煽ってみるテスト
夜中にふらりと訪れたファリドを、驚きつつも喜んで迎え、遠征地では貴重な蒸留酒とグラスを二つ、いそいそと出すハディード。つまみは干しナツメくらいしかないが、ぜいたくは言えまい。
「ここに来てから何かとバタバタして、ファリド殿と二人で語り合う機会もございませんでしたからね。今夜はじっくりと」
「ああ、大事な話もしたいからな」
「大事な話?」
「リリのことだ」
好いた女の名が兄とも慕う親友の口からこぼれた途端、まだグラスに口もつけていないうちから頬を染めるこの若者は、純情そのものである。
「気持ちは変わっていないか?」
「もちろんです! 妻にするなら、リリさんしか考えられません。父も許してくれましたし……条件付きですが」
「条件?」
「ひとつは、私がアスラン兄との戦に勝ち、皇太子となること。もうひとつは……リリさんを、私が口説き落とせれば、ということです」
予想通りの返答に、ファリドはニヤリとする。あの食えない親父は、こうやって息子の前に極上の餌をぶら下げ、試練を与えるのだろう。だが今の調子では、後者の条件の達成が、極めて怪しそうだ。
「戦のことは心配しなくていい、俺とラージフ殿が勝たせてやるさ。だがリリのことはどうなのか? この戦いが終わったら、彼女は俺たちとともにイスファハンへ帰ってしまうのだぞ。残酷な言い方になるが……リリにとってはお前への想いより、フェレに対する気持ちの方が強いからな」
「くっ、確かに……」
悔しそうにそう口にすると、グラスにワンフィンガー注いだ酒を一気にあおり、なにやらゲホゲホとむせているハディードの姿に、思わず微笑んでしまうファリドである。実に優秀な……博覧強記を絵に描いたような皇子殿下であるが、彼にとっては少し幼さを残した、可愛い弟みたいな存在なのだ。
「まあそこも、何とかしてやる。そのためには、俺のいうことを聞けるか?」
「も、もちろん! リリさんと添い遂げるためなら、悪魔の言うことでも聞きます!」
「俺は悪魔か……」
ため息をつきつつ、ファリドが声を低め、こそこそと彼の耳にろくでもないことを吹き込み始める。次第にハディードの眼が驚きに丸くなり、耳まで紅く染まる。
「えっ? そんなことをいきなり……それも、リリさんの方から?」
「ハディードは、したくないのか? 男なら、したいだろ」
「もちろん、したいのは間違いありませんが……いやいや、そうではなく! 私はリリさんと心からわかり合った上で、そういうことに踏み込みたいのです」
「そんなのんきなことを言っているうちに、お前のヒロインは、外国に去ってしまうぞ? 捕まえるには、これしかないと思え」
「そ、そういうことなら……」
ごくりとつばを飲み込んで、ハディードが覚悟を決める。
「よし、じゃあ次は、男としての作法を教えてやる。ここで下手を打ったら、一生の黒歴史になるからな」
「えっ、そんなことを……」「いや、そこまでは……」「なんと、アレをこうして……」
そしてファリドは、さらにろくでもない「夜の指南」をするのだった。もっとも、この道に関しては彼自身の戦歴も、威張れるレベルにはないのであるが。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ちょうどその頃。リリは、兄と向かい合って座っていた。二人の前には、二椀の茶が置かれている。時分からいえば酒を嗜みつつ会話を深めるところだろうが、常に殺意や陰謀にさらされる闇の世界に生きる彼らは、感覚を鈍らせるようなものを口にしないのだ。
「それで、あの男のことは、どうするのだ」
「どうって……私はフェレ様と一緒に、イスファハンに帰る。ハディード様が思ってくれるのは嬉しいけれど、あれは子供の時にかかるはしかのようなものだと思うの。今は熱くなって突っ走っているけれど……時が経てば冷静になって、身分に釣り合う女性を娶られるわ」
「そうかも知れんな。お前がそのつもりなら、あの男に引き留められないよう、俺と主がうまくやってやろう。だが、あの男は本気だ。あの齢になって初めて知った恋に夢中になっている……お前が想いに応えないままいなくなったら、抜け殻になってしまうかもな。いや、最悪は……」
「そんなっ!」
オーランがほのめかした悲劇の予想に、思わず立ち上がるリリ。手を付けられていなかった茶がひっくり返ってラグを濡らしていることにも気づかぬほど、呆然としている。
「私がいなくなったら、ハディード様が……そんな」
「そういうこともありうるということだ。お前だってあの男がどれほど真剣にお前を求めているか、わかっていないわけではあるまい」
「でも私はフェレ様と一緒に……どうすればいいのよ!」
「そうだな。兄としては言いにくいことだが、一人の男として助言するなら……一度だけでも、想いを受け止めてやってはどうだ?」
その眼から透明な雫をこぼし始めていた彼女の動きが、兄の言葉に凍りついた。
「兄さん、それって……」
「ああ。一度だけ、あいつに抱かれてやれ。そして、もし離れ離れになろうと、いつまでも愛していますと、耳に囁いてやるのだ。そうすればあの純情な男は、その夜の美しい想い出を一生胸に抱きつつ、立派な皇帝の役目を生涯果たしていくだろうよ。新しい妻を迎えるかどうかまでは、わからんがな」
「ハディード様はそれで、あきらめてくれるかしら……」
「あの男はバカじゃない。自分が今何をすべきかは、きちんと分かっているはずだ」
やや薄い唇を引き結んで、視線を足元に落として考えに沈むリリ。兄が三杯目の茶を椀に注ぐ頃、彼女はようやく口を開いた。
「うん。ハディード様がそれで割り切ってくれるなら、私はそうする」
その眼に宿る強い決意の光を読み取って、オーランは傍らの行李から小さな紙包みを三つ取り出し、妹に手渡す。
「なら、これをもってゆけ。あの男に気づかれぬよう服むんだぞ?」
「うん、わかってる。一包みでいいよ」
「いや、お互い初めてだ、きっと離れがたいだろう。とても一夜で済むとは思えないからな」
「……バカ」
少しうれしそうに頬を染めた妹の姿に、一瞬複雑な表情を浮かべたオーランだが……すぐに真顔に戻って、大きく息を一つ吐いた。




