芽生える気持ち
岩山を穿つ洞穴の奥で、ハディードが仰向けに横たわり、死んだように眠っている。その額に甲斐甲斐しく濡れた布をあてがい、口元に水を含ませてやっているのは、先ほどまでクールな風情でこの皇子を追い立て急がせていた、リリである。
「書類仕事ばかりで、山歩きなどしたこともなかったのだろうな。よく頑張ったよ」
「……そう、リリはもう少し優しくしてやるべき」
尊敬する主人たちから生暖かい視線を受け、あさっての方向を向いてしまうリリである。その頬が少し上気しているように見えるのは、気のせいではないだろう。
「ほほう、無慈悲な暗殺姫にも、ついに春が来たかの」
「余計なお世話ですっ!」
珍しくからかうアフシンに、今度こそ首筋まで紅く染めてリリが言い返す。ファリドとフェレは明るく笑い、離れてその様子を見ていた皇兄も、いかつい顔つきを少し緩める。
城砦の追手から逃れた一行は、テーベ南西部に広がる山岳地帯に入っていた。
乾燥した赤っぽい岩山が続く不毛地帯だが、地形は複雑で、あちこちに自然の洞穴があるため、身を隠すところには困らない。飲み水を得ることが容易ではないため普通の旅人が選ぶルートではないが、雲が出ている限り水を集めることができるフェレを擁する彼らは、迷わずここに踏み込んで、追ってくる兵士を振り切っていた。
一旦逃げ切った安心感に和む一行の中でただ一人オーランだけが、気遣わしげな視線を妹に向けている。それに気づいたファリドが、彼を物陰に引きずり込む。
「どうしたんだ、オーラン?」
「うむ……どうも妹は、あの礼儀正しい若者に惹かれているようで」
「やはり、そうか……まあ、それ自体は悪いことではないだろう」
「いや、高貴な男と関係を結ぶのはダメです。一夜限りの遊びならともかく、本気になったら必ず、リリが不幸になるでしょう」
「ハディードは誠実な男だし、もてあそんで捨てるようにも思えないが……」
「そういうことを心配しているわけではありません、イスファハンのアリュエニス妃のためしがあるではありませんか」
オーランが、ファリドだけに聞こえる声で言葉を補う。
イスファハンの諜報、暗殺、要人警護など、闇仕事をカネで請け負う「ゴルガーンの一族」は、貴人の傍に常に侍り、最も近い存在となることが多い。特に男性貴族の護衛を務める女性は、ともに危険を乗り越える関係であることもあって、一線を越えて親しくなることも、決して珍しくないのだという。ちなみに古代文明ではこれを「吊り橋効果」と言っていたようである。
中級貴族の当主あたりの手がついて妾に納まったりするケースは、なんとでもなる。一族への仕送りを細々と続けつつ、跡継ぎにはできないものの子供をつくって平和に一生を送れる幸せな事例も、ままあるという。
だが、高位貴族、ましてや王族と関係を持ったら、そういう訳にはいかない。その子には当然継承権が生まれるが、貴族たちから見れば「人間ではない」下賤な一族の血を引く子が、高貴な家を継ぐことなど、周囲の者が認めるわけもなく……そこには血みどろの暗闘が待っているのだ。
イスファハンの先王は、高貴な青き血の持ち主でありながらも、誠実な男であった。忠実な傍付き護衛であったアリュエニスと育んだ関係を身体だけのものとせず、貴族や官僚の反対を押し切って正妃、そして国母に据えたのだから。だが、貴族たちの憤懣は「身分卑しき者を過ぎたる地位につけた」としてさらに燃え上がり……結局のところアリュエニスは天寿を全うできず、その産んだ皇太子も陰謀に斃れることとなったのだ。
「なるほどな。リリには、幸せになってもらいたいが……」
オーランの返事はない。その眉は、将来への心配に曇っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「……そうか。でも、ハディードはいい人。リリが望むなら、私は応援する」
フェレの反応は、オーランとは反対に好意的なものである。皇子を「いい人」で片づけるあたり、毎回持参してきたチョコレートのご利益であろうか。
「でも、彼が皇帝になった時、その隣に立つっていうのはそんなに簡単なことでは……」
「……好きになるってことは、そんなことじゃない。私はリドが平民でも貴族でも、ううん、王様だとしても、妻になりたいと思った。生命の危険があっても、いじめられて辛くても、大事な男性の傍にいるためなら、女は頑張れるもの」
「フェレ……」
ラピスラズリの瞳を潤ませてこんな告白をされたら、耐えられる男などいるだろうか。その小さな頭蓋を引き寄せ、薄い唇に自らのそれを熱く重ねる。その細い腰に腕を回したとき……背後から咳払いの音がして、慌てて身体を離す。振り向けばそこには、やや頬を桜色にしたリリが立っていた。
「ご主人様たちが私の心配をしてくれることは、ありがたく思っています。ですが、私の最も大事な方は、フェレ様……離れるようなことは致しません」
「……うん、リリの気持ちは信じてる、でも……」
「そして、ハディード様が私にお気持ちを向けてくださることなど、考えられません。たった今は初めての強行軍に心細くなっておられ、すぐ近くのものにすがりついているだけです。帝都にお送りしたら、一時の迷いから覚められるでしょう」
そう言って、リリは踵を返していった。ファリドとフェレは当惑したような視線を絡ませたが……言葉はもう交わされなかった。




