意中の人
「帰りました」
夕暮れの赤に染まった農政省の屋敷へ、レオナールが戻ってきた。
「おかえりなさい!」
受付席にいたカシスがぱっと立ち上がり、にこやかに駆け寄ってくる。
「さっきまで商人の連中が集団で押しかけてきたんです。……みんな研究畑に逃げてましたけど」
「逃げるなよ、まったく。――悪い、これ運ぶの手伝ってくれ!」
イズモらも加わり、馬車に積まれた資料を二階の資料室へと運び込む。床がぎしりと鳴り、紙束が山のように積み上がっていった。農政省の職員は、研究畑の人間が多く、大声で騒がしい彼らが苦手なようだ。
カシスは軽やかに棚を整え、みるみるうちに整然とした空間へと変えていく。
「ふう……すごい量ですね」
「本当は最初からここに置いておくべきものだったんだ」
ようやく一息つくと、カシスは小さなティーポットを抱えて現れる。
「お茶をどうぞ」
湯気とともに広がったハーブの香りが、疲れをほどいていった。
「ところで――商人たちは何の用だ?」
「文句です。マミヤ商会にレオナール執政官が依頼されたのが気に入らないらしくて」
「はっ、くだらないね。マルコー商会が品を揃えられなかったんだから仕方ないだろう。それに、マミヤ商会も仲間なのだろう」
「私もそう申し上げたのですが……」
カシスは苦笑しつつ、席を立つ。
「そろそろ失礼しますね」
「待て、カシスさん。……タリアン殿に会ったんだがな。近々、婚約者候補として訪ねたいと頼まれてしまった」
「え! 執政官にですか? ……す、すいません。あのバカ野郎!」
カシスの顔がみるみる赤くなる。
「勝手に引き受けてすまない。断ろうか?」
レオナールが真剣に言う。
「いえ……執政官のお手を煩わせるわけにはいきません。最低限の準備で結構ですから」
「そうですか? 嫌なら何とかしますよ!」
「いえ、そうもいかないでしょう。それでは……」
カシスは深く頭を下げ、足早に去っていった。
呆気にとられるレオナールに、イズモが肩を揺すって笑う。
「気にする必要はありませんよ。カシスとタリアンは幼馴染なんですよ」
「そうなのか」
イズモの調べでは、アオイ伯爵は、タリアンに何人かの婚約者候補を紹介したらしい。だが、タリアンが会うこともせずに、断ったらしい。カシスのせいだという噂が広がることを、彼女は恐れていた。だが……。
意中の人。
「ほら、見てください」
窓の外。
すっかり暗くなったツーソンの町中の道を、馬にまたがるカシスが帰っていく。街灯に照らされた横顔には、確かに微笑みが浮かんでいた。
お忙しい中、拙著をお読み頂きありがとうございます。もしよろしければ、ご評価をいただけると幸いです。又、ご感想をお待ちしております。




