色ボケ?
「リリ殿、お辛くはありませんか」
「は、はい。私はもう大丈夫です。殿下こそお疲れでは……」
「ああ、リリ殿に励まされ鍛えられたおかげで、私もずいぶん体力がついたようだ」
「わ、私は別に殿下を励まそうとしたわけではなく……行軍を遅らせないためにっ」
頬を桜色に染めてぷいと顔をそらすリリに、何やら甘ったるい視線を送るハディード。
「そうなのかも知れませんね。ですが貴女の言葉で、私が奮い立って強くなったのは、事実なのです。本当にありがとう」
「ど、どういたしまして! もう私のことはいいですから……」
「まあ、この状態では離れようにも離れられませんね」
「はぁ……」
そう、ラクダの背に乗って進むリリは、その背中からすっぽりとハディードの身体に抱え込まれてしまっているのだ。リリはフェレとの二人乗りを希望したが、このチェリーボーイ皇子の強い強い希望により、不本意ながら男と身体を密着させて一日を過ごす羽目になっている。もちろんフェレとともに騎乗するのはファリド、マルヤムとはオーラン、皇帝はオアシスの戦士娘といったペアリングである。
リリの回復を待って進発した一行の目的は、むろんテーベ南方軍団とのコンタクトである。皇兄サフラーの説得工作が奏功しているかどうかはまだ判然としないが、とにもかくにもまとまった戦闘集団を確保せねば、皇都を取り戻すことはおぼつかない。オアシスの戦士たちから二十人ばかりを選抜し、ラクダ隊を組んでの行軍である。
すでに彼らはテーベの領内に入っている。ある意味敵地を進んでいるのだが、ハディードに危機感はうかがわれず、ただ好いた女とくっついて旅をする興奮しか感じられない。もちろんテーベ軍も皇帝が砂漠から現れることを予想しているとは思えないが、なにしろ呑気なことである。
「なあ、大丈夫なのか、あの殿下は?」
ラクダを寄せてきた族長ジャミルが、ファリドに話しかける。離れてやり取りしていた間はひたすら理性的であった交渉相手が、会ってみればまるで飼い主に懐く犬のように女のまわりから離れようとしないのである。不安にもなろうというものだろう。
「大丈夫ですよ。彼の本質は他者を思いやる優しい心。そして類まれな内政能力、理性的な判断力を持つ男です、どうか信じてやってください。まあたった今、初めての恋にちょっと羽目を外しているのは確かですが……」
「あれは『ちょっと』じゃ済まないだろう? やっぱり、殿下はどうて……」「こほん」
男同士の話が下世話な方向に向かってきたところで、ファリドの胸に抱かれていたフェレが、わざとらしく咳払いをする。
「いや、これは若き女性の前で失礼。まあ、男にはそういう時期があるものだからな」
「まったくだ。ひたすら真面目に身を慎んで役目に励んでいたハディードが、若い娘にあれほど夢中になってしまうとはな。第三皇子ゆえ放っておいた面はあるのだが……無理にでも女を教えておくべきだったかも知れぬな」
族長のフォローになっていないフォローに、真面目な答えを返したのは、後方のラクダに揺られる皇帝アレニウスである。正室一人側室二人を抱えつつも愛人級の新しい女を次々と並べる長子アスラン、多少の浮名は流しつつも特定の女をつくらず勧める縁談ものらりくらりとかわすムザッハルを見ていた彼には、まったく女の匂いがせず政務に精励するハディードの姿は、好ましいものに見えていたのだ。二十歳過ぎまでこじらせたあげくあんな風に女に懐きまくってしまう姿は、想定外であった。
「い、いや、相手があの娘であることに不満はないのだぞ。あくまで、ハディードの姿が……あれで武断の国テーベの主としていかがなものかというだけで、他意はないのだ!」
ニヤニヤしつつ我が子の物慣れなさをディスっていた皇帝が、慌てて言い訳めいた言葉を吐き出し始めたたのは、フェレがファリドの肩越しに振り向いて、強烈に冷たいラピスラズリの視線を突き刺してきたからである。
「……そっか、ならいい」
大国の皇帝に対する態度としては不遜極まりないフェレの台詞だが、結局のところ彼女にとって尊ぶべき男はファリド一人なのだ。もちろんしかるべき場所ではきちんと上流階級の振る舞いができる彼女だが、愛する家族を軽んじられたと感じた時は、相手が誰であろうと牙をむく。
「フェレ、陛下はリリについて何かおっしゃっているわけではない。この国の主に対する敬意を忘れてはいけないよ」
「……ごめんなさい」
愛する男にたしなめられれば、飼い主に叱られた犬のようにしゅんと縮こまってしまうのも、またフェレである。その変貌ぶりに何か言いたげな皇帝であったが、かろうじて思いとどまる。やろうと思えばイシス神にもたとえられる理不尽な荒業を繰り出せるフェレをいじるのは、油がいっぱいに収められた倉庫の中で焚火をするようなものだ。無駄な危険に近づかない程度の分別を具えたこの経験豊富な君主は、話題を変えた。
「南方軍団の拠点までは、あとどのくらいであろうかな」
「明後日の午前中には、様子が窺えましょう」
族長ジャミルが、笑いをこらえつつ、真面目に答えた。




