戦いの予感
しばらくして、ようやくカシスが戻ってきた。瞳は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。外では、石畳を叩く蹄の音が、いつまでも遠ざからずに響いていた。
「どうした? あいつに何か言われたのか?」
カシスの兄が立ち上がり、怒気を帯びた声を投げかける。
しかし彼女は答えられなかった。ただ震える唇を噛み、首を横に振るだけだった。
「どうしたの、話してごらんなさい」
その言葉に耐え切れず、カシスは堰を切ったように涙をこぼした。
サクナは彼女を隣に座らせ、周囲の者に目配せをして部屋を出ていかせる。残された静寂の中、サクナはハンカチで涙を拭い取った。
「オルフィン侯爵南部方面軍の司令官に抜擢されたんです。……演習に来たついでに顔を出したって」
「それで?」
「でも、様子がおかしくて……。だから聞いたんです。『私に隠し事をするなら結婚なんてしません』って。そしたら……『きっと戦場に行くことになる』って……」
声が震え、言葉の最後は涙に溶けて消えた。
サクナは彼女の肩を優しく抱き寄せ、だがその瞳は鋭い光を放っていた。
「安心なさい。戦争なんて、私がさせやしない」
その夜、月の光を避けるように──夜に飛ばぬはずの烏が数羽、侯都シュベルトへと向かっていった。
※
翌日、街外れのレオナール邸宅。まだ荷が片付かぬ室内に、緊急の会議が開かれていた。人気のない場所ゆえに、秘密を語るにはうってつけだった。
集まったのはレオナール、オダニ、急遽呼び寄せられたイズモ──そしてなぜか、エンジの姿もあった。
「……エンジ? お前、なんでツーソンに?」
怪訝そうに尋ねるイズモ。
「何よ、その顔。司法局は全国に支局があるのよ。あんたの内務局と一緒!」
「いや、でも……お前が出張なんて珍しいだろ」
「ふん。珍しいから何? むしろ本局ごとツーソンに移してやろうかしら!」
「……はぁ」
二人のやり取りに、レオナールは額に手を当て、深いため息を洩らした。
「世間話は後だ。まず本題に入ろう」
昨日手に入れた情報を、レオナールは簡潔に、しかし一語一語を重く区切りながら全員に伝えた。
「国家間の戦争……二十年以上起きていないはずだ」
「ああ。隣国は帝国。巨大な大国だが、我らの属国である」
「侯爵が勝手に戦争を始めることなど、本来はあり得ん」
牧草地を吹き抜ける風が、窓をかすかに揺らし、室内の沈黙を一層際立たせていた
「すでに全軍は侯都シュベルトに集結しているはずだ」
レオナールの声が低く響く。
「エンジ、侯都で何か変わったことは?」
「兵士であふれていたけど……不思議と緊張感はなかったわ」
「となれば、侯爵と……アオイ、ウラクくらいしかまだ知らない。直接、会いに行くしかあるまい」
レオナールが言い放つ。
「危険です、レオナール様!」
オダニが立ち上がり、強く引き止めた。
だが彼は首を振る。
「知ってしまった以上、目をつむることはできん。今ならまだ、止められる可能性がある」
室内の空気が一瞬にして張り詰めた。
「……わかりました。ならば一刻を争いますね」
オダニの返答に、全員の顔が一斉に引き締まる。
侯都に待つのは──火薬の匂いか、それとも交渉の席か。
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