理知の筆
斎院の行列も滞りなく終わり、賀茂祭の本祭である葵祭の日がやってきた。
「んーっ、出かけるの久し振り! 体が軽いって素晴らしい!」
今日は女房装束ではなく、さっぱりとした小袖を着て下駄を履いている。おおっぴらに顔を見られないよう被衣を被ってはいるが、普段から比べると本当に動きやすい。
本日のメインイベントは御所から下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう行列である。
それを見物するのも目的のひとつではあるのだが、忠子の興味は所狭しと店が軒を連ねる市であった。
「ちょっと、子供じゃないんだからチョロチョロしないでよね。君みたいな小さいのは見失うと面倒なんだから」
「理知が目立つから平気だよ」
理知も薄い緑色の直衣を楽に着付けたお出かけスタイルだ。平均身長より頭一つ分は高いからはぐれてもすぐに見つけられる。
しかし力一杯嫌そうな顔をされたので、覗き込んでいた怪しい呪物の屋台を離れて理知の隣へと戻った。
「だけどよく、この時期に里下がりの許可が下りたよね。女御様はいいの?」
「うん、私の主な役目は書くことだから。むしろ閉じこもらず色々見てらっしゃいって、徳子様のご配慮だよ」
眼鏡はかけっぱなしだが、この時期は全国各地から色々な人々がやってくる。その中には奇抜な衣裳の人々もいるから、そこまで注目されることもない。
果物や薬を売り歩く商人がいるかと思えば、卓を置いて賭け腕相撲に興じる人々、辻占い師やお坊様もいる。軽業を見物する人々の間をすり抜け、各地からやってきた行商人の屋台が集まるエリアへと足を向けた。
「何か欲しいものあるの?」
「特にこれといってないけど、私も幾らかは稼げるようになったからね。いいなと思うものがあれば買うつもり。古物屋にポンと貴重な本があったりするって聞くし」
「そう。それじゃ気をつけなね? こういうところには必ずスリが出る。手口が年々巧妙化してるから、懐深くにしっかりしまっておきなよ」
「は、はひぃ?! 気をつけます!」
財布を懐の奥深くにしまい直してしっかりと袷を押さえ、細工物や工芸品、深山の霊草など色々な屋台を見て回る。そのうちのひとつ、筆を並べている店の前で理知が足を止めた。
「ご無沙汰してます」
「はいいらっしゃ……、おや、朽草丸坊ちゃん!」
「幼名はやめてください、今は理知です」
「そうでしたね、つい昔の癖が抜けないで。本当に立派におなり遊ばして」
いかにも僻地に引っ込んでいる腕のいい頑固職人ですといった風体の中年男性が立ち上がって頭を下げる。
入れ替わりに理知が長身を折って小筆を手に取った。
「相変わらずなんですか?」
「へえ、一人で細々やっております」
忠子も何気なく売り物の筆を取り上げてみた瞬間、思わず声が上がった。
「書きやすそう……!」
どこが優れているのかは、筆の目利きなどできない忠子にはさっぱり分からない。ただまるで何年も愛用していたもののように、しっくりと手に馴染んだ。
視界の端で理知が薄っすらと唇の端を上げる。何だか嬉しそうで自慢げだ。
「分かる? 一度使ったらここの筆以外使えないよ。竹里さん、こちらは僕の幼馴染みで、伴家の二の姫です」
「どうも、理知様には贔屓にしていただいてます」
この筆匠は竹里といい、小さな工房で筆を作っているそうだ。
「京で商売をする気になったんですか?」
「祭の間だけです」
「僕はこれ以上の筆を知りません。この品質ならすぐ評判になるのに」
「坊ちゃんのお言葉は勿体ないんですが、地味にやってくのが性に合ってるんです」
図書寮お抱えの筆匠に推薦でもするつもりなのだろうか?
竹里が首を横に振るのは予想済みだったらしく、理知は穏やかな表情でため息をついた。
「僕が能書家として評価されてるのも、ひとつにはこちらの筆の力がありますしね。いい道具は秘匿しておいた方がいいのかもしれません」
言い終わると理知は並べられている筆を一本ずつ吟味し始めた。忠子も見てみる。
品質は均一だが、手で作っているものだから穂先などはどうしたってひとつとして同じ物はない。
どれも毛の一本も乱れのない素晴らしいものの中から、自分に一番合うものを探す理知の横顔はいつにない真剣さを帯びていて、思わず見惚れてしまう。
手持ち無沙汰になってしまい、忠子は筆匠に向き直った。
「あ、あの、本当に失礼ですけど……質問よろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「その……私みたいな素人でも、これはいい筆なんだなって分かります。それに、書家の理知様愛用の品となれば宮廷でも珍重されると思います。なぜ、そうなさらないんですか?」
そうすれば工房の筆は飛ぶように売れて暮らしも楽になり、位ももらえるかもしれない。
筆は仏教と共に空海が持ち込んだもので、中国産だ。今は日本語を書くのに適したものへの改良の過渡期にある。技術革新の工夫だって朝廷の庇護があれば思う存分できるのではないか。
「使ってもらえるか分からないからですよ」
確かにそうだ。贈答品やコレクションとされることも多くなるだろう。
「筆は書くためにあるんです。ありがたがられて大切にしまわれても、使ってもらえない筆は可哀想です。私の筆は百年使えますんで、もったいながる必要ないんですがね」
「百年!」
「はい」
百年とは大きく出られたが、その態度を見るとそうそう大袈裟とも思えない。
詐欺師が大ぼらを信じ込ませるのとは違う、誠実にコツコツと積み上げてきた技術と経験に裏打ちされた言葉だった。
「行けるかもしれないね。僕が今使ってるのは君と手習いを始めた頃に兄上からもらったものだけど、未だ毛の一本も抜けてないしボサボサになる気配もないよ。普通の手入れしかしてないのにね」
「え? 一度も変えてないの?!」
「君が貼ってくれた小布は擦り切れちゃったけど、本体は無事」
「そんなことまで覚えてなくていい……私は今の今まで忘れてたのに」
子供の頃、筆に滑り止めと称して小さな端切れを貼り付けたことがある。
滑り止めは口実で単にお揃いのものを持ちたいという幼心だった。逆に使いにくかったし、忠子の筆はもうとっくに新しいものだ。
「本当に百年持つなら、僕は生涯使い続けるよ」
「勿体ないお言葉です。是非百年生きて証明してください」
「子供ができたらその子に譲りますよ。その子がまた孫に残してくれたら百年になるかな」
「付喪神になりそうだよ……」
「なりませんよ、お嬢さん。草木は知りませんが、使ってもらえるうちは、道具は化けません」
筆匠はまた、自信に満ちた声で言った。
「どうしてですか?」
「幸せですから」
吟味に吟味を重ね、理知は愛用しているものより一回り太い筆を一本買った。
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