不器用な告白
「リ……リリ殿は、いらっしゃらないのですかっ」
「ちょっと夜風に当たりたいと言って、池のほとりに出ていった」
オーランにギロリと睨まれ、情けなくビビるハディード。まあ、想い人を溺愛している兄など、怖いという以外の感情が湧くわけもないであろう。ましてこの兄がイスファハンでも三指に数えられるであろう暗殺者だということを、知っているのだから。
だがオーランは塩対応をしているようでも実のところ、今なら妹は一人だ、チャンスだぞと、わざわざ男に教えてやっているのだ……なんと寛大な暗殺者ではないか。
ペコリと頭を下げ、そそくさと教えてもらった池に向かって去っていくハディードに、生温かい眼を向けるファリドたちである。
「いよいよ、だろうな」
「そう……なんでしょうね」
「寂しくなりそうだ……家族のようだったからな」
「まだ、リリがうんと言うと決まったわけではありません」
―――いや、ほとんど負け決定だろう、オーランよ。
そんな感想は胸の中にしまって、ファリドが砂漠特産の強い蒸留酒を、口に運んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
オアシスのはずれに新しくできた池のほとりに、リリは立っていた。その視線ははるか虚空に浮かぶ星の海に向かい……なにやら物思いに浸っているかのようだ。迷いに満ちた深いため息を彼女が吐いたその時、後ろから遠慮がちな声がかけられる。
「リリ殿……ご一緒しても、よろしいですか?」
「ど、どうぞ」
あの負傷以降、気持ちよくズバっと切り捨てるいつものトークができなくなっている自分に、戸惑うリリである。この男の、なにか飼い主に愛撫を求める犬のような表情を見てしまうと、用意していたしょっぱい台詞が溶かされて、まるで自分が何も知らない少女に戻ったような気がしてしまうのだ。
「月が、綺麗ですね」
「……ええ」
そんな物慣れない台詞しか返せない自分がもどかしい。一族の故郷では、こんな言葉を吐かれたら「あなたと一緒に観るから綺麗なのです」と返すことを、叩き込まれたというのに。もちろんそれは、男を籠絡して機密を吐き出させる、不純な目的なのだが。
「リリ殿、ありがとうございます。改めてお礼を申し上げたいのです。貴女がその身をもってかばってくれなければ、私は今頃、この世にいませんでした。貴女は生命の恩人です」
「私は……自らの役目を果たしたまでです」
そんな感謝の言葉じゃなく、他の言葉が欲しい……そんなことを考えてしまっている自分に、リリは驚いている。いつの間にかこの塩対応娘も、誠実な男の真っ直ぐな想いに、ほだされてしまったようである。
「リリ殿」
「はっ、はい」
噛むまい噛むまいと念じていたというのに、やはり噛んでしまうリリである。こんな場面では、故郷で積んだ血のにじむような鍛錬が、何の役にも立たないのだ。
「私は、テーベの皇帝を目指そうと思います。アスラン兄には民を守る能力も意志もありません。ムザッハル兄亡き今は、テーベの民を安んずる役目を、私が果たすべきだと思っています」
「はい……お国のためには、それが適切だと思います」
予想通りの言葉に、できるだけ感情を出さないように答えながら、思わず覚えた落胆に、戸惑うリリである。何を期待していたのだろう、まさかこの大国を率いるべき皇子がその地位を捨てて、自分との貧しくとも平和な暮らしを求めてくれるとでも、思っていたのだろうかと。意識せず眼から何かがじわっと湧き出してくるのを、ぐっとこらえて次の言葉を待つ。
だが、リリの前にいる男は、彼女以上にこういうシチュエーションに慣れていなかった。こめかみから汗をにじませ、さっきから顔色を赤くしたり青くしたり、忙しく変えている。そんな様子を見ていると思わず母性が目覚め、緊張していたリリの口元にも、思わず微笑みが浮かんできてしまう。
その微笑みをどう解釈したのか、ハディードの顔に喜びの色が浮かび、その首筋から汗が引いてゆく。なぜだか落ち着きを取り戻したらしい彼が、大きく息を吸って……この時のためにさんざん考えて、推敲を繰り返したであろう台詞を、一気に吐き出す。
「リリ殿。私はこれから、帝国の頂点に立つため、戦ってゆくつもりです。皇都と貴族たちを兄におさえられ、自身に武の心得がない私にとっては厳しいものとなるでしょうが、挑むと決めたのです」
まだ前置きしかしゃべっていないというのに、こんなところで思わず女の顔色をうかがってしまう、ヘタレな皇子である。リリの眼が柔らかい光をたたえて彼をまっすぐ見つめているのを確かめて、ごくりと一つつばを飲み込んで、ようやっと後を続ける。
「どうか、私とともに戦っていただけないでしょうか。私が間違っていたら正し、知らないところを教え、ふらふらしていたら励ましてほしいのです。そして、もし事が成就した暁には、私の隣に……かけがえのないパートナーとして、立って欲しいのです」
半ば予想していたとはいえ、十分に衝撃的なハディードのプロポーズに、リリは大きく肩を震わせる。
「私は……ハディード殿下のお相手としてふさわしくありません。他国の、しかも卑しい身分の出。そしてこの手は、すでに多くの人間の血で濡れております」
「知っています。ですが私は、もう貴女以外と人生を共にすることは、考えられないのです……リリ殿、私の妻になることは、お嫌ですか?」
ここで「貴方なんか嫌い」と言ってしまえば、臆病で思いやりあふれるチェリーボーイは攻略を諦めてくれただろう。だがリリは、その道をとらなかった。
「そうなったら素敵だと思います。ですが私は、フェレ様に生涯お仕えすると誓った身。この国に残るつもりはありません」
多少婉曲ではあるが、明確な「お断り」の文句である。だがこの皇子は、それを聞くなり表情を輝かせた。
「私がお嫌いではないのですね! ならば私は、うんと言っていただくまで諦めません。今日のところは引き下がりますが、覚悟してください!」
いきなり元気になってアピールを始める男の姿に、リリは自分の失敗を悟った。




