、もう人ではなかったのだ」
「……ウラク殿も?」
「ああ。襲われた傷があった。エンジが墓を掘り返して検死したらしい」
短い沈黙が落ちた。
「……そうですか。冥福を祈ります」
※
夜が明けきる前、レオナール邸のリビング。
サクナとカシスが、ランプの灯りの下でこそこそと話し合っていた。
テーブルには、新しい家の設計図が広げられている。
「カシス、声が大きい。彼が起きてしまうわ」
「す、すいません! でも、タリアンは一度寝たら朝まで起きませんから!」
「ふうん……そうなの」
サクナが目線を向けると、カシスは途端に耳まで赤くなった。
その様子に、サクナは小さく息を漏らす。
戦いの夜が明けようとしているのに、こうして日常があることが、少しだけ信じられなかった。
「ところで、家の場所が決まらないと、設計を進められません。外観や水回りも……」
「あら、ごめんなさい。言ってなかったわね。――もう、場所は確保してあるのよ」
「えっ、そうなんですか?」
窓の外から“コン、コン”と音がする。
白鷺が窓を突いていた。サクナはそっと立ち上がり、窓を開ける。
冷たい風とともに、白い羽が舞い込んだ。
「……終わったのね」
黒いスライム――それは、闇の魔術師ダーウェルが生み出した、人を乗っ取り操る術。
かつて連合王国を、いや大陸全土を震撼させたその魔術は、今なお帝国の残党によって研究されていた。
スライムに取り憑かれたことに本人が気づかない。そして、誰が乗っ取られているか見分けることはできない。
――だからこそ、この真実は、広めてはならない。
「どうしたんですか、サクナさん?」
カシスが覗き込む。サクナは小さく首を振った。
「……敵が欲をかいてくれて助かったわ。焦って動いてくれたおかげで、こちらが先に終わらせられた」
窓の外、東の空が白み始める。
夜と闇の残滓が、ゆっくりと溶けていく。
サクナは目を細め、静かに呟いた。
「夜明けね。――ようやく、本当の朝が来るわ」
その言葉を合図に、部屋の中へ朝の光が差し込んだ。
黒い影は、もうどこにもなかった。
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