部族軍突入
「敵襲! 東方より、騎兵の集団が急速接近中!」
「何だと! 数は?」
「正確にはわかりません、間違いなく一万騎以上です!」
思わぬ大軍の襲来に、思わず息をのむテーベの王子ムザッハル。渓谷のこちら側で戦闘が起こることなど、彼の想定にはなかったことだ。上流側下流側とも騎行できる範囲の橋は、モスル側が王都を守るため全部落としていることを確認済である。万単位の軍を渡すような橋は、仮設するとしても二週間以上かかるはずなのだ。
その前提は、軍師であるラージフも同様である。後方からも側面からも攻撃される恐れなしと判断したからこそ、ひたすら前面だけを守る防壁を真っ先に築き、そこを起点とした一点突破を図る策を献じたのだ。
「くそっ、敵はどうやって……そもそもモスルにそんな大量の騎兵が残っているはずが……」
「殿下、今はそこを考えていても仕方ありません。そしておそらく襲い来たる軍はモスルの弱兵ではなく、イスファハンの精兵でありましょう。わが軍の全力を挙げこれを粉砕せねば、明日はありませんぞ」
「う、うむ、そうだな! よし、全軍、東方の騎兵部隊に向け、総攻撃だ!」
信頼する軍師の激励に鋭気を取り戻し、思い切った指示を下すムザッハル。しかし、この時すでに彼らの主力たるラクダ騎兵部隊は、「砂の絨毯」からの空襲で、組織的戦闘ができる状態ではなかったのだ。
それでも全体の二割……二千五百騎程度は優秀な将校が何とかまとめ上げ、敵の騎兵に向けようやく態勢を整える。
「よしっ、全軍突撃!」
正面激突時のラクダ騎兵は強い。そもそも馬より体重があり、体当たりすれば絶対に負けないのだ。加えて乗り手の位置が高いことで、槍でも刀剣でも戦闘に数段有利なのである。同数でぶつかれば無論騎馬の軍勢に負けることはないし、数で劣っても勢いを落とさずに突っ込めば、中央を突破することは容易だ。
敵軍を真ん中から分断し、混乱させて時間を稼いでいる間に、今は空襲でてんやわんやになっている者たちも、戦闘可能になるだろう。軍師ラージフのそんな助言は、決して誤ってはいない。但しそれは、敵に強力な魔術師がいない場合ならばだ。
あと二十も数えれば両軍が激突するそんなタイミングで、先頭を切って突撃する十数騎が、いきなり転倒したのだ。最大速度で追尾していた後方数十騎が、それに巻き込まれる。転倒が転倒を生み、混乱に陥りかけた部隊を、熟練の指揮官たちは最短時間で立て直したが……それは全軍を停止させることでしか為しえなかった。彼らは激突を前にして、騎兵本来の強み……速度を失ってしまったのである。
そしてそこに、シャープール率いるイスファハン部族軍一万五千が襲い掛かった。彼らは高さに勝るラクダ騎兵と打ち合うことをせず、ラクダの一部に一颯を浴びせただけで、全速力で駆け抜けた。一撃あたりのダメージは小さくとも、兵力は十倍近く、しかもテーベ軍は足を完全に停めている……一回の激突で、ラクダ騎兵二千騎程度が戦闘能力を失った。
部族軍はそのまま攻め手を緩めない。未だ混乱収まらず拠点の周囲にただ集まっているだけの部隊に向けて、速度をそのままに襲い掛かる。東西に流れる河沿いに集まるラクダ騎兵たちの南側を河と平行に掠めるように走り抜け、反転してまた同じように南側を駆け抜ける。
「いかん、散開して東西に逃げないと!」
ラージフの叫びは、もとより混乱している部隊に伝わることはなかった。そして無統率のまま南面を攻められた部隊は、無秩序に北に向かう。ことに浅く斬り付けられたラクダは、生存本能に従って狂ったように北に向かって逃げ走る。そしてラクダという生き物は、仲間に釣られて動く性質があるのだ。数千のラクダが騎手を乗せたまま北へ向かって暴走し……その行きつく先は、千尋の谷。
次々と、ラクダたちが騎手もろとも、はるか下の谷底に向かってダイブしてゆく。騎手は必死にラクダを崖から離そうと手綱を引くが、一旦暴走を始めたら最後、それを停めるのは至難の業。運よく崖の手前で己のラクダを停められたとしても、後から後から突っ込んでくる無主の騎獣に突き飛ばされ、結局は同じ運命を辿るのだ。
戦の帰趨は、定まりつつあった。
「くそっ、かくなる上は……」
「いけませぬ! 今日のところは負けを潔く認めて生命を保たれ、捲土重来を図られんことを」
「しかしこのまま故国には帰れぬ!」
「イスファハンの精強さと、あれほど強力な魔術師がいることを予測できなんだことは拙者の不覚。ですがまだ機会はございますぞ、イスファハン勢がいくら強くとも彼らはあくまで外様。モスルの連中は腐っております、この戦勝に驕って、必ず愚かな振る舞いに出てきます、拙者を信じて下され!」
最期の突撃を思い定めたテーベの王子だが、完敗した直後とは思えぬほど自信に満ちた軍師の言いように、ようやく思いとどまった。彼はわずか百数十騎に守られ、モスル南部の自軍支配地域に、悄然と落ちていった。




