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僕のことなんて忘れてると思ってた

「僕のことなんて忘れてると思ってた」

「ゴメンね理知たかちか

「謝罪に誠意がない」


良成との邂逅の後、和歌事件に関しては詳しくは話せないが心配ないと手紙を書き送ったところ、どうやら理知は地味に凹んでいたようだ。今も少し拗ねているのが分かる。

やはり実家にいたときは家事に追われていたとは言え時間があったのだ。宮廷に上がり仕事を始めたら忙しくて文を書いている暇もない。


だが図書館の件は、一番に理知に報告したかった。伝播速度が異様に速い噂で耳に届く前に、自分の口から。

自分から理知の職場に押しかけるわけにはいかないから、手紙を出して局に来てもらったのだ。


「で、今日は何」

「私、文庫を作れたの!」


事の経緯をかいつまんで話すと、理知は見たこともないあっけにとられた表情を晒した。


「……君、凄くない?」

「凄いのは私じゃないよ、織子様や右大臣様。私は運が良かっただけ」

「そりゃ、平城京には大納言が作った似たようなものがあったって話だけど」

「何それ!? 詳しく聞かせて!」

「僕もたいして詳しくないよ。ただあれはお寺に併設されてて、仏教関係の漢書を集めてたとかなんとか。……何なら……」

「知らなかった! やっぱり理知は凄いよ、ありがとう! どういう運営したらいいかまだぼんやりしてるから、調べてみるね!」


調べてあげてもいいよという理知の言葉は、前のめりの忠子の前に永遠に失われた。


「君、変わったよね」

「そりゃあ、毎日お化粧するようになったし、着るものも全然違うからね。時々自分じゃないみたいで部屋の中意味もなくうろうろしちゃったりするよ」

「そういうところは変わってないケド。僕がいなきゃなんにもできなかった癖に、今じゃ自分で何でもできるやり手の女房様じゃん」


聞きようによっては酷い言い草だが、事実だから気にならない。理知は息をするように毒を吐くから。


(私、少しは綺麗になった? って聞けば良かった? 選択肢間違ったのかな……)


「今だってたいしたことはできてないよ。本関係は前より詳しくなったし、人から聞かれて答えられることも増えたけど全然読書家ってほどじゃなくて凹んでるところ」


貧乏なりに結構読んでたつもりだったが、ちょっとした読書家にギリギリ引っかかる程度でしかないと思い知らされた。

だからこそ読みたい人が読みたいだけ本を読める、図書館という発想に至ったわけだが。


また忠子自身書き手であるが故に、書いたものをたくさんの人に読んでもらいたいという筆者の想いも分かる。本は読まれてこそ価値がある。死蔵するにはあまりに忍びない、想いがこもった物たちなのだ。


「貴族の常識とか嗜みとかだって、理知が教えてくれたからどうにか致命的な失敗はやらかさずに済んでるだけで……あっ、そうだ、理知に頼みたいことあったんだ」

「……何?」


頼みという言葉に理知の耳がピクリと反応したのが分かった。忙しくて迷惑なのだろうか。

口ごもり気味になるが、やはりどうしても理知にやってもらいたい。


「あのね、理知に作ってもらったお香、もう残り少ないんだ。その、また調合あわせてくれる?」

「何で僕が。レシピあげたよね?」

「やってみた、やってみたよ! でも何か違うの。理知が作ってくれたのと違うんだよ。コレジャナイ感凄くて」


何とももどかしい違和感を表現できず袖を握りしめるが、忠子が懸命に訴えれば訴えるほど理知はスンッとクールになっていく。


「環境でしょ。他の女房たちの香との兼ね合いとか。気のせいだよ」


理知は自分以上に多忙なのだ。きっぱりそう言われれば引き下がるしかない。


「そうなのかな。……そうかも」


急に恥ずかしさが込み上げてきて、忠子は殊更あわあわと両手をばたつかせて言い訳した。動く度に袖から慣れ親しんだ香りが零れる。

理知が忠子のためだけに調合してくれた香だ。


「ゴメンね、我儘言って。そうだよね、違うわけないもんね。あの香りを纏ってると理知の頭の良さを分けてもらえてるみたいで心強かったんだ。宮廷に上がった頃はホントに毎日テンパりっぱなしだったけど、冷静でいなきゃ! 理知だったらここはどうする?! っていつも考えてずっと助けられてたから」


「……………………………………」

「た……理知?」

「イチニサンゴナナジュウイチジュウサンジュウナナジュウクニジュウサン……」

「タッチー!?」


口の達者な理知がこんなに黙るのは珍しいほどの長い沈黙の後、今度は唐突に訳の分からない数字を口の中で高速詠唱し始めた。九十七まで一息で数えてやっと一息つく。


「何でもない。そんなに気に入ってるなんて思わなかったよ。文車太夫の噂は聞こえてくるけど、その中に香についてのものなんてひとつもなかったからね」

「本当にちょっとずつしか使ってないからかな。いじましくケチケチ使う癖が抜けなくて」

「なるほど。歌会なんかだと周囲に紛れちゃうわけか」

「そうだね。こうやって二人で落ち着いて話すとか、狭い廊下ですれ違ったときぐらいしか分からないかも」

「……つまり忠子の香に言及する奴は相当要注意ってことか……」

「何?」

「何でもない。そこまで言われたら僕も皆が言うほど冷たい男じゃありませんからお作りしましょう? そぉおおおおんなにお気に召してたなんて思わなかったからね」

「ひいっ!? 謝意が足りなかった!? ゴメン理知本当に感謝してます! 今度何かお礼するから!」


大慌てでひれ伏す忠子を理知は優雅に扇を広げて上機嫌で見下ろす。


「いいよ、久し振りに君の素が見られて気分いい。やっぱり忠子はこうじゃなきゃ」

「酷い! 私はできる女になって、徳子様のお役に立ちたいのに!」

「あー、宮中ではできる女と評判の文車太夫様の醜態拝見するのってたーのしー」

「意地悪!」


傍から聞いたら痴話げんかである。

そしてここは恋バナが好きな女という生き物が集う局であり、部屋と言っても密閉空間ではなく広大な部屋を几帳や衝立で区切っているだけで住宅構造としてプライバシーはないに等しい。



「あの二人、あれで付き合ってないわけ? 理知様の方はベタ惚れなのに、忠子鈍すぎない!? 淑女たる者向けられる好意には敏感であるべきよ!」(ひそひそ)

「織子様にだけは言われたくないと思いますよ」(こそこそ)

「理知様素敵……あの調子ならわたくしにもワンチャンあるかしら」(ドキドキ)

「当て馬になる覚悟があるならどうぞってとこね。お勧めはしないわ」(ニヤニヤ)


「……理知様は素敵だし、わたくしは文車太夫も好きだわ。二人が幸せになれるなら、当て馬になっても……」(妖艶なため息)

「いやあなたはお止め遊ばせ! 宮中お色気スペシャルが踊り込んだら幸せになる前に話がややこしくなってよ!」(ツッコミ)


筒抜けなのだ。筒抜けなのだが、聞こえていない振りでスマートに振る舞うのが貴族の嗜みである。

しかし人の口に戸は立てられぬ。噂話の伝播速度が異様に速くそれで罪を得る者が多いのは、そういうわけである。



* * *



誰も知らない。

理知が香を調合せるとき、本当に爪の先程度に自分の使っている香を混ぜていたことを。


忠子の香りが人の鼻腔をくすぐるとき、その後ろに自分の影が見え隠れすれば密かに一滴だけ垂らした独占欲。


誰にも気づかれないと思っていた。

本人にだけ、気づかれていた。


(僕の想いもこんな風に、誰にも気づかれず忠子にだけ伝わればいいのに)


歌のひとつも読めればいいという想いが自然と湧き出したのは、十六年の人生で初めてだった。


読んでくれてありがとうございました!


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