ついに……
「はっ!」
子供にしては低い気合と共に撃ち出された鉄球が、ハディードに迫っていた兵の持っていた剣を弾き飛ばす。だが、その動きは彼女の術を敵に悟らせることとなり……屈強な兵の体当たりを受けて吹っ飛ばされたマルヤムは、意識を手放した。
「ハディード様、剣を!」
自らも二人を相手取っているリリが必死であげる声にはじかれたように佩剣を抜いたものの、彼は人を斬った経験などない。その剣がぶるぶると震えているのを見た敵が、嗜虐的な笑みを浮かべながら、悠然と剣を拾い上げて皇子に迫る。
「立ち向かえ! お前が戦わねば、リリが死ぬのだぞ!」
「え、リ、リリさんが……私のせいで?」
必死で叫ぶオーランの言葉を聞いても、ハディードの震えは収まらない。そしてついに、二人を相手にしつつ頼りない皇子の方を気にせずにはいられないリリが、限界を迎えた。
「あああっ!」
ハディードの眼に、左肩を斬られたリリの姿が映った。彼女は気丈に一人の喉笛を切り裂いたけれど、痛みで生まれたわずかな隙にもう一人の兵にぶつかられて倒れ、馬乗りに押さえつけられようとしている。
「リリさんっ! ……う、うおおおおおおっ!」
その瞬間、ハディードがキレた。剣術の技もなにもない、ただ眼をつぶって、正面に剣を真っ直ぐ突き出したまま遮二無二突っ込むだけ。だが正面の叛徒は、この文官皇子が反撃してくることを、毛ほども予想していなかった……油断が彼の行動をニ~三秒遅らせ、剣を構えなおした時にはその胴のど真ん中に、ハディードの剣が突き刺さっていた。
「リリさんっ!」
そしてハディードは刺した相手に眼もくれず、リリに向かって拳を一発二発と振り下ろす兵の背中に、逆手に持った剣をためらわず突き刺した。
「ぐぶっ」
「リリさんを放せっ! リリさん、リリさん……」
まだ周囲に敵がいるというのに、ひたすら女のことばかり気にしている彼は、まさにチェリーボーイそのものであるのだが……幸いなことに、事態は片付き始めていた。異常な事態に気付いた軍団の兵たちが一気に押し寄せ、叛徒を一人一人討ち取っていったからである。敵をすべて倒した彼らが見たものは、これから主君になる若者の姿であったが……彼は頬を腫らした女を掻き抱いてひたすらその名を呼び続けていた。
「リリさん、リリさん! 死なないでください、リリさん!」
「……は、放して下さい、このくらいで……死にませんから」
「ああ、リリさん……」
リリが薄目を開いてようやっと言葉を絞り出せば、こわばっていた皇子の肩が安堵に緩む。
「私を守って……くださったのですね。ありがとう、ございます」
愛する女から向けられる感謝と賞賛の言葉で有頂天になりかけたハディードが、何かに気付いたように頬をぴりっと痙攣させる。
「つっ、そうだ……私はこの手で人を、殺めてしまったんだ……」
そうつぶやいて見つめた己の手には、先ほど刺殺した兵士の血糊が、べっとりとこびりついている。リリの無事に紅潮した彼の頬が急速に冷え、青白く変わる。
「私は、人を……」
上を下への大騒ぎになった北方軍団司令部の真ん中で、主役であるハディードは、自分の犯した殺しの罪に、ただ呆然とするだけだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「それで、あの男は?」
「かなりショックを受けてるみたいだね、アレは。野営の天幕にこもった切り、出てこないよ」
オーランとマルヤムが、呆れたように言葉を交わす。この二人にとっては大切な人を護るために他者を殺めることは、呼吸するように自然なことなのだ。自分に反逆し殺そうとした者とはいえ、初めて人を殺してしまった事実を受け止められないハディードの心情が、いまひとつピンと来ていないのは無理もない。
「そうは言え、奴には明日からこの軍団の盟主として、堂々と立ってもらわねばならんのだ。リリ、今宵は……アレを使うときではないか?」
「……使うわ」
リリの茶色い瞳に、光がともる。彼女も敵兵に手ひどく殴られたはずだが、その頬はマルヤムの治癒の業を受け、白く滑らかなものに戻っている。
「うん? アレって?」
「もう少し大人になったら、教えて差し上げますよ、マルヤム様」
ぷうと頬を膨らませるマルヤムに優し気な視線をひとつ投げ、リリは天幕を出て行った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
すでに今夜何十回目の寝返りを打っただろう。天幕の中で、ハディードは眠れぬ夜を過ごしていた。目を閉じると、己の手を濡らした生暖かい血の感触が戻ってきて……背中に汗が流れて止まらない。あれは必要なことだったと自分に言い聞かせても、本能的ともいえる恐怖が、彼を放してくれないのだ。
深いため息を吐いて、もう一度寝返りを打った彼の眼に、天幕の入口から静かに滑り込んでくる細身の身体が映った。
「……誰だ?」
「ハディード様、私です」
「リリさん!」
「お眠りになれない様子と伺いましたので」
好いた女に自分の弱さを気付かれてしまったようで格好が悪いが、こんな時におかしな男の意地を張らないのが彼の美点である。
「私は弱い男です。人を殺した感触がまだこの手に残って……あの瞬間は夢中でしたが、今になってみると怖くて怖くて、仕方ないのです」
「いいえ、ハディード様は強いお方です。人を殺めることを誰よりも嫌っているというのに、私を護るためにその禁忌を冒してくださいました。あなたは勇気ある男性です」
ハディードは、耳を疑った。これまで何だかんだと己をディスってきた娘が、自分に手放しの賛辞を贈ってくれている。そしてその娘は静かに寄り添って……身を起こした彼の頭を、控えめなその胸の谷間に、静かに抱き込んだ。
「あなたは強く、優しいお方。そして明日からは皆に対して、強く優しく振る舞わねばなりません。その活力を取り戻すために……私にお手伝いをさせてください」
「リ、リリさん、それはどういう……」
リリはその言葉に答えず、もう一度強く男の頭蓋を引き寄せた。ハディードはその胸に顔を埋め、声をあげて泣き……やがてその声は、激しい息遣いに変わっていった。




