農政局の若者
独房の前には、数匹の黒犬が伏せていた。煤のように艶めく毛並み、闇を映す瞳は微動だにしない。
「わあ、可愛いですね! どうして囚われてる人がら番犬を飼っているんですかぁ?」
ウラクは無邪気に身をかがめ、その頭を撫でた。黒犬たちは牙を剥くどころか、目を細めて受け入れる。
普段は悠然と構えるオダニが、逆に遠巻きに横を通り過ぎるのが妙に可笑しい。
「……おい、やめとけ。俺だって触る気になれんぞ」
笑い混じりの声の裏で、彼の肩はわずかに硬直していた。
タリアンが椅子を持ってきて促すと、狭い独房は即席の会議室へと変わる。
石壁に言葉が反響し、声の温度を奪っていくようだった。
レオナールは深く息を吸い、報告を始めた。
「――つまり、ウラク様は、怪しい魔物に操られていたと」
エンジは軽口めいた調子で言った。「おっと、そういうことですかね?」
軽い言い回しながらも、視線は真剣。
「はい。そうでなければ、自ら命を絶つなど……」
エンジの声色が変わる。軽やかさは消え、冷静で論理的な断定に。
「納得しました。誤情報だったと結論づけましょう」
その冷徹な響きに、レオナールの胸は少し緩む。
信じてもらえた――仲間だと思える者に。
胸の奥で、かすかな灯がともる。必ず真実を証明しよう。その思いが静かに熱を帯びていく。
沈黙。黒犬たちの爪が床石をこすり、かすかな音を立てた。まるで「見届けている」とでも言うように。
「ところで」レオナールは口を開いた。「スタンピードの件……過去最大級だったと聞きました。お二人のご活躍も?」
問いに、オダニとエンジは顔を見合わせる。次の瞬間、同時に苦笑が漏れた。
「活躍って言えばそうだが、そうとも言えん」オダニが肩をすくめる。
「農政局の若者を、ご存じでしょう?」
エンジは普段の軽口で言葉を添える。
「ああ。真面目で、がっしりした青年ですね。東方方面軍について行った」
レオナールは答えた。
「俺たちは父上を看取ったあと、葬儀もせず軍を整えて侯都へ急いだ。帝国軍に襲われた話の連絡が、エンジの部下から来たからな。ところが峠でそいつに呼び止められてな――『援軍を!』って。だが必死な顔のくせに、不思議と落ち着いてもいた」
エンジが低く、知的な声音で続ける。「その誘導で、我々は戦場に合流できました。戦いは苦しかった。しかし途中から、魔物の統率は崩壊しました」
「俺たちは逃げる魔物を追った。だが――」オダニの声に熱がこもる。「そこに横たわっていたんだ。統率者の大魔物がな」
レオナールは真剣な顔になった。
「誰かが討った。だが、あんな化け物、俺でも一人じゃ到底ムリだ」
「大魔物の硬い装甲は綺麗に断ち割られていました。そして人の足型が残っていた――魔物と向かい合うように」
エンジは軽口は消え、冷静に、理知的な観察者の声で言った。
「……まさか」レオナールは思わず呟いた。
「ちらりと、あの若者が走り去るのを見た」オダニが低く唸る。
「問いただそうとしたが――」
「姿を消しました」エンジが簡潔に言い放つ。
レオナールの脳裏に、森を歩いた時の記憶が蘇る。
剣も持たず、恐れも見せず、ただ平然と前を歩く背中。
「……彼は剣を持っていませんでした」声が震える。「なのに――」
沈黙。鉄格子の外で、黒犬が低く喉を鳴らした。
「エンジ、オダニ」レオナールは強く言った。
「彼の正体を調べてください。それと農薬の輸送も」
「承知しました。アオイ伯爵より先に動きます」
「ははっ、面白ぇ! どんな正体でも構わん、俺が確かめてやる!」オダニの笑い声が石壁に響いた。
だが、レオナールには笑う余裕はなかった。
――農政局の若者。
人の理に従う者ではない。むしろ、理の外からこの世を歩いているのではないか。
黒犬たちは動かない。ただ沈黙の中。
その眼は――真実をすでに知っている者の眼だった。
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