悶絶、林檎
好きなのに、なかなか食べることができない物のひとつに林檎がある。
値段とかアレルギーがあるとかそう言った理由ではなくて、林檎を食べようとすると体に異変が起きてしまうため、私は林檎を遠ざけるようになってしまった。
林檎の味は好きである。
少しお高い価格のリンゴジュースが、どこそこの物産展などに並んでいるとすぐに買ってしまう。もともと果物のジュースが大好きで、特産の果物で作られたジュースは旅行先で箱買いして自宅に発送するのが常である。東北地方などの物産が並んでいればリンゴジュースは迷わずお買い上げである。
また、林檎の加工品も好物でジャムやアップルパイには目がない。なのに、私は林檎を遠ざける生活を長い間している。
正確には、生の林檎を避けている。
最初に異変に気が付いたのは小学生時代だった。
給食で出た、サラダを食べた時に、首筋から耳にかけてゾワゾワするような鳥肌が立つような、妙な感覚に襲われた。
私の家ではサラダに果物を入れない。
果物は果物として、素材の味をそのままに食べる。サラダでドレッシングだの酢だの、マヨネーズだのにまみれさせたくない。ヨーグルトにも入れない。
給食のリンゴサラダは、キュウリの汁やドレッシングまみれの林檎の味に馴染めないのだと思った。
それから、そのリンゴ入りのサラダを警戒するようになり、やがて苦手になった。林檎は単体で食べる方が美味しいのに、口に合わない塩味のような汁まみれにすることが、どうしても受け入れられない。
ある日、リンゴの皮を剥くという意味不明な行為を授業でした。
林檎の皮を丸々一個、長く剥くという本当に意味のない行為。
因みに我が家では林檎は食べる分だけを剥く。
一個のリンゴを全部食べきるのなら、丸々一個を剥いてもいいが、そうでないなら食べる分だけを切ってそれだけを剥いて食べるという家であった。残りはラップをしておく。
林檎が変色するからといって、塩水につけてわざわざ不味くして食べることもなかった。私には丸々一個を手を汚しながら剥くなんて考えられない。『みんなはリンゴ一個を全部食べきれるわけ?お腹もすいていないのに。』そんなことを思いながら、林檎を剥いていた時、教室中に響くリンゴの皮を剥く音に参ってしまった。
その音は鼓膜を内側から刺激するような音である。
喉の奥も刺激され、咳をしたくもなる。
とにかく耳がオカシイ。鼓膜の内側がオカシイ。
鳥肌が立ちそう。
痛いとか締め付けられて苦しいとか、そう言った苦痛とは違う不快さとも何とも言えない感覚に刺激されて、苦しい思いをした。
自分で林檎を剥き続けることもかなわない。
音がすると投げ出してしまいたい。そんな感覚にとらわれ苦しんだ後、今度はそのリンゴを食べることになった。
教室に林檎の咀嚼音が響く。
今まで気にすることはなかった音が、クラス全員が一斉に食べているとその音を意識せざるを得ない。
林檎を剥く音で、音の存在を意識させられしまったために逃れられない咀嚼音。
他人の咀嚼音よりも、自分自身の咀嚼音にはさらに悶える。
背中がゾワザワして、絶えず耳に息を吹きかけられているような感覚もする。
奥歯でそっと押しつぶすように圧をかけて潰しながら味わってもなお、鼓膜を刺激する咀嚼音。耳をふさいでも内側から響くのだからどうしようもない。
肩をすくめて、口の中かの林檎を飲み込めるように少しづつかみ砕いてゆくまでの間、悶絶する。
思えば、私は家でも林檎をあまり食べる子供ではなかった。
好き嫌いの意識すらしていなかったが、親が剥いてくれても食べていたんだろうか・・・。ただ、林檎をすりおろして食べることにはハマってはいた。親に擦り下ろしてほしいと度々お願いしていた記憶はある。
ここ数年の間に、父が林檎栽培を趣味で始めた。
父の実家があった山間部の土地に少しづつリンゴの苗木を植え始め、3年ほど前から実をつけるようになった。
父が幼少の頃、林檎は滅多に手に入らなかった。住んでいた山間部は麓の町まで20Km以上あった。
林檎は遠くに住む親せきが冬の初めに送ってくれたのを、駅から知らせがあると20キロ以上の道のりを自転車で取りに言ったという。今なら宅配業者が持ってきてくれるが、昔は駅で荷物が止まるので、そこまで取りに行かねばならなかったという。
自転車の荷台にリンゴ箱を乗せて山道を登って帰る。昔は当たり前だったんだろうが、今に生きる私は耐えられそうにない。私はきっと、林檎を送ってくれる親戚を少しばかり恨むかもしれない。
そういう訳で、父は幼少期になかなか食べることができなかった林檎を自分の土地で育て始めた。
林檎は栽培が難しく、特に九州では栽培されているというのをあまり聞かない。冷涼な土地ではあるのかもしれないが、九州では専ら柑橘系の方が多いように感じる。
試行錯誤を重ね、今年は100個くらいの林檎を収穫した。
北の方の産地の売り物になるような林檎とは違い、肌が荒れ苦労の後がにじみ出ている林檎である。
林檎に限らず、店先に並ぶ品物は作り手の苦労などを全く感じさせない、綺麗な姿で売られているものだ。
父の趣味で始めた林檎栽培は着実に進歩している。
その結果、沢山の林檎が我が家にはある。
なかなか減らない林檎を見て、父は「せっかく作ったんだかから、もっと食べろ」と圧をかけてくる。父は、私と私と同じく林檎の咀嚼音に悶絶する体を持つ妹のことを分かっているのだろうか。
子供の時から、林檎を齧る音について話していたし、林檎を食べる音を嫌って妹は林檎を口にしない。母が林檎を剥いていると逃げていた。
見ているようで全然見ていない父。
愛猫ニアの方が、よほど私たちの変化を見ているのではないかと思う。
折角だから、父の作った林檎を初物として頂く。
肩を竦めながら、奥歯でゆっくりと押しながら果汁を味わう。
林檎の味は好きだ。味は好きだが咀嚼音は耐え難い。自分自身が出す咀嚼音に悶絶してしまうのだから。
林檎の音で鼓膜を内側からも外側からも刺激され、そのうち身もだえして気絶しちゃうんじゃないか・・・
呪われた体が心配だ。