たまには闘うよ
「ま、待って下さい! この方々は、テーベの戦勝に貢献しただけではなく、私の……いや、父と伯父の恩人なのですよ!」
「殿下にとって大事な者かも知れませんが、我々にとっては万を超える部下をほふった、憎むべき連中です、決して許すわけには行きません! そこをお退き下さい!」
「しかし!」
自らの身体を盾にしてファリドたちを護ろうとするハディードを、ファリドがゆっくりと押しのけた。
「俺たちがテーベの東方軍団に、数え切れないほどの被害を与えたのは事実だ。だが、俺たちはまだ形式的には皇室の『客人』だ。貴官に、客将を私刑で殺す権限があるのか?」
剣を抜いてしまった将校が、ぐっと詰まる。そんな権限など、あるはずがない。彼がファリドを傷つければ、皇室の信義は大きく損なわれ……皇帝が権力を取り戻した暁には、間違いなく重い罰が下されよう。
「む……ならば、剣を抜け! 決闘だ! 貴族の誇りをかけての決闘であれば、私刑ではない、抜け!」
「ファリド殿、応じてはいけません!」
どうしてもファリドを斬り捨てたい将校がとっさに編み出した裏技に、ハディードが顔色を変える。
確かに貴族同士が名誉をかけて行う決闘ならば、相手を手にかけても罪に問われることはない。もっともそれは、相手であるファリドが応じなければ成立せず……普通に考えれば、受ける義理は何もない。だが、ファリドは将校にまっすぐ視線を向けた。
「俺が勝ったら、俺の家族に手を出さないよう、部隊の連中に命じろ。それなら相手をしてやる」
「何だと? そんなことは……」
「約束しないなら、決闘などしない。俺はもともと貴族なんかじゃない、そんなご大層な名誉も矜持も持っていないからな」
「くっ……わかった。副官! お前が証人だ、いいか?」
副官がうなずくと、ファリドもシャムシールを抜いた。将校は剣を青眼に構えると、一気に床を蹴った。
「参るぞ!」
真剣同士が打ち合わされる、ガッというような鈍い金属音が響く。続けざまに繰り出される剣撃に、ひたすら受けに徹して剣を合わせるファリドの姿が、ちょっと見は押され気味に見える。
「ファリド殿!」
「大丈夫だ。我が主は余裕をもって防いでいる。実力は優っているだろう」
思わず一歩前に出たハディードを、オーランが冷静に制する。そう、一見攻撃側が優勢に見えるやりとりだが、先手を取られっぱなしでありながら、ファリドは攻撃を完璧に受け止めているのだ。力が劣る側に、できることではない。
攻防を見守るフェレは、仏頂面を動かしもしない。愛する男を信じているのか、いや、よく見ればそのこめかみに、汗の粒が浮いている。
そうしているうちにも、一方的な攻撃は続く。その打ち込みが五十を超えるかと思われたころ……さすがに息切れしたのか、将校の肩が少しだけ下がった、その時。
これまでかかとに乗っていたファリドの重心が瞬時につま先へ移り、その身体が一気に将校のふところに飛び込んだ。前掛かりに攻め続けていた将校はその急変化に対応できず、ほんのコンマ数秒だけ反応が遅れ……彼が防御の姿勢を取ったときには、切り上げられたシャムシールの先端が、利き手の手首を切り裂いていた。
ガシャンと音を立てて床に落ちた剣を部屋の隅に蹴飛ばし、ファリドは相手の首筋に、刃を突きつける。
「俺の勝ちで、いいな?」
「……」
「どうなんだ?」
「こ、殺せ!」
「俺はテーベ軍に何の恨みがあるわけでもないし、この後の戦いで力を借りねばならない立場だ。あんたを殺しても何の得もない……これ以上軍の中に敵を作りたくないからな」
そう、ファリドは最初から自身の勝ちを疑っていなかった。彼は直接戦闘で無双する英雄ではなく、十人で剣技を競えば安定の二番目、その程度の腕前である。だがそれは逆に言えば、九人中八人には、勝てるということなのだ。腕一本でたたき上げてきた将校ならともかく、貴族であるがゆえに指揮する立場にいる者に、負けるなどとは思っていない。
だが、ただでさえ東方軍団には恨まれているフェレとファリドである。この上、高級将校を斬り殺したとなっては、今後何かと摩擦を生むであろう。そう考えて彼は将校の身のこなしを慎重に観察して……この相手なら殺さず無力化できると判断して初めて、決闘を受けたのだ。
「どうなんだ?」
「…………私の負けだ。連れの安全は保障する」
流血が止まらない手首を押さえながら絞り出した将校の言葉に、ファリドが頬を緩める。
「マルヤム、頼んでいいか?」
「うん、任せて!」
明るい声が響いたかと思うと、うずくまった将校のもとへ、少女が跳ねるように近づく。その頭上に角があるのに気付いた彼が、驚愕の表情を浮かべる。
「ま、魔族! おのれっ!」
「我が家族を傷つけないと誓ったばかりではないのか」
「むっ……た、確かに。失礼した……魔族を家族としているとは想像できなかった」
素直に謝罪する将校に、ファリドが少し感心したような顔をする。怒りで我を忘れていたかもしれないが、悪い奴ではないのかもしれないと思い直しているようだ。マルヤムも一瞬だけ立ち止まったけれど、今度は男を驚かせないようにゆっくりと隣に寄り添い、まだ鮮血がどくどくと流れ出してる手を、恐れる様子もなく取る。
「おじさん、少しだけ我慢してね」
「うっ……」
将校がうめく。マルヤムの両手に挟み込まれた傷が、不意に温かく感じられたゆえである。傷の熱い痛みとは別の、なにか母に包み込まれるような、そんな感覚だ。
「もう少しだからね……」
少女にしては低い声で、優しく語りかける魔族少女に、いつしか彼は警戒心を解いていた。魔族への恐れが消えたわけではないが、感じている心地よさが、痛みや恐怖を麻痺させているのだろうか。
「はい、終わったよ」
我知らずまぶたを閉じてしまっていた彼がその声に応えて自分の手首を見れば、まだ鮮血に染まっているけれど、傷口は完全にふさがっている。さっきまでずきずきと襲ってきていた痛みも、すでにない。
「な、なんという……」
将校は、眼前の少女に、神の姿を見た。




