モスルの姫君
「会いたかったわ!」
馬から飛び降りるなり、フェレの痩身に抱きついて、ぎゅうぎゅうと締め上げるメフランギスである。
「……ギース様、苦しい」
「ごめんごめん、大丈夫だったみたいね。貴女のナイトが、守ってくれているのね」
「……はい」
少女のように頬を染めるフェレを、もう一度きつく抱き締めるメフランギスである。その想いが強いのは当然だ。なにしろ彼女は、囚われたメフランギスと交換で、テーベに赴く羽目になったのだから。
「いろいろ活躍していること、モスルまで聞こえているわよ? ゆっくりと、後で聞かせてもらうからね」
「……それほどおかしなことは、していないけど」
相変わらず自覚が足りないフェレの様子に、幼い妹を見るような優しい眼になるメフランギスである……それほど齢は、離れていないのだが。
「まさかメフランギス様が自らおいでになるとは。モスルを放り出してきてよかったのですか?」
その声に振り向いたメフランギスの眼に、ほどよく整ってはいるが相変わらず地味なファリドの姿が映る。もっともこの青年の価値は容姿ではなく、その茶色い頭の中身なのだが。
「モスルの文官『は』優秀だからね。軍事はミラード将軍にぶん投げてきたから、安心でしょう」
文官「は」というところが、彼女の心情を表している。そう、内政官僚は優秀であっても、その上にいる王族や高位貴族が腐らせていたのが、ほんの少し前までのモスルだったのだから。だがいまやその元凶たちを、彼女とミラードたちが一掃している。
「それに、今回の援軍は、派手なほうがいいのでしょう。多くの兵を連れてくるわけにはいかなかったけれど、私が先頭に立つことで、少なくともイスファハンがハディード皇子側に立つことを、これでもかというくらいアピールできるわ」
さすがは幼い頃から権力と政略の世界でもまれてきたメフランギスである。今回の役目が看板、それも目一杯目立つ看板を務めることだと理解し、最適な行動をしたのである。伴ってきたのはわずか百騎あまりだが、元王太子妃かつモスル総督であり、ド派手な美貌をもつこの若き未亡人の姿は、早くもテーベ兵たちを魅了している。
「まさかモスル総督が来るなんて……」
「モスルの姫だった女性だそうだな?」
「すっげえ美人だぜ、あんないい女に先頭に立たれたら……俺たまんねえよ」
「カッコいい……惚れそうだぜ」
「メフランギス様!」
めいめい勝手な歓声を上げる兵士たち。さきの戦ではメフランギス自身が彼らの同胞を数十騎、その手で血祭りにあげているのだが……テーベ人はさすが武断の精神が染み通っている、過去の戦は戦として、たった今勇士が眼の前にいれば、素直にそれをたたえようとするのだ。
わらわらと彼女たちを取り囲んでいたテーベ兵の群れが、不意に割れる。そこをゆっくり進んでくるのはもちろん、司令官を引き連れたハディードである。
「お初にお目にかかります。テーベ第三皇子、ハディードです」
「イスファハン王国モスル総督、メフランギスです。偉大なるテーベの皇室に連なる方にまみえたこと、光栄の極み」
メフランギスがあたかも騎士のように、ハディードの前で膝を折る。彼女も本来は王族、身分格は同等であったのだが……あえてへりくだることで、兵たちに与える影響をより高めようというのだろう。
その意を理解したのだろう、ハディードも紳士の礼をもって彼女を立たせ、見守る兵士たちの前で、まっすぐに視線を重ねる。
「遥かな道のりを、はるばるよくおいで下された。我々が使いを送ってから、さして日が経っていないというのに……」
「我々とて境を接する強国の事情には、耳目を働かせております。いずれこのような要請があるものと、準備をしておりましたから。そして今回伴ったのは、イスファハンの誇る精鋭部族軍、この程度の距離ならば一気に駆け抜ける者たちです」
賛辞に応えているようでいて、メフランギスの言葉にはいろいろと外交的な修辞が混じっている。彼女の言葉を意訳すれば「お前の国のことは常に偵察して、何でもわかっているぞ」「イスファハンの武力ならこのあたりを電撃制圧することもできるが、あえてやらないのだぞ」ということなのだ。
その意図をもちろん理解しているハディードは、柔らかく微笑んで応じる。
「ご安心ください。私たちはすでに『軍師』と『魔女』……いや『女神イシスとその神官殿』と申し上げるべきか……その偉大な力を十分承知しております。彼らを擁するイスファハンと対立するような勇気は、私にも、父である皇帝にも、ございません」
「それを聞いて安心いたしましたわ。テーベとは末永く、良き関係を築きたいと考えておりますもの」
「ははは……もちろん、頼れる隣国イスファハンとは、仲睦まじくいたいもの」
花が咲くような笑顔になったメフランギスだが、気の弱いハディードからすれば、まるで野生の雌豹にロックオンされたかのようで……背中に冷たい汗をかきながら、愛想笑いを返すしかないのだった。




