黒犬の主人
黒犬たちが一目散に駆け出した先は、シュベルト侯爵領を抜けたその向こうだった。
彼らは、オルフィン侯爵軍と帝国軍が睨み合う防衛線さえも、影のようにすり抜ける。
矢も槍も、その黒き疾風を捉えられない。
ただ風だけが、彼らの通り過ぎた跡に残った。
犬たちがたどり着いたのは、一台の大きな馬車の前。
漆黒の塗装に金の装飾がきらめく——大商人ゴールドハルトの馬車だ。
「ワオーン!」
黒犬たちは整列し、重厚な扉の前で一斉に吠える。
「早かったわね」
扉が静かに開き、客車の中から優雅な影が飛び降りた。
黒衣の裾が舞い、風に長い髪が揺れる。手には銀の犬笛。
その人物こそ、黒犬たちの主——サクナ
彼女の姿を見た瞬間、黒犬たちは喜びに満ちた声を上げ、一斉に飛びついた。
「よしよし、よくレオを守ったわね」
サクナが優しく頭を撫でると、犬たちは気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「それじゃあ、この森にいる“スライムのようなもの”を探して。ここにいる東方旅団の方たちと協力して倒してね!」
「ワオーン!」
「もう、ご褒美は後よ。さあ、行きなさい!」
号令とともに、黒犬たちは一斉に駆け出す。
冒険者たちに『ついてこい』と目で合図し、森の奥へと消えていった。
「皆さん、よろしくお願いします。戦い方はご説明した通りです」
「ああ、任せてくれ!」
東方旅団の冒険者たちは、彼女の声に従って慌ててその背を追う。
「今や、サクナ様の言いなりですねぇ……」
客車の奥から、カシスが眠そうに呟いた。
「あなたは呑気すぎよ!」
サクナが振り返る。
「だって、レオナール様のお屋敷を設計してて、三日も馬車で寝てるんですよ、私」
「まったく……倒れないでよね」
サクナが苦笑する。
空では、彼女の使いである黒烏たちが輪を描いて飛んでいた。
森の上空を旋回するその群れは、まるで彼女の意志を空から映すかのようだった。
「それで、俺たちはこれからどうする?」
御者席のゴールドハルトが、片眉を上げて振り向く。
「もちろん——ダーリンに会いに行くわ」
サクナは微笑んだ。
だがその瞳の奥では、静かな炎が揺れていた。
怒りと愛しさが入り混じる炎が。
黒烏が一声鳴いた。
その翼が、嵐の始まりを告げるかのように空を裂いた。
※
——どっかーん!
会議室の扉が爆音とともに、半ばひしゃげて開いた。
蝶番が吹き飛び、爆煙が部屋を満たす。焦げた火薬の匂いが漂う。
「わ、わわっ! 帝国が攻めてきたのか!?」
「な、何が起きた!?」
親衛隊たちが動揺し、剣を構える。
煙の奥から、重い足音が響いた。
姿を現したのは、王都で名を知らぬ者のいない大商人——ゴールドハルト。
その背後には、キタノとトウノの姿。
「扉が壊れて開かなかったからな。……直してやっただけだ」
ゴールドハルトが淡々と告げる。
「き、貴様! 何をしたかわかっているのか! いくら王国の御用商人といえど——」
「許されんぞ!」
親衛隊長が怒声を上げる。
しかし、ゴールドハルトの視線が冷たく鋭く光った。
「許可を得てやっている。……だが、これは何だ?」
その視線の先では、レオナールが血まみれで床に倒れ、
タリアンが全身を殴打され、意識を失っていた。
「何をしているのですか、アオイ伯爵!」
キタノが叫ぶ。
「見てわからんのか? 裏切り者の処分だ! こいつらは王国を危険に晒した反逆者だ! 早くこの男を殺せ!」
アオイ伯爵が怒鳴り返した。
その瞬間——
「アオイ、お前こそが王国の裏切り者だ。……捕えろ!」
威厳ある声が、爆煙を貫いた。
煙の中から歩み出たのは、黒衣に銀の刺繍を纏った女。
冷たい瞳がすべてを射抜く。
——王妹、サクナ・ノクスフォード。
彼女が一歩踏み出すたび、空気が凍った。
「サ、サクナ様……!」
兵士たちの声が震える。
「サクナ様の御前で、剣を振るうのか?」
ゴールドハルトの一言に、場の空気が完全に崩れた。
親衛隊を含めた全ての兵が、剣を投げ捨てる。
ただ一人、アオイを除いて。
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