皇女を救え
「あの女性はいったい……?」
戦場と我が家をひたすら往復してきたファリドのことである。もちろんテーベの上流階級とは、交流がない。ましてや男社会のテーベのことだ、パーティーでもなければ公式の場に出てくることがない女性に関しては、ほぼ面識がないと言って良い。驚きで呆けているような顔をしている皇帝に事情を問うのをあきらめ、一歩前に立つ皇兄サフラーに声をかける。
「あ、ああ。あれは……アレニウスの一人娘、ナーディアだ」
「え? なんで、王室の姫がこんな辺境の砦に??」
「おそらくナーディアは……ムザッハルを殺しアレニウスを監禁したアスランの行いを、正面から激しく断罪したのではないか。大人しくしておれば苛烈な扱いを受けなかったであろうに……若い娘らしい正義感から、黙っておられなかったのだろう。それで辺境に幽閉されたというところではないか。とにかく気の強い、お転婆娘なのだ」
小さくうなずきつつ、これは困った事態になったと心の中で頭を抱えてしまうファリドである。皇帝のあの慌てぶりを見れば、きっと眼に入れても痛くないほど溺愛していた娘なのだろう……その生命を引き換えに要求を突きつけられれば、抗えないのではないか。
悲観的な予想を頭に浮かべながらも、素早くフェレに目くばせすれば……ラピスの瞳が了承の意を返してくる。もちろん、こんな場合の策も、一応は用意しておいたのだ。
「ナーディア……」
娘の名をつぶやきつつ、その爪から血がにじむほど強く拳を握りしめている皇帝の姿に、ファリドはこれから敵が要求してくるであろうあれこれの譲歩条件を、忙しく頭の中で予想していた。しかし次に皇帝の口から出た言葉は、ファリドが考えていたものとは全く違っていた。
「この愚か者めらが! 娘の生命を盾に取れば、大国テーベの皇帝を屈服させられるとでも思ったか! 儂には、テーベの民を外敵から守り、飢えさせぬよう養う責任があるのだ! そのような脅しに屈することは、決してあり得ぬわ!」
―――私情を殺しても国益を優先できるとは、さすが大国の君主だな、俺が心配することではなかったか。
とはいえ、砦から見上げる者たちには見えないであろうが、きっぱりと雄々しく宣言したはずの皇帝の足は、細かく震えている。皇子たちに対しては冷酷とも見える態度をとっていたこの男だが、こと一人娘の話になれば……まさに身を裂かれる思いなのだろう。
「いつでもいけるよ?」
ファリドの左手をきゅっと引いて、マルヤムがアピールする。自分に任せれば一発の鉄球で、おそらく司令官であろうあの男を、葬り去れると。
「いや、今回は母さんに任せるんだ」
あえてファリドは、暗殺技に長けたこの魔族娘を制する。
あの司令官は、鉄の防具で堅く身をよろっている。鉄球の初撃が防具に阻まれ、即死させることができない可能性を、ある程度考えないといけないだろう。おそらくアスランの取り巻きであろう司令官は、戦いになど慣れていないであろうし、従って度胸もない。こちらが自身の生命を脅かしていると自覚すれば激しく恐怖し、発作的にその刃を姫に向かって振り下ろす危険性が大きい……やはりそれは避けるべきだ。そしてできれば、首魁に近い人物はできる限り生きて捕えたい。
「う、うん」
素直に引いたマルヤムが視線を向けた先で、彼女が敬愛する母が、敵の司令官を真剣に睨んでいたかと思うと……ほんの少しだけ、気合を入れた。
「……っ」
何か、司令官の頭部まわりが、暗赤色にかすんで見えた気がした、その時。
「うぐっ、ごほごほうほ……う、うぉ……」
突然、ナーディア姫を捕えていた司令官がその手を放したかと思うと、次は激しくせき込み、何やらもがき苦しみつつ床に崩れた。
そして囚われの姫は、果断な性格と明晰な判断力を持っていたらしい。状況を悟るやいなや、両手を背中に縛られたままで駆け出し、本陣の高台から兵たちの群れる広場に向かって全力で跳んで……屈強な男たちが戸惑い驚きつつも、この若い娘の柔らかな身体をなんとか受け止めた。
「ナーディアっ!」
愛娘が死地を脱したことを視界に収め、この厳格な皇帝の膝から力が抜ける。その腕を隣から支えつつ、皇兄がファリドを振り返る。
「今がチャンスだ、一気に支配権を取り戻そう」
「ええ、そうしましょう。フェレ、着陸するぞ」
「……ん」
フェレがうなずくと、彼らを乗せた「砂の膜」がすうっと、広場の中央、ちょうど兵の背丈くらいの高さまで高度を下げる。同時に、いつの間にか兵士の手で下ろされた跳ね橋を通って、サフラーに従う三千の兵が一気に、だが整然と砦に入城してくる。
「これよりこの拠点は、皇帝陛下に忠誠を誓う、元大将軍サフラーの指揮下とする! 抵抗する将校は捕らえよ!」
「うおおおっ!」「皇帝陛下ばんざい!」「サフラー大将軍ばんざい!」
皇兄の力強い宣言に、もはや抵抗の声は上がらなかった。南の拠点は、ファリドたちの手に落ちた。




