反撃の準備
それからしばらく、彼らは渓谷に守られた拠点にとどまった。軍勢の再編をするのに時間がかかった面もあるが、何よりアスランを離れこちらに味方をするよう誘う使者をあちこちに出し、その返答を待っていたということが理由だ。
「ヤシン卿、よく来てくれた」
「はっ、至尊の冠を戴かれる方のもとに疾く参ずるは、われら貴族の崇高なる務めでありますれば」
目端の利く中小の貴族が、早くも参陣し、南方軍団と合流を始めている。
重鎮とは言えない層の貴族たちにとって、この内乱はある意味チャンスである。いち早く皇帝の元に駆けつけて顔を売れば、こと成った後の覚えはめでたく……うまくすれば顕職を得られる可能性がぐっと高まるだろう。
これまでは、アスランに対抗する旗を立てる者がいなかった。
東方軍はムザッハルの子飼い、それを害して権力を簒奪したアスランに決して従うことはないであろうが、その旗印はすでに亡い。息をひそめて機会を待っているのだろう。
一方西方軍には、アスランの影響力が強い。一連のムザッハルによる英雄的な戦勝で彼にシンパシーを感じる者も多いが、何しろ幹部をアスラン派でがっちり固めている。帝都の権力者たちにとっては、一番頼れる部隊だ。帝都周辺に駐留する中央軍も、同様である。
北方軍は明確な色のついた勢力ではない。帝都からもたらされる指令に従って戦う者たちであり、今のところこの混乱に、沈黙を守っている。
南方軍は本来皇帝、というより皇兄サフラーに忠誠を尽くす集団であったが、幹部をアスラン派に入れ替えられて抵抗の手段を奪われていた。フェレの活躍で、ようやく皇帝側が支配権を取り戻したところである。
各々の領地で野心を燃やす者たちもいるが、馳せつける先がなければ、動きようがない。ぎりぎりと唇をかんでいたところに、突然の使者が訪れるのである。皇帝と皇兄、そして後継者たる第三皇子は南方にあり、これを扶けて帝都を叛乱分子から取り戻すべしと。彼らの半数以上は勇躍して、われこそは一番乗りするぞとばかりに南方拠点に向け馬やラクダを疾駆させたというわけである。
だが、残る領主たちの行動は異なった。彼らの目には、辺境に逼塞した皇帝よりも、帝都をがっちりと抑え、軍のほぼ半数を手中に収めているアスランの方が、最後に勝利を収めるであろうと見えたのである。彼らにとって貴族の務めは騎士の誓いを守ることなどではなく、確実に勝ち馬に乗ることで領民の暮らしを守ることなのだ……それもまた、一つの真理といえる。
「お味方は続々集まっていますが、これは諸刃の剣というところで」
「なぜだ?」
ファリドの言葉に、意外そうな表情を向けるアレニウス帝。
「檄を受けてこちらに参じる者はおよそ六割ほど。心強いことですが、残る四割を……今まで日和見を決め込んでいた連中も含めて、アスラン側に追いやってしまったということになるでしょう」
ファリドは表情を変えず、フラットに説いてゆく。皇帝の命を受けて参戦しなかったということになれば、皇帝側が勝利した暁に罰せられることは必定。それならば、アスランに与して皇帝勢力を撃滅する方に生き残りを賭ける……そう考えるのは自然なこと。駆けつけて来ない者は、アスランの元に一気に集まるだろう。
「む……確かにそうやも知れぬ。ならば『軍師』は、いかがすべきと思うのか?」
短い間に、皇帝はこの若者をだれよりも、そう今や自分の子よりも、信頼していた。
無理もない、これまで彼のもとに侍るのは、権力や金銭を求め、理想も経綸もない者たちばかり。いや、そうでない者もいたはずなのだが……帝を取り巻く権力者たちが、高潔な人材を彼に近づけないように画策していたのだ。
だが、この若者はどうだ。皇帝への敬意などは最低限しか持ち合わせていないようだが、その言葉には、深い信義がある……約束したことは必ず実現すると。そのために己の知識と、類まれな思考能力を、惜しげもなく供してくれるのだ、本来敵国の君主である、自分に向けて。
そして彼は、この国の貴族どもが欲してやまないものを、何ひとつ求めていない。領地も、顕官も、黄金も。彼が何より望むものは、まわりにいるほんの数人が、故国で平和に暮らすことでしかないのだ。皇帝が与えることができる何物をもってしても、彼の忠誠を得ることはできない。「こと成った後はイスファハンへ帰す」という約束、それのみのために、力を尽くしているのだ。むしろそれゆえ、どんな部下よりも信頼できると、アレニウスは思う。
「はい。これ以上滞陣して貴族が集まるのを待つよりも、動き出す姿を見せましょう。断固とした陛下の姿勢を見て、意を決するものもいるでしょう。それに……あまり中小貴族に頼るのは、平定後の治世にとって良くはありません」
そこまで考えてくれるのかと、意外な思いに打たれる皇帝である。この若者にとって、大事なのは故国に帰ること、その後のテーベが安らかであろうと荒れようと、どうでもよいはずではないかと。そんな思考が顔に出ていたのか、ファリドが言葉を継ぐ。
「強大な隣国であるテーベが乱れれば、イスファハンとて無事ではすみません。そして何より、この国にはわが友ハディードと……家族同然のリリが残るのです。彼らの平穏を願うのは、当然ではありませんか」
「うむ、ありがたいことだ。で、どうすべきだと言うのだ?」




