亡命者の村
村に足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。井戸端で水を汲んでいた女は桶を抱いたまま動きを止め、子どもは母親の背に隠れた。
道を歩く男たちも、鋭い視線だけをこちらに向けてきた。外からの来訪者に対する、露骨な警戒心だった。
「少しお待ちください」
案内役の村人がそう告げる。
「では、その間に村を散策させてもらおう」
村は予想以上に人で賑わっていた。家々は質素ながら整然と並んでいる。
「かなりの人数が住んでいるな」
「ええ。ここ数ヶ月は流入が特に激しいのです」
農政局員が答えた。どうやら定期的にこの村を訪れているらしい。
やがて、大きな庄屋に辿り着いた。倉庫では村人たちが荷を運び込んでいる。その中に、一人だけ雰囲気の異なる男がいた。
泥にまみれた作業着を纏っていながら、腰の剣だけは異様な存在感を放っている。
鍔に刻まれた意匠は、皇帝から下賜された証。
「珍しいな、一人じゃないなんて」
気安く声を掛けてきたその男は、名主のカンベと名乗った。
「本日はレオナール執政官に同行いただきました」
農政局員が紹介すると、カンベは軽く頭を下げた。
しかしその笑みの裏に、感謝の念など欠片もないことはすぐに察せられた。
レオナールは倉庫を見回す。整然と積まれた木箱の中には多種多様な野菜が収められ、脇にはキノコ栽培用の小屋まである。
「種類が豊富ですね。しかも珍しいものまで……あれは菌床によるキノコ栽培か」
「おお、分かるのか?」
カンベの目がわずかに見開かれた。
レオナールは謙遜しようとしたが、農政局員が口を挟む。
「執政官は農政の専門家でして。畑や栽培には一家言ある方です」
「多少は、書物より実地で学んだこともあります。役立つことがあれば」
「それはありがたい。……いや、本当に助かる。書物だけでは分からんことばかりでな」
先ほどまで冷ややかだった声音が、次第に熱を帯びていく。カンベは帝国軍の将軍であったが、一族と共に亡命し、この村で名主となったのだという。
将としての経験は、いま農と村の組織を支える礎となっていた。
野菜倉庫、狩猟小屋、栽培小屋と見て回るたびに、カンベは鋭い質問を投げかけ、レオナールは迷いなく答えた。
その一つ一つが的確で、単なる学識ではなく現場で培った経験に裏打ちされた助言だった。
「なるほど……そうすれば病気を防げるのか」
カンベは大きく頷き、やがて口元に笑みを浮かべた。
「勉強になった。また必ず来てくれ!」
最初の皮肉混じりの挨拶とは正反対。今度は心からの言葉だった。
「レオナール執政官、村長が面会の準備を整えております」
案内役の声がかかり、二人は屋敷へ向かった。
村長の屋敷では、すでに一人の男が待っていた。
名はボリス。帝国皇帝の義兄にして、かつて後継者争いに敗れ、この地に逃れて村を興した人物だ。
「遅れてすまない。少し村を案内していただいていた」
「つまらない村だろう。だが、皆がよくやってくれている」
「いえ、工夫に富んだ、素晴らしい村です」
日に焼けた肌と鍛え上げられた体。その姿には、ただの亡命者ではなく、王位を争った覇者の風格が漂っていた。
ボリスは椅子にもたれ、苦い笑みを浮かべる。
「せっかく平和に慣れてきたというのに……残念なことだ」
「どういう意味です?」
「数日前、アオイ殿から通達があった。オルフィン侯爵領内すべての貴族に、緊急演習への参加を求めるものだ。驚いたことに、この小さな村にまで届いてな」
机上に置かれた封書を指で叩く。
「何を意味するか、私も知りたいくらいだ」
レオナールの胸に、再び不穏な影が広がった。演習――それがただの訓練で終わるはずがない。
「夜も更けました。戻りましょう」
声を低く告げ、レオナールは急ぎシュベルトへと帰路を取った。




