砂漠の花
少女は、テント村の中にある一軒の小さなテントへと入っていった。
「ほら、行くぞ。お邪魔するよ」ノクスが、軽い調子であとに続く。
「いやぁぁぁっ!」
中から、少女の悲鳴――否、叫びが響いた。周囲のテントにいた人々は、一様に顔を伏せ、知らぬふりを決め込む。
俺は思わず、テントに飛び込んだ。
――けれど、そこに立っていたのはルミナだった。違う。あの声は、少女のものでもルミナのものでもない。ノクスの声だ。
ルミナの背後には、少女の母親が横たわっていた。
痩せ細り、頬はこけ、肋骨が浮き上がっている。まるで疫病か毒か――死の一歩手前。皮膚には刻印が刻まれていた。生きていること自体が、もはや奇跡のようだった。
「……これが原因か?」
俺が呟くと、少女は驚きもしない目でこちらを見た。
怯えも叫びもない。ただ、諦めと、それを超えた静けさを宿したまなざし。まるで「またか」とでも言いたげに。
その瞳に宿る影は、年齢には到底ふさわしくない、深く重いものだった。
「リドリー様……お助けを」
初めて、ルミナが声を発した。
その声は黒でも白でもない。透明で、澄んだ湖面のような響きだった。
ルミナは、そっと俺の手を取る。そして少女の母親の胸に、それを導いた。
それは、拒否を許さぬ強さを帯びていた。
――この娘の、どこにこんな力が。
「ああ」
俺は治癒魔法に集中し、母親の体に魔力を注ぐ。少しずつ顔色が戻ってくるが、同時に俺の魔力が吸い取られていく。
刻印が、緑に淡く輝いていた。
「こいつが……治療の邪魔してるな。少し痛いが、許せ!」
俺は一息で叫び、刻印のある腕の皮膚を薄く剥いだ。血が滲む。母親は微かに身じろぎした。
反応がある――それだけで、希望が灯る。
「ルミナ、俺は手が離せん。服のポケットに解毒薬がある。少しずつ、飲ませてやってくれ」
ルミナは無言で頷き、俺の服から小瓶を取り出した。目で合図を交わし、慎重に、母親の唇へ薬を運ぶ。
「これは解毒薬だ。これから毎日、少しずつ飲ませろ。俺は、解毒系の魔法が得意じゃないんでな」
やがて、母親の体から死の気配が薄れ、わずかに生気が戻ってきた。
「それだけで充分だ。他にも患者がいるからな」
気づけば、入れ替わるようにしてノクスが立っていた。
「は? お前が治すんじゃなかったのか」
「そうしたいのは山々だが、順番じゃよ。恩にきる。……じゃが、悪戯の理由は調べねばならんの」
ノクスは、憎々しげに地面へと視線を落とす。そこには、血で汚れた刻印の皮片が落ちていた。
「これは、人の魔力を吸って発動する魔術だ。少女よ、名前は?」
「ザフラ・サフラー」
彼女はしっかりと名乗った。
その名を聞いた瞬間、ノクスがほんの一瞬だけ目を細めた。西方聖教会の聖書に出てくる砂漠の花。
「ザフラよ――お前の願いは、お前の信じる神を通して、我々に届けられたのだ」
「……ああ」
俺は、少女の瞳の奥で、小さく灯った希望を見てしまった。