いつもの、脱出
「目が覚めたか」
俺は、横たわる東方聖教会の助祭に声をかけた。
彼はしばらく虚空を見つめ、それから俺の顔に焦点を合わせる。
「……私は、生きているのですね……」
「ああ、運が良かったな。で、誰にやられた?」
「“ファウスト”と名乗る男です」
「容姿は?」
「漆黒の厚手のマントに身を包み、顔も声も……まるで影の中に溶けているようでした。目だけが、赤い残光のように──」
俺は記憶を探る。だが、そんな男には心当たりがない。
──だが今は、それよりも“悪魔憑き”とされた子供たちだ。
虚ろな瞳。意味を成さぬ言葉。折れた足を抱えて座り込む小さな体──そこに“意志”はない。
悪魔が、よりによって貧民街の子に宿るか?
──否。
奴らは“より強く、より権力を持つ器”を選ぶ。目的があるからだ。
俺は剣を抜いた。静かに魔力を流し込む。刀身がわずかに光を帯びる。
刃が空気を裂く。肩、脇腹、背──
刃が舞うたび、子供たちの身体がばさりと音を立てて崩れ落ちる。
静かに、浅く、呼吸は続いている。
「ああ……なんて……」
助祭が膝をつく。震える手でクロスを握り締め、その目に信仰と現実の亀裂が走る。
「落ち着け。殺してなどいない。一瞬だけ強い刺激を与え、自我を解放しただけだ」
高出力の光魔法。ただし峰打ち──意識だけを刈る。
「……そうでしたか……命まで助けていただいたのに、疑って……申し訳……」
声が震え、涙が一滴、石の床に落ちた。
「いい。だが、ニコライが危険だ。急ぐぞ」
「ニコライ様が……」
俺は倒れた子供たちに膝をつき、手をかざす。
魔力が指先から流れ込み、折れた骨をつなぎ、裂けた皮膚を撫でるように閉じていく。
一人、また一人。子供たちが震えながらも立ち上がる。
「……ありがとう……」
小さな声だった。恐る恐る、だがはっきりと、自己を取り戻す。
牢の扉に目をやる。錆びついた鉄格子。
──問題ない。
「脱出する。全員、俺について来い」
「で、でも……鍵が……!」
「壊せばいい」
再び魔力を刃に乗せる。一閃。
鉄が裂け、火花を散らし、扉は落ちた。
音に驚いた子供たちの声が、静寂を破る。
廊下の奥に、石でできた重厚な扉。静寂の中に、圧し掛かるような重み。
「下がってろ」
剣を振る。風が唸り、石が裂け、破片が通路を転がる。
扉の向こうに、看守がいた。蒼白な顔。
武器すら抜けずに一歩退いた。
「な、なんだぁ……!」
一歩踏み込み、剣の柄で顎を打つ。
重い音がして、男は言葉を残さず崩れ落ちた。
「ついて来い。絶対にはぐれるな!」
石の階段を駆け上がる。壁に灯された魔光灯が、影を波のように揺らしていた。
屋敷の中を突っ切る。敵影が現れるたび、反射的に叩き伏せた。
──あと少し。
最後の扉に体当たりを喰らわせる。乾いた木が軋み、夜の冷気が肌に突き刺さる。
満天の星空が、閉ざされていた世界を切り裂く。
ひやりとした風が、喉の奥まで澄みきっていた。
背後から、子供たちが次々と外へ踏み出す。その顔には、まだ怯えが残っていた。
だがその目だけは、確かに、今を生きていた。