蛇の住む館
「名告っていなかったな。俺は花蛇と呼ばれている」
「わ、私は……」
「知っている。文車と呼ぼうか」
馬に慣れない忠子は舌を噛まないように話すのも難易度が高い。それを言い淀んだと取ったのか花蛇は自分から忠子を知っていることを明かした。
(やっぱり覚えられてる?! 私と知って攫ったってことは、これはいわゆるお礼参り?! ま、まさか……)
自分だけが攫われて売り飛ばされるならまだいい。いや、良くはないが。
先日のことで弘徽殿には深い恨みを買っているはずだ。まさかとは思うが、ならず者を使い飛香舎の醜聞でもでっち上げる気なのか。
(徳子様に迷惑だけはかけられない!)
弱い雨が降り始めた。花蛇は腰に巻いていた小袖を片手で器用に外し、忠子を頭からすっぽりと包み込む。
気遣いでもあるかもしれないが、これで視界が塞がれた。誘拐犯が被害者に目隠しをするのはよくある。
人馬は無言のまま、静々とかなりの距離を歩む。
視界が塞がれているしすぐそばにいるのは人間離れした美貌を持つ花蛇だ。さらについさっき館で不思議な体験をしたばかりである。
生きている実感が曖昧になって、ここではないどこか異世界へと霧の中を進んでいるような気持ちにさえなってくる。
(……そろそろ理知たちが気づいた頃かな……)
葵祭では来てくれると分かっていたが、今はそうではない。探してくれてはいるだろうし、何らかの術が使われたのだとしても兼続と有為羽なら見破れるはずだ。
しかし正直死ぬほど心細いし身の危険を感じる。
花蛇の荒んだ雰囲気や手慣れた様子を見るに、落ちぶれて昨日今日アウトローになった雰囲気ではない。術者を向こうに回して世の中を渡ってきたのだろう。
売り飛ばされたらどういう目に遭うのだろうか。
(来る日も来る日も重労働、働きが悪ければ食事抜き、無理無理無理、私ドン臭いし一通りは家のことやってたけどうまくはできないよ、駄目使用人としてすぐ落ちこぼれる! そして風邪をひいても放置だから拗らせて死ぬ! 鳥辺野あたりに捨てられる!!)
鳥辺野は洛外にある風葬地だ。
貴族は火葬だが一般的には死ねば遺体は野ざらし、つまりは風葬にされる。または木に吊るし鳥に食べてもらう。埋められすらしないのだ。
(いや普通に死ねればいいけど! 死んだら腐って臭いからまだ息があるうちに戸板に乗せて運ばれて置き去りにされて! 生きたまま野犬に喰われたりカラスに目玉を啄まれたり……)
物書きのネガティブかつ具体的な想像力は留まるところを知らなかった。
揺れる馬の上でさえガクガク震えているのが伝わったのか、花蛇が口を開く。
「何を考えている?」
「遭難者の眼球ががっ、カタツムリ、に、食べられてた……っ、とか、妊婦……っ、熊にお腹か、ら、食べられた、ささ、三毛別羆事件とかを……」
「……そうか」
震えと馬の揺れで舌を噛みそうな呂律に加え、混乱のあまり三段跳びでぶっ飛んだ忠子の思考は花蛇には到底理解の及ぶシロモノではなかった。
「文車を獣の餌にしたり売り飛ばしたりはしない。そこは安心しろ」
「……それ、じゃあ、人質……?」
「権力にも興味はない。金もどうでもいいとまでは言わないが、暮らせる分だけあればいい」
「じゃあ……きゃっ!」
不意に馬が止まり、小袖で包んだまま抱き下ろされた。
乱暴ではないが小荷物でも扱うようなぞんざいさで肩に担がれ、短い距離を移動して板の間に下ろされる。
小袖から顔を出してみると館の一室らしかった。
「ここは……?」
板戸が開けられ、雨とは言え夕方の光が入ってくる。
驚いたことに外は小ぢんまりとしてはいたが悪くない趣味の庭だった。池まである。だが水草や雑草が繁茂し、鬱蒼としていた。
「とある貴族の別邸だ。博打のカタに巻き上げた」
立ち上がって恐る恐る板戸へ歩み寄ってみる。残念ながら土塀は崩れておらず敷地の外を見ることはできなかった。
「逃げようなどと思わないことだ。庭には俺の仲間がうようよしている。出て行こうとすれば邪魔しにくるぞ」
「仲間……? ひっ?!」
何もいないと思われた庭だが、意識して見ればそこには無数の目が瞬いていた。
草の陰に、木の枝に、水の中からも。
大小様々な蛇が思い思いのところに身を横たえてこちらを見つめている。
頭がどこにあるかは分からない、一抱えもありそうな胴体も低木と低木の間に覗いていた。
特に蛇を嫌っているわけではないが、これだけいるとさすがに怖い。しかも明らかに意志をもってこちらを見ている。一番太いのはいくら何でも妖だろうし。
闇を恐れるような原始的な恐怖に身が竦み、両手で口元を覆ってしまう。怖くて怖くて涙が滲むし震えが止まらない。
「怖いか。大体の人間は蛇が嫌いだからな。女は特に」
花蛇の口調に一切の温度はなかったが、却って万感こもっているようでハッとさせられた。
顔を上げてみるとやはり温もりの感じられない目と目が合う。
「俺以外の人間がいるときは建物に入ってこないように言ってある。入ってくる奴もいるが」
「あなたは……蛇たちはあなたの手下なの?」
「違う。友、仲間、同類……どれでもあってどれとも違う。言うことを聞いてくれる奴もいれば敵意を持っている奴もいる。人間と変わらない」
勢いを増した雨が屋根や枝葉を叩き、流れていく音が沈黙を和らげる。
蛇たちは濡れるのを嫌がったのか、どこかへ隠れてしまった。
(ううう……色々聞きたい)
忠子の脳内には選択肢が踊っていた。
▷ あなたは何者?
▷ なぜ私を攫ったの?
▷ あえて逃げてみる




