その頃愛娘は
「まあ、おそらくそう言うような事態が、モスル王都で起こったんだと思いますよ」
涼しい顔で説明するファリドの姿を、老軍師ラージフは信じられない思いで見ている。
「ま、まさか。一週間ちょっとの間に……」
「俺たちがこちらに来る際に、指示書を何通か置いてきましたからね。イスファハン三都からミラード将軍の一万五千を可及的速やかに出陣させること。そして部族軍には正規軍ミラード隊と合流したら、モスル王都目指して進軍すること。そしてメフランギス妃殿下には、イスファハン軍の総指揮をとり、カヴァ渓谷以北のモスル領の支配を確立することです。しかしさすがはみな優秀な武人ですね、理想のスケジュールで事を成し遂げてくれました」
何でもないことのようにファリドが言葉にする戦略に、口をあんぐりと開くしかないラージフである。確かにメフランギスもミラードも優れた将帥であろうが、その場に居らずしてこの勝利をもたらした眼前の若者に、凄さというよりもはや怖さを感じるのだ。
「だが、交渉が終われば、殿下は急ぎ帝都に凱旋なさる。もちろんその際には、貴殿ら二人を連れて、となるが……」
ラージフの眼が語っている、逃げるなら今しかないと。あんな神算鬼謀をなす頭脳があるなら、この陣から抜け出すことも出来ようと。砂漠地帯を越えてテーベ帝都まで連れ去られた後は、もはや簡単に還ることはできないのだぞと、言外に告げる。
「ああ、そうですね。ですが、ここで私たちが居なくなっては、ラージフ殿のお立場が、悪くなるでしょう。それに、テーベには一度旅をしようと、フェレと約束していましたからね」
ポカンと口を開けたラージフが、やがて弾けたように笑声をあげる。
「うわっはっは。そうか、これは貴殿らの、新婚旅行であったのでござるか。うむ、それではたっぷりとテーベの見どころなど、指南して差し上げよう」
そう、ファリドは逃げようと思えば、それが可能だった。陣中を自由に歩く間に、「ゴルガーンの一族」であるオーランの気配を、何度となく感じていたのだ。彼らの力を借り夜陰に紛れ抜け出せば、未だテーベの支配が確立していない混乱したこの地域のことだ、逃げ切ることは決して不可能なことではない。
だが、ファリドはそれを選択しなかった。それは、虜囚の身である彼らにあえて身体の自由を与え、心地良く過ごさせてくれたラージフに配慮したゆえである。フェレにも一応相談したのだが、彼女も同じ結論を出した。「……恩というのは忘れちゃダメ」という、いつか聞いたような説教付きで。
ラージフも、そのような機微を感じ取ったのだろう。その眼に感謝の色を浮かべつつ、何も言わず彼らの天幕を後にしていった。
「新婚旅行か……まだ、結婚式はしていないのだがな」
「……式なんかしなくても、もう私は……リドの妻」
自分で発した言葉に照れて、安定の仏頂面を崩してぽっと白い頬を染めるフェレの姿に、愛しさが募る。その細い腰を引きつけようとしたファリドが、ふとその手を止める。
「いるんだろ、オーラン? 覗き見は良くないぞ」
「バレてしまいましたか。いつものことながら主たちの親密なこと、うらやましいものです」
「モスルの状況はどう……」
「……そんなことより、マルヤムはどうしてる?」
天幕の布越しに、彼らを主人と定めた「ゴルガーンの一族」の低い声が聞こえる。戦況を聞こうとするファリドに、フェレが食い気味にかぶせる。オーランの低い含み笑いが漏れ、ファリドは苦笑いだ。
「……マルヤムは、ちゃんとイスファハンに戻ったんだよね?」
「若干申し上げにくいのですが……マルヤム様は、この陣近くに居られます」
「……前線に? どうして?」
「我々もさんざんなだめたのですが『フェレ母さんと絶対離れない』と。しまいに癇癪を起こして魔術を暴発させるに至っては、もはや連れて来ないわけにもいかず……」
二人は、眼を見合わせる。二人が虜囚となって敵国に赴く以上、もちろん愛娘を伴うわけには行かない。たとえこの一月やそこらの親子関係だったとしても、特にフェレの傾倒ぶりは、もはや溺愛レベルである。彼女の身に危険が及ぶことは、絶対に避けなければならない。そう思って安全なイスファハンに送り返したつもりでいたというのに、あの娘はフェレを慕い、敵地までのこのこ来ているというのだ。
「無理もないかも知れないな……」
そう、ファリドが思わず漏らした通り、あの半魔族娘がそんな行動に出るのは、仕方ないことかも知れない。長い間家族の愛に飢えていたあの娘にとって、突然現れて無限の愛をどばどばと注いでくれるフェレは、天から降りてきた慈愛の女神に等しいのだ。
だがその女神は、またぞろはるか異国に去ろうとしている。やっと手に入れた愛情が目の前から逃げていくことに抗うことは、彼女のような子供にとって、もはや生存本能がなせる業とも言えるだろう。
「だが、俺たちはテーベ帝都へ連行されるんだが……」
「マルヤム様は、帝都までもついて行くとおっしゃられて」
「……リド」
最上級のラピスラズリと見紛う瞳が見上げてくれば、ファリドが甘くなるのは、いつものこと。
「マルヤムには、リリとアフシン殿がついているのだな」
「はっ」
「ならば、身の危険は少ないだろう。だがこの先の砂漠地帯で、子供連れがテーベ軍に紛れて行くのは無理だ。どうせ俺たちはテーベ帝都に向かうのだから、マルヤムたちには商人として『胡椒の道』を使って迂回し、帝都に入るように伝えて欲しい」
ため息をつきつつ、ファリドは愛娘のわがままを受け入れた。フェレがへにゃりと微笑んで、彼の手をぎゅうっと握った。




