マルヤムとリリ
かくしてファリドたち一行は、多少の心理的抵抗はあれども、なんとか東方軍団に受け入れられた。
「ねえ母さん、帝都に戦争しに行くんじゃなかったっけ? まだ出かけないの?」
「……戦には、十分な準備がいるもの。今はその時期」
「準備って? どんな準備?」
「……それは、リドの考えること」
首を傾げる愛娘にしたり顔で気の利いた答えを返したフェレだが、結局のところファリドへの思考丸投げがバレてしまっただけの結果に終わる。もっともフェレ自身は男に責任を押し付けることをカッコ悪いとも恥ずかしいとも思っていない……それこそ唯一のパートナーへの敬愛、いや絶対的信頼、むしろ信仰に近いものであるのだから。一つ首を傾げ、微妙な顔をしながら医療所に走っていくマルヤムを、薄い微笑みを浮かべて見守るフェレである。
「マルヤム様は、さっそく軍隊生活になじんでしまいましたね」
「……うん、あの子はいい子だから」
深い感慨を込めてリリが口にした言葉をまるっとシンプルにまとめてしまう、親バカ全開のフェレである。確かにいい子には違いないが……魔族である彼女が人々の信頼を勝ち得ることは、旧き言い伝えや慣習、そして迷信に支配されたこの社会においては、本来ならなかなかの難事であったはずだ。
マルヤムはそれを、あっさりと為し得てしまった。
一家が東方軍団に合流したその日、演習で眼に刀傷を負った兵士が運ばれてきたのを見た彼女は、迷わず駆け寄って……オアシスの老婆から教わった癒しの魔術を、全開で使ったのだ。頭に巻いていたスカーフが風で飛んだことにも、気づかないまま。
潰れたはずの眼に巻かれた包帯がほどかれた時、兵士は何事もなかったようにその眼が光を感じられることに驚き、狂喜した。そしてその視野に映ったのは、愛らしい笑顔を浮かべる美少女……その頭の上にちょこんと乗った魔族のシンボルである角が、絶望の淵から救い出された彼にとって、天使の輪であるかのように感じられたのは、人間の感性が、いかに自分勝手であるかということの証左であろう。
とにもかくにも彼は、かくしてマルヤムを天使として崇め、その尊さを説く伝道者となった。そしてこうした地方軍団では、横のつながり……仲間意識はとりわけ強い。戦友に希望を取り戻させた少女への傾倒は、見た目の愛らしさも手伝ってどんどん伝染してゆき……今や彼女は軍団のどこへ行っても歓声とともに迎えられる存在になっている。帝都にいる頃は人々との無用な摩擦を避けるため手放せなかった角隠しのスカーフも、もはや身につけることはなくなっている。
そんなこんなで連日、マルヤムは有り余る魔力をオーラン直伝の殺人技ではなく、怪我人の治療に振るって、無自覚に信者を増やしているというわけだ。万を超える兵を抱える軍団では戦闘がなくても毎日数十人の怪我人や病人が出るもので……たまには重傷者も出るのである。
そこにひょっこりと可憐な少女が現れ、触れるだけで傷を癒し、無邪気に笑いかけてくれるのだ。歓迎され、感謝されないわけはない。指揮官と和解したとはいえ、兵たちとは感情面で微妙な空気が流れる両親と違って、マルヤムに向けられる好意には裏表がない。たまにはその頭上にある角を指さして何やらわめく頑固な者もいないではないが、そんな奴は若い兵士たちに無言で物陰に連れ去られ、ボコボコになった姿で放り出されてしょんぼりしている姿を発見されることになるのだ。
皆から大事にされ、可愛がられている愛娘の姿を、仏頂面を崩してかなり幸せそうな顔で眺めるフェレが、ふと何かに気づいたように振り向く。
「……ねえ、リリ。ハディードの護衛は、いいの?」
「ここに着いてから、ハディード様には軍の方が大勢ついてくれていて、とても私がしゃしゃり出るような場面ではありませんが……」
「……リリは、それでいいの?」
「いいか悪いかというような話ではありません、仮にも皇子殿下のそばに外国人の、身分も卑しい女が侍っているなど……テーベの方々にどう思われるか」
「……そんなこと関係ない。ようは、ハディードとリリが、お互いどう思っているかどうか。ハディード自身は、どんな勇士より、リリに護ってほしいと思っているはず」
その言葉に、リリがその白い首筋を紅く染める。
「……大丈夫、テーベの人たちは、リドが黙らせる」
ここへきても、なお面倒ごとの解決は男に丸投げという、残念な彼女である。そんなフェレとしばらく視線を合わせていたリリが、何かを決心したようにぐっとこぶしを握った。
「フェレ様、失礼させていただきます。兄さん、フェレ様とマルヤム様を、お願い」
まるでツバメのように軽く身を翻して走り去るリリの姿に、フェレがラピスラズリの眼を優しげに細める。
「本気のようですね……仕方ありません。いよいよ『アレ』を実行する時が来たようで」
「……はぁ。やっぱり、やるんだ」
気配を消していたオーランが諦めたような声でその妹を見送り、フェレが小さくため息をついた。




