ヤワタノオロチ
「困るな。俺の研究素材を、勝手に開放されては」
その声が空間を裂いた瞬間、すべてが凍りついた。現実が歪み、静寂という重圧が押し寄せる。
現れたのは――ファウスト。
唇の端が愉悦に歪み、目には氷のような残酷さが宿る。その姿を見た瞬間、直感が告げていた。
「お前が……元凶か」
怒りが喉を突き破り、声となって噴き出す。不快な魔力の波が肌を刺し、骨の芯まで冷え込む。
「違うな」ファウストの声は滑らかで、残酷なほど理性的だった。「これは因果だよ。お前が選んだ結果だ。……レイラを選び、世界を壊した男」
「……お前が、ダークウェルか」
その名を口にした瞬間、ファウストの表情が一瞬だけ揺らいだ。目にかすかな苛立ちが走る。的中だ。こいつが破滅の源。
「ふふ……さて、どうだろうな」
彼はすぐに笑みを取り戻し、不気味な口元をつり上げた。「お前には過ぎた力がある。あのアイスドラゴン――私の竜と戦わせてみたかった」
ゆっくりと右手を突き出す。空気が震え、地面が軋み、空間が悲鳴を上げる。
現れたのは――八つの頭を持つ、闇の怪物。レイラが語った伝説の名を、俺は知っていた。
「……ヤワタノオロチ」
黒煙を巻き上げ、次々と首をもたげるその姿は、八柱の死神が現界したかのようだった。巨大な顎、禍々しい瞳、圧倒的な殺気。
背後の子供たちと助祭の気配を背に感じ、俺は一歩、前へと出る。
「お前たちは、逃げろ!」
守るべきものの存在が、俺を押し出す。
「来いよ……蛇ども!」
剣を地に突き立て、挑発の声を響かせた。これが俺に残された唯一の道。俺が喰われることで、誰かを救う。
――そして、すべてが爆ぜた。
八つの首が一斉に動き出す。咆哮とともに、破滅の魔術が放たれる。
火が肉を焼き、毒が肺を蝕み、雷が神経を裂く。
氷のように鋭利な水が舞い、風が肌を剥ぎ、土が四肢を縛る。闇の呪詛が意識を溶かし、光さえ魂をえぐった。
「ぐ……あああああっ!」
肉が裂け、骨が砕け、視界が赤く染まる。治癒魔法も追いつかず、痛みの連鎖が続く。
「喰いついた、か」ファウストが嗤う。「地獄に落ちろ。そして――永遠に吠え続けろ。我が牢獄で、果てしなく」
その声が遠ざかる。意識が朧に揺らぎ、死の境界が近づく。
それでも、心の奥底から声が響く。
『お前を助けるために、やり直そうか? だから――死ね』
違う……違うんだ。
レイラが、また苦しむ。俺が死ねば、何度でも泣く。あの涙だけは、許せない。
――だから、負けられない。
視界に戻る光。暗闇に、確かな意志が灯る。
「……俺は、死なない。もちろん、囚われもしない。物語を先に進める」
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