予想外の……
「さあ、もうイスファハンに帰るだけですわね、フェレ様!」
「……うん」
てきぱきと荷造りを整えるリリの方に、何やら気遣わしげな視線を向けるフェレ。
戦勝後、もう三週間ほど経った。かねてよりの約束であった「平和的にイスファハンに帰る」ことが、現実になろうとしているのだ。
すでに皇帝の名で今回の動乱、それに先立つカルタゴとの戦役に際して、「女神」と「軍師」、いや「女神イシス」と「その神官」の貢献と、彼らに対する感謝がこれでもかというくらい記された勅書が公布されている。そしてそこには、彼らたっての希望に従い、イスファハンへの帰国を許す旨が明記されたのだ。
もちろん腹黒いアレニウス帝のこと、何とか彼らを引き留めるためのきっかけを潜り込ませることは忘れない。女神イシスに擬せられたフェレを、帝国伯爵に叙すという一文を、布告に入れたのだ。イスファハンから貴族に叙されているファリドは無論帝国爵位など受け取れないが、正式に彼と婚儀を挙げていないフェレはまだ名目上フリーであって……実にうまいところをついたものである。
それを見たファリドが、酸っぱい顔をしたのも無理はない。ここに至って帝国の紐付きになることに、メリットはまったくないのだから。だが、せっかく貰った帰国へのお墨付き……反故にするわけにもいかない。渋面をつくりつつも受け入れざるを得ず、またその叙爵セレモニーやらお披露目会やらで日数が過ぎ、結局帰国の支度が、こんなに遅れてしまったというわけだ。
家の庭では、マルヤムが仔象のバドルと戯れている。旅芸人の一座に預かって貰っていたこの象も無事戻り、愛娘マルヤムはもちろん、象をイスファハンまで連れ帰るつもりでいる。
そして、荷造りすべきものなどあまり持たないファリドは望まぬ謀略から離れ、テラスにしつらえたテーブルで、のんびりとチャイをすすりながら本など読んでいる。その彼の眼に、忠実な侍女であり護衛でもあり妹分でもある娘に優しく話しかける、実質的な妻の姿が映る。
「……ねえ、リリ。このまま、帰っていいの?」
「もちろんです。フェレ様のおられるところに常に在る、それが私の望みですから」
一瞬ためらい、頬を染めかけたリリが、主人に決然とした眼を向ける。だがその瞳が隠せぬ想いに揺れるのに気付かないほど、フェレとて鈍感ではない。
「……ハディードのことは、どうするの?」
「は、ハディード様は、これから帝国を率いて行かれるお方。その隣に立つ方は、高貴で汚れなき女性でなくてはなりません。もちろん、お慕いしてはおりますが……」
「……前にも言ったはず。リリは、ハディードが好き。ハディードは、ちょっと気持ち悪いくらい、リリが好き。手を取り合って、共に未来を築くべき」
「で、でも私は……」
リリが言葉を返しかけた時、門のあたりがにわかに騒がしくなった。そこには衛兵が三人、常に詰めていたはずだが……。
「ハ、ハディード殿下!」
衛兵の慌てた声に振り向けば、ハディードが、官僚がまとう麻の短衣を風になびかせながら、こちらへツカツカと近づいている。今や皇太子となったというのに、その護衛はごく少ない。
「ファリド殿……いよいよ、故国に帰られるのですね」
「ああ、ハディードの国造りを見届けられないのは残念だが、そろそろ帰らないと、国許で葬式が出されてしまうかも知れないからな」
冗談めかしたファリドの返しで、やや沈み加減になった場の雰囲気が、和やかに緩む。
「もはや、貴方がたを引き留めることなど難しいのは、承知しています。どうか、旅路が平和なものでありますように、お祈りしましょう」
ハディードの視線がファリド一家の面々の間をさまよい、やがてリリのところに固定される。リリは不器用に視線をそらしているが、その首筋が桜色に染まっているのを見れば、心のうちは明らかである。
「リリさん……」
「何もおっしゃらないでください。皇帝となられるハディード様には、それにふさわしい伴侶が必要です」
「しかし私は、貴女とともに……」
ハディードが言葉を継ごうとした、その時。リリが不意にその手で口を覆い、眉を寄せた。
「し、失礼いたしますっ!」
これから全力の口説きを仕掛けようとしていた皇子にくるりと背を向け、リリは厨房の方に小走りで逃げていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
一人になったリリは、その眼を大きく見開き、何かつぶやいている。
「ま、まさか、こんな時に……」
その背後にいつのまにかフェレが立ち、静かに背中に掌を当てる。その気配にすら気づけなかったリリが、それほど動揺していたということなのだろう。
「フェレ様……」
「……大丈夫。それは、新しい生命が、リリの身体に宿ったということだから……ハディードの、子供が」
「ど、どうして……」
リリがうろたえるのも、無理はない。
彼女はハディードを好きになった。そして、殺人の衝撃で魂の抜けた状態になっているその男を立ち直らせんとして、その身を任せたのだ。彼女の献身の甲斐あって復活した男が犬のように懐いてくるのがつい可愛くなって、逢瀬は数度に及んでいる。
だが、これからフェレとともにイスファハンに発とうとしている彼女だ、身籠るわけにはいかない。効き目は絶対とされている薬を事前に服んで、避妊対策は万全であったはず。その前後のあれこれを忙しく思い出していたリリの眼が、不意に据わった。
「兄さん……っ!」




