治療
カシムにいざなわれた娘の部屋には、寝台が一つ。そこに横たわっているのは、娘……というには余りに哀れ、いやもはや醜悪と言ってもいい身体であった。
身体の内部をあちこち食い荒らされ、紫色の斑点があちこち浮き出た皮膚には、その下の肉体があまりに痩せてしまったがゆえに、老婆のように皺が寄っている。半開きになった口から浅い呼吸音が辛うじて聞こえるが、ともするとそれも途切れがちだ。
「これは……」
「娘……ナスリーンも、頑張ったのだが。さすがに、ここまで体力が落ちては……」
カシムが諦めたようにつぶやくのも、無理のないことだ。強い魔力を秘めたあの薬は、確かに寄生虫を駆逐するだろう。だが、疲れ、痩せさらばえ、生命力をほとんど失ったこの身体は、その強い薬の作用に耐え切れないのではないか。
「この二日ほどは、水を少し流し込んでやるくらいで、粥すら喉を通らん有様でな」
「確かに、この状態で魔法薬を飲ませるのは危険だな」
「残念だが薬は持ち帰ってくれ。ギルドに返せば、いくらかは返金してくれるだろうよ。こんな俺を気にかけてくれてありがとう、お前ら」
そう言葉を紡ぐカシムの表情は、穏やかに凪いでいた。
「うん? 返す必要はないぞ、カシム」
「いや、お前もこの状態で薬を飲ませるのは危険だと……」
「ああ、生命力が極端に減退したこの状態では、な。なあフェレ、やるべきことは、わかるな?」
ファリドの言葉に、フェレがゆっくり大きくうなずく。彼女は寝台に歩み寄ると、娘の顔をしばらくじっと見つめ、「ごめんね」と一言漏らすなり、己の唇を娘の荒れたそれに重ねた。
「お、おい、何を……」
やめさせようと義手を伸ばしたカシムが、凍り付いたように動きを止める。彼にも見えたのだ、フェレの身体を蒼い魔力のオーラが包み、それが徐々に、愛娘の身体に注ぎこまれていく、その様子が。
「ぼ、坊主、これは何だ……」
「フェレの魔力はもちろん魔法の顕現に使えば強力だが、もう一つ原始的な使い道がある。相手の身体にそれを直接注ぐことで、生きる力を与えるんだ」
「な、ならば、もしかしたら……」
「娘さんは生き延びるさ。ここまでやったんだから、生きてもらわないと、困るんだ」
どれだけ長い間、フェレは娘にその唇を与えていただろうか。彼女が再び頭を上げた時には、娘の身体が薄白い光を放っていた。不規則だった呼吸は、一定のピッチを深く刻むようになっている。魔法薬の蓋を無造作に外したフェレはそれを自らの口に含むや、また唇を娘に重ね、ゆっくりとその口腔に流し込んだ。娘ののどがこくりと小さく動き、魔法薬を嚥下してゆく。
そして娘が、その眼をゆっくりと開いてゆく。その眼の焦点が、己を気遣わし気に見下ろすラピスラズリの瞳に合った時、娘はかすかな、しかししっかりとした声を絞り出す。
「めがみ、さま……」
「ナ、ナスリーン!」
久方ぶりに声を発した愛娘に感極まったかのようなカシムが、枕元に走り寄る。
「お父、さん……私、生きてる……」
「そうだ! 生きてるんだ、これからもずっと、父さんよりずっと長く、ナスリーンは生きていくんだ! この、女神さんのおかげで!」
「う、うん、がんばる……」
娘が、柔らかく微笑む。いつも余裕たっぷりの笑みを浮かべていたはずのカシムが、今やぼろぼろと頬を濡らして、フェレへの感謝を繰り返している。彼らが感謝を捧げているその女神は、いつもの仏頂面じゃなく、本当の女神であるかのように、優し気な表情を向けていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「すまん、いや、ありがとう。もう一度ナスリーンの声が聞けるとは……」
「このまま薬を飲ませて、栄養のつくものを食わせていれば、毎日でも聞けるさ。これを置いていくからな」
ファリドは革袋を、テーブルに置く。中には、多分半年くらいは働かずに食える金貨が入っている。カシムへのいまいましい気持ちは消えないが、ここまで手を差し伸べたのであれば、最後まで面倒を見ずばなるまいと割り切ったファリドである。
「何から何まで……済まねえな」
「だからと言って、あんたを許したわけじゃない。フェレがそうしたいと言ったからだ」
「お熱いことだな。で……救国の英雄夫妻は、これからどこへ行くんだ?」
「まずはモスルだ。テーベの侵攻を、防がねばならないからな」
ファリドの言葉を聞いたカシムは何か思いついたように立ち上がり、質素なキャビネットを義手で器用に開けると、中から小箱を取り出した。美しい象嵌が施されたそれは、それ自体にかなりの価値がありそうだ。
「嬢ちゃん、開けてみな」
フェレがそっと蓋を開けば、そこには一つの腕環。銀色に輝く幅広の環にテーベ風の紋様が彫刻されており、青と赤それぞれ一粒ずつの小さな宝石が、アクセントを添えている。
「……綺麗」
「嫁の形見だが、嬢ちゃんにやる。もしテーベに行くことになって、何か困ったことがあったら、それを見せてみるといい」
「……でもこれは、カシムの大事なもの」
「そうだな。だが、嬢ちゃんと坊主は、嫁が遺したもう一つの、もっと大事な形見……娘を救ってくれた。だからそれはもう嬢ちゃんのものだ」
腕環を手にしたフェレは、それをぎゅっと胸に抱いてから、左腕にはめる。
「……ありがとう、必ず、大事にする」




