忘れられた式
俺のところに、暗黒の魔女ノクスから連絡があった。
年に何度かは呼び出されて、仕事を手伝わされることがある。だから今回もまた、その類かと思っていた。伝聞鳥が運んできた手紙を手に取った俺は、気怠げに封を切る。
「少し先だが、やっと結婚をすることになった。祝いに来てほしい」
その一文を目にした瞬間——
口に含んでいたワインを、盛大に吹き出した。
「ぶっ……な、何だと……!?」
冗談かと疑った。悪戯か、あるいは暗号文かとも思ったが、どう読んでも本気だ。
あのノクスが、結婚する? 本当に?
「父様たら、何をしているんですか?」
タオルを手に駆け寄ってきたのは、サクナだった。俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「ありがとう、サクナ……。レイラ、大変だ。あのノクスが、結婚するらしい」
口に出してみても、やはり現実味が薄い。相手の顔も浮かばない。誰があの魔女を娶るというのか。
差し出した手紙を受け取り、レイラは眉をひそめ、じっと俺の顔を見つめた。
「これは一応、招待状……ね。でも、この日付ならまだ先。忘れないようにしておきましょう」
「なんだ、すぐ行こうと思ったのに」
「何を言ってるの。準備の邪魔になるでしょ」
レイラにたしなめられたその一言に、不意に思い出す。
そういえば俺たちも、結婚して二十年近くになるが、式らしい式は挙げていなかったな。
……いや、もう挙げられないのかもしれない。今さらそんなことを思い出すなんて、滑稽だな。
「どうしたの?」
レイラが俺の顔を覗き込む。瞳は相変わらず穏やかで、何もかも見透かしているようで——
「……いや、何でもない」
答えることはできなかった。
ただ、そっと彼女の寝床に腰掛け、長く伸びた髪を撫でた。細く、やわらかく、指の間をすり抜ける感触が、どうしようもなく儚い。
※
レイラは、数年前に宰相の地位から退いた。理由は二つ。
一つは、長期的に権力を握るべきではないという、彼女自身の信念。
もう一つは、彼女の身体の問題だった。
あの日、王城で倒れ、一度は死の淵をさまよった。
俺には、タイムリープの記憶は残らない。
ただ、何かが少しだけ違うと感じるだけだ。それは、サクナも同じだった。
俺には——レイラを救う力がなかった。
「母さんを死なせたりしない」
そう言って現れたのが、スサノオだった。
幼い頃から大森林の魔女の下で修行していた彼は、ずっと——母の寿命を延ばす薬を作り続けていたのだ。魔女から、母の余命を知らされて。
どれほどの失敗を重ね、どれほどの時間を費やしたのか。
スサノオは、魔女の知識をすべて書き写し、自らの身体を薬の実験台にしてまで——母の命を繋ごうとした。
そして、間に合った。
病床に立つ彼を見上げて、レイラはかすかに微笑んだ。
「簡単に死なせてくれないのね」
「まだ、その時じゃない。頼むから……もう少し付き合ってください」
スサノオの声は、驚くほど冷静で、そして強かった。
「いいわ。気が済むまで」
何度、母の死を目の前で見たのだろう。
何度、絶望に打ちひしがれたのだろう。
それでも、スサノオは挫けなかった。小さな可能性を拾い上げて、繋ぎとめた。たった一つの命を、奇跡のような執念で。
「ありがとう」
俺には何もできなかった。
抱きしめた腕の中に、どれほどの想いがあったのか。
それを、俺はただ受け止めることしかできなかった。
だがそれ以来、レイラは体力を大きく失い、寝て過ごす日が増えた。
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