織子様出家未遂事件
翌朝、魂が抜けたような忠子とツヤツヤしたねこま御前の姿があった。
「私寝ぼけてご寝所に忍んでしまったのですね、ごめんなさい。でもそのお陰でとても良い夢を見た気がするのですね。覚えてないのが残念! ねえ忠子さまあ、思い出すおまじないでもご存じない?」
無邪気にはしゃぐ様子からはとぼけている気配はない。
ならば元凶は……
「は、はは……残念ながらそういうものは……と、ところで小福様は?」
「朝ごはんを食べたらお散歩に出たようですのね。やっぱり香が気に入らないのかしら」
ねこま御前は首を傾げる。
この時代、犬は放し飼い、猫は繋いで飼うのが常だが、小福はかなり自由にされていた。
(あの猫、しばらくは繋いどいた方がいいんじゃないかな……。あと、陰陽寮にも連絡しとこう)
昨夜の不気味な顔を思い出して身震いする。
すぐに呼びましょ陰陽師! の合言葉通り、昨夜のことを即座に相談したかったが朝から仕事が立て込んでいた。
結局、金縛りに遭ったこと、ある女房がネコのような振る舞いをした(※婉曲な表現)こと、その際に飼っている猫が顔を覗き込んでいてそれが人の顔に見えたことを簡単に書いた文を出すだけになってしまった。
何が起こっているか占いを立ててみるとの返信があったので、ひとまず落ち着くことにする。
(この場合の占いって、スキャンみたいなものなんだろうな)
結果待ちとしてその日は房の入口に入ってきたら桶が落ちてくる簡易トラップを仕掛けて床に就いた。
しかし翌朝、事件は別の場所で起こったのである。
* * *
「織子様! 危のうございます、刃物などお放しになって!」
「止めないで! あたし髪を下ろすわ! 出家するの!」
けたたましい悲鳴に続いて響いた声に叩き起こされ、織子の房へと駆けつけてみると、寝間着のままの織子が震える手に短刀を握っている。
「どうしたんですか?!」
「文車太夫様! どうかお止めくださいまし! 織子様を起こしに来たら、突然出家すると……!」
寝苦しかったのだろうか。帯が解けて寝間着の前は完全にはだけている。
可憐な膨らみが瑞々しい肌に微かな影を落とし、華奢な脚が覗いていた。
のぼせ上ったように火照った頬を涙で濡らしているのが痛々しい。
傷ついた少女の裸身だった。
(ええと、まずは落ち着いてもらわなきゃ! どうしよう、どうしよう! この時代、髪を切っちゃったら傷物扱いだよ! いや、まずは私が落ち着け、理知なら、理知ならどうする!?)
いつも冷静な幼馴染みが脳内に登場し、澄ました動作で扇を口元に当てる。
(空気を読まない理詰めで気を逸らそう!)
「織子様! ええとですね、しゅ、出家するにしても自分で髪を切ってはいけないんですよ?! 髪は然るべき方に下ろしていただくものです」
「忠子……」
取り乱していた織子の目に忠子の姿が写り、肩で息をしながらも刃物を握りしめている手からいくらか力が抜けたように見えた。
ちょっと姑息だが、速やかに取り押さえられる人が駆けつけてくれるまで時間を稼ごう。
「きっと色々お考えがあるんでしょう。ですが織子様が出家してしまったら寂しくなります。だからせめて、わけを聞かせてください」
「わ、わけ……」
一時は落ち着いた織子の大きな目が見開かれ、ガタガタと震え出した。
何か言おうと何度も口を開きかけるのに、どうしても言葉にできないらしい。
表情が恐怖と絶望に歪み、新しい涙がボロボロ零れ出す。
「いやあぁぁぁーっ!」
この世のすべてを否定するような恐ろしい絶叫とともに刃が煌めき、織子はまったく迷いのない動作でその切っ先を喉に向けた。
「織子様あ!」
バシッ!
忠子が叫び終えるより素早く、美しいものが視界を横切った。
「おば……さま……」
徳子だった。
平手を振るい、織子の手から短刀を叩き落とした姿のままで固まっている。
重たい装束を脱ぎ捨てた下着同然の姿ではあったが、姪の命を守った姿は綺羅を纏った以上に神々しかった。
「叔母様あああああ!」
出し抜けの号泣とともに、小さな少女は叔母に縋りつく。
その姿はとても頼りなくて、いつも堂々としていた織子とは別人のようだった。
気ままに過ごしていたように見えても、女房として気を張っていたのだと気づかされた。
* * *
泣いて泣いて、泣き疲れて眠ってしまった織子の手を、女御は優しく握ってやっている。
夜着の逆側には忠子が侍っていた。
「私が……聞き出そうとして追い詰めてしまったんです」
「あなたのせいじゃないわ。むしろあれで隙ができたもの」
睡眠不足だったのだろう。改めて見ると目の下に隈ができている。ふっくらしていたはずの頬もやつれていた。
「もっと気をつけておくべきでした。最近少しお痩せになったとは思っていましたが、大人っぽくなったのだとしか……」
『忠子、本を貸して』
『信孝ったら生意気だわ。急に背が伸びて、あたしの頭のてっぺんがどうのとか言い出すのよ! 忠子も理知に見下ろされて揶揄われたりしたの?』
『あーもう毎日雨でうんざりよ! 早く夏にならないかしら』
(死ぬほどの悩みがあるなんて、全然気づかなかった……)
多分徳子の次に懐かれていたのにと、情けなさで涙が滲む。
その苦しみにも気づいたのか、徳子は忠子にも優しい視線を注いだ。
「織子も藤原の姫。小さい頃から自分の思惑を人に悟られないようにするよう躾けられています。気づけなかった自分を責めないで、織子は立派な淑女だと褒めてあげてちょうだい」
「はい……」
(徳子様にまで気を使わせてしまった……女房失格だ)
「わたくし、今日は一日この子についているわ」
「はい、では明式部様に、そのように取り計らっていただくようお願いしてまいります」
「そうしてちょうだい」
疲れ果てた少女はまだ、目を覚ます気配はなかった。




